2023年01月07日

日本の地下鉄、テクノロジーが進んでいる

 YouTubeチャンネルの『Life Where I’m From』は、東京都交通局に取材協力を得ながら、都営地下鉄に導入されているテクノロジーを海外向けに紹介している。地下鉄のホームに立つと、ちょっとした技術が興味を引くこともあるようだ。ホームの安全確認のために天井から吊られた監視モニターや、オンラインで発行できる遅延証明書などのしくみは、かなり珍しく思えるようだ。近年では各駅にホームドアの設置が進む。列車のドアには外向けにQRコードが貼付されており、これをホーム上のカメラで読み取り正しい停車位置が確認できた場合のみ、ホームドアが開くしくみだ。

 また、多言語対応が進み、海外からの訪問者の人々でも乗り換えがわかりやすくなっている。インサイダー誌は車内ドア上の案内表示を挙げ、日本語だけでなく英語でも以降の停車駅や乗り換え駅などの情報が流れていると紹介している。見慣れた工夫だが、ちょっとした表示が心強い助けになっているのだろう。

 日本で生活していると当たり前にも思えてしまうが、きっぷに子供料金があるのは新鮮に思えるようだ。また、世界の地下鉄には一律料金となっているものも多いなか、日本のシステムは距離に応じた金額となっている。これらを総合して米インサイダー誌は、「日本では地下鉄の乗車料金はリーズナブルだった」としている。

 インサイダー誌は、日本の地下鉄では、乗車時のマナーが比較的守られている事に驚いているようだ。きちんと列が形成されているため、電車到着の際の混乱が少なかったと述べている。列車の種類に応じてどこに並べばよいかプラットフォームにマークで示されており、これも混乱の軽減に一役買っているのではないかと記者は言う。ニューヨークの地下鉄の場合、とくにラッシュアワーでは、電車めがけて方々からダッシュで駆け寄ることが多いようだ。

 日本の鉄道は、世界でも稀に見るほどの正確性で運行されている。地下鉄も例外ではない。実際には多少の遅れは起きることがあるが、海外の平均的な地下鉄よりはかなり正確のようだ。

 インサイダー誌(2020年6月16日)の記者も、「これまで乗ったことのあるほかの(輸送)システムよりも、タイトなスケジュールで運行している」にもかかわらず、経験した限り時間通りだったと振り返る。「とくに過去にニューヨークに住んでいた身としては、あれほど正確に走っているのはほとんど信じられない」との感想だ。

 米ワシントン・ポスト紙(2016年4月18日)は日本の地下鉄について、「もしも1分でも遅れようものなら、駅員が拡声器を使い、不便を生じたことを心からお詫びする」と紹介している。また、日本では電車で寝ている人をよく見かける。到着予定時刻にタイマーをセットし、バイブレーションで起きる人もいるが、これも時間に正確な日本の地下鉄がなせる技だと同紙記者はいう。

 ワシントン・ポスト紙は、清掃スタッフが頻繁に掃除機をかけていたり、手すりを消毒していたりするのを見かけると述べている。多くの人が出入りする公共施設でありながら、清潔な駅構内にも驚くようだ。また、これは日本の道路についてもよく聞かれる評だが、ゴミ箱がまったくないのにゴミが一切落ちていないことも不思議な光景だと同紙は述べている。同紙は多くの駅で小鳥のさえずりの音響も流されていたとしている。駅では目の不自由な方を導くための盲導鈴が聞かれるが、もしかするとこれを快適なBGMだと勘違いしたのかもしれない。

 いずれにせよ日本の交通機関での清潔さには定評があるようだ。ニューヨークのあまり小綺麗とはいえない駅と対比しユーザーは、YouTubeのコメントに「東京には4年住んでいるが、どの交通システムもベストだ」と述べていた。


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2023年01月01日

叙勲

バーナード・リーチは1974年に国際交流基金賞を受賞し、その際に日本に招かれ、我孫子のゆかりの人として、ロータリークラブで記念碑を建てている。

1963年に大英帝国勲章(Order of CBE)を受章し、1977年、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館はリーチの大規模回顧展を開いた。が、リーチはその2年後の1979年にセント・アイブスで死去した。

イギリスの叙勲システム(一部)
ガーター勲章:イングランドの最高勲章で、イギリスの王族や首相経験者、外国の国家元首などに送られる
バス勲章:トップクラスの軍人や官僚に送られる
大英帝国勲章は5等級に分かれている

コンパニオンズ・オブ・オーナー勲章(65人に限定、受勲者は名前の後にCHを付けることを許される)
P。McCartneyは英英国・コンパニオンズ・オブ・オナー勲章(2018年)

ナイトまたはデイム(騎士の爵位。受勲者はサーまたはデイムの敬称を使うことを許される)
P。McCartneyは英国・ナイトの爵位(1997年):エリザベス2世より音楽への貢献が認められ授与された。

コマンダー(CBE、司令官)
オフィサー(OBE、将校)
メンバー(MBE、団員)
大英帝国勲章第5級勲位(MBE:Member of the Order of the British Empire)(1965年):ビートルズとして叙勲。
フランス・レジオンドヌール勲章オフィシエ(将校、4等)(2012年)[73]
このほか、文化部門で活躍した人に送られる大英帝国メダル(BEM)、外交官などに送られる聖マイケル・聖ジョージ勲章などがある。
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2022年11月12日

ソウルの国立現代美術館で、「柳宗悦展」

 韓国・ソウルの徳寿宮美術館(国立現代美術館分館)で25日から、朝鮮美術を愛した日本人民芸運動家の柳宗悦(1889―1961)が収集した美術品などを集めた「柳宗悦展」がスタートする。柳が創設した日本民藝館の所蔵品や資料139点が展示される。

 1916年に柳が初めて朝鮮半島を訪問し、釜山の古物商から購入した「鉄砂雲竹文壺」などの朝鮮工芸品や、日本の木喰(もくじき)上人作の「虚空蔵菩薩(ぼさつ)像」など多彩な作品が展示される。

 1919年に朝鮮半島で三・一独立運動が起こると柳は読売新聞に「朝鮮人を想う」と題する文章を連載し、独立運動の正当性を訴え、朝鮮総督府による朝鮮人弾圧や同化政策を批判した。同展ではその翌年に雑誌「改造」と韓国紙の東亜日報に掲載された「朝鮮の友に贈る書」も展示される。

 会期は7月21日まで。


出典HP 2013年/5/23総合ニュース https://jp.yna.co.kr/view/AJP20130523003800882
https://s.japanese.joins.com/JArticle/172433
https://japanese.joins.com/JArticle/172433
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2021年05月07日

真理と美を愛する精神〜民芸運動の父・柳宗悦〜

高崎哲郎氏が、柳宗悦について、我孫子での民藝に向かう変化の兆しをその生まれ、人減関係などを通して次のように書いていたので、紹介しておきたい。


戦前、手賀沼周辺(今日の千葉県我孫子市)の閑静な高台に著名な作家、芸術家、学者らが居を構えていていた。「手賀沼文化人」である。「手賀沼文化人」の中で、私にとって、その豊饒な多方面にわたる天才性ゆえに最も論じにくいのが柳宗悦(1889〜1961)である。だが、柳宗悦の高邁な哲学的かつ芸術的精神は後世に伝えるべきである、と考える。宗教哲学者、思想家、美学者、文学者そして、それよりも「民芸運動の父」として知られる人である。

大正期、東京から常磐線で1時間足らずの田園地帯に広大な自然の広がる沼畔があって、東京の作家、画家、知識人らが「都会の喧騒から離れた思索の地」として目をつけた。イギリス人陶芸家バーナード・リーチが柳邸に仮寓し、日英の友情の絆を深め、浜田庄司との出会いもここ我孫子の地だった。我孫子の地は、宗悦にとって妻兼子との新婚時代を過ごした地であるとともに、初めて自らの家庭を築いた地、つまり家族の絆を築いた場所である。「白樺」同人である志賀直哉、武者小路実篤を我孫子に導き、生涯にわたる絆をここで結んだ。柳宗悦にとって我孫子は「出会い」と「絆」の地であった。

民芸運動の指導者・柳宗悦の夫人は声楽家・兼子、柳の伯父にあたる東京高等師範学校(東京教育大学を経て現筑波大学)校長・柔道家・嘉納治五郎、他に、中勘助、滝井孝作、「朝日新聞」記者・文明評論家杉村楚人冠など、日本の代表的作家や思想家、芸術家たちが暮らしていた。

柳は学習院高等科のころ、同級生と同人誌「白樺」を創刊した。紙面の美術面を主に担当し、宗教哲学、心霊学についての論文を相次いで寄稿する。「科学と人生」(1911)を東京帝大哲学科在学中に刊行する。1913年、同大哲学科を卒業し、翌年、東京音楽学校(現東京芸大)卒の声楽家・中島兼子と結婚する。恋愛結婚であった。

柳は学生時代からイギリスの詩人・画家ウィリアム・ブレークに深く傾倒し、我孫子に来た1914年、「ウィリアム・ブレーク」を出版した。そして、神秘主義の研究は宗派を超え「宗教とその真理」(1919)、「宗教的奇蹟」(1921)と順を追って研究をしていた。

しかし、我孫子に転居した9月に朝鮮在住の浅川伯教が来訪、つづいてその弟・巧の兄弟と親交を結び、朝鮮を数次にわたって旅行し、日本の朝鮮政策を批判する文章を発表した。さらに1922年には光化門取り壊しを聞き知って、反対の文章「失はれんとする一朝鮮建築のために」を雑誌「改造」に発表した。1919年の朝鮮の独立運動弾圧に対して、有識者が声を上げぬのに業をにやして、「朝鮮人を想う」、「朝鮮の友に贈る書」を発表。1923年の関東大震災での朝鮮人虐殺を悲しみ、1924年にはそれまで集めていた朝鮮美術を携えて京城景福宮緝敬堂(しゅうけいどう)に朝鮮民族美術館を開設した。

我孫子から転居後には、「宗教の理解」(1922)、「神に就いて」(1923)を経て、戦後、仏教論「南無阿弥陀仏」(1955)に向かい、初期のキリスト教から仏教(主に浄土真宗)に関心が移る。両者に通底するものを追い求め続けたことは後年の「神と仏」(1956)に明らかである。白樺派の彼らの精神に通底するものは知識人としてのヒューマニズムまたはリベラリズムと言っていいだろう。この水と緑の豊かな湖畔は彼ら知識人に静寂と思索の場を与え、代表作や秀作を生ませたのである。

1926年、陶芸家浜田庄司、同河井寛次郎とともに高野山を旅して「日本民芸美術館」設立の構想を得て、設立趣意書を発表した。すぐれた器の収集や実作の調査に乗り出し、1931年に雑誌「工芸」を創刊して1949年までに120冊を出した。これらの冊子は、軍国主義に転落していった日本にあって、柳の守ったけじめを示している。大原孫三郎から寄付を得て1936年に日本民芸館を創設した。

敗戦後の1948年京都の相国寺で行った講演「美の法門」は美と醜の区別を超えて世界を見渡す視野の成立を説いて、仏教の信仰に根を下ろす美意識のあり方を示した。これは「妙好人因幡の源左」(1950)、「仏教と悪」(1958)、「心偈」(1959)に連なる仕事である。
救いを求める庶民と仏教の在り方を常に問うた。


参照HP:https://www.risktaisaku.com/articles/-/4459?page=2


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2021年04月02日

日韓関係を振り返る

韓国外交省が3月29日に外交文書を公開した。1990年5月の盧泰愚(ノテウ)大統領(当時)訪日に先立ち、天皇陛下(現在の上皇さま)に植民地支配をめぐる「具体的で強いおわび」を求める方針を立てた韓国政府内の討議の様子が詳しく記されていた。

 文書は同年4月に作成された内部資料。宮中での歓迎晩餐会の場でのおわび発言について、84年の全斗煥(チョンドゥファン)大統領の訪日時より「さらに具体的で強い内容になるよう交渉する」と記されていた。そのうえで天皇陛下への訪韓要請と「連携して対応する」とした。文書で韓国外務省(当時)は「未来志向の関係のため」にはおわび発言が必要だと指摘。実現しない場合、「韓国国民は決して納得しないだろう」と強調した。

 全氏の訪日時、昭和天皇は植民地支配について「誠に遺憾であり再び繰り返されてはならない」と語った。90年に盧氏が訪日した際、天皇陛下(現在の上皇さま)は「貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、痛惜の念を禁じえない」と述べた。韓国側はこれを十分だと判断したようで、盧氏は日本滞在中、天皇皇后両陛下に韓国訪問を要請していた。



出典:(4/2)
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2021年03月26日

What a happy happening ! 

目玉焼きを作ろうとたまごを取って、割りました。するりと二個の黄身がでてきて「あ、ふたご」と驚きました。

CIMG5521.JPG

ひとつで二個たべられた、ちょっと食べるのが惜しい気がしましたが、あまりもののニンジンと大根のしっぽで作ったピクルスと一緒にいただきました。

CIMG5523.JPG

卵の周りの猪口にあるのは、ニンジンの水栽培です、時々、つまんでスープやサラダの色どりに使ってゐます。ニンジンの香りと味わいが強いので色どりと味のアクセントになります。
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2021年01月07日

『柳宗悦と朝鮮・自由と芸術への献身』

 朝鮮工芸品への愛情、そして日本植民地下にあった朝鮮民族の自由を願った柳宗悦の生涯について、在日2世の美術研究家・韓永大氏の連載「柳宗悦と朝鮮 自由と芸術への献身」をする。これまで未発表の資料も取り入れながら、柳宗悦の全貌に迫る一大企画だ。著者の韓永大氏が、本連載の意図などを寄稿してくれた。

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 アジアとりわけ朝鮮の自由と芸術に深い理解を有していた柳宗悦(1889〜1961)について、本誌に連載することが出来ることは筆者の大きな喜びである。

 柳の朝鮮工芸品への傾倒と愛情、それへの限りない歓びと慰めの感情表現は、柳の重要な一部分である。柳は朝鮮の宗教、特に石窟庵仏教彫刻から深い宗教体験をし、「慄(りつ)然と慄(おのの)きの、霊の異常な閃きを身に感じた」と語っている。こうした点は読者と共に味わいたい大切な点である。

 柳は朝鮮民族には生来、優れた工芸品を生む能力があると指摘した最初の外国人であり、その能力が失われつつあることを「世界的損失」と表現した。

 彼はやがて植民地下にあった朝鮮民族の将来の再生を願って、あらゆる日常生活の工芸品を収集し、ついには朝鮮民族美術館まで設立(1924)したのだったが、妻子の犠牲も省みずこれを成し遂げたこの人物の理想と熱情には、深く心打たれるものがある。

 柳は1914年秋、浅川伯教(のりたか)の訪問を受けたことが縁で朝鮮陶磁への本格的関心を有したとされている。浅川はロダンの彫刻を見に行ったのだが、なぜいきなり初対面の人に数点もの朝鮮陶磁を持参したのか、疑問が残る。

 これは浅川の彫刻の師・新海(しんかい)竹太郎の介在が考えられる。柳が関係していた『白樺』のロダン特集号(1910年11月号)に、新海と柳が共に小論を寄稿するという顔見知りの間柄であり、新海はこの時すでに柳が朝鮮白磁を買う(1909)など柳の朝鮮陶磁への関心を知っており、このことを入門してきた浅川に伝えたためと推測される。

 柳はまた、実践の思想家、行動する哲学者として、「発言の自由のない朝鮮人に代って」行動したことでも知られる。1919年5月の「朝鮮人を想ふ」発表以来、朝鮮の自由と独立を一貫して主張し、時の日本当局の植民地・同化政策を公然かつ大胆に批判し続けた行動の数々は、今さら多言を要しない。『朝鮮とその芸術』序文(1922)は実践家としての柳を象徴するもので、その一文は今なお格調高く力強い。

 柳のこの行動力は叔父の嘉納(かのう)治五郎(講道館柔道で有名)の影響と共に、カントの認識論(いわゆる三批判書)によるものであろう。柳は結婚前、妻となる中島兼子に「カントの認識論に心おどらせて」おり、深い感銘を得たことを告白している。

 柳の東洋とりわけ朝鮮との平和を重視する思想の淵源が奈辺にあるかも謎のままである。筆者はこの点、柳家や嘉納家との間にある勝海舟(1823〜1899)との歴史的な人間関係を看過出来ない。嘉納治郎作(柳の母方の祖父)と海舟とはペリー来航直後の1855年からの古い関係があり、海舟は物的援助を受けている。柳の父・楢悦(ならよし)と海舟とは長崎海軍伝習所以来の師弟で、明治新政府でもその関係は続いた。柳の母・勝子の名は海舟の名に因(ちな)んでいるが、その弟の嘉納治五郎も海舟に親しく指導を受けている。

 治五郎の妻は須磨子だが、その父は竹添進一郎で、朝鮮の甲申政変(1884)の時の日本国公使であり、海舟との関係はやはり親密である。

 この甲申政変に金玉均、朴泳孝らと共に参加しているのが尹致昊(ユンチホ)(1864〜1945)で柳がこの尹致昊に対面(1920)しているところに近現代史上の重要な意味がある。
 柳には海舟の東洋和平の思想が多分に反映されていると考えている。


韓永大;1939年岩手県生まれ。在日2世。上智大学卒。著書に「朝鮮美の探求者たち」(未来社)、訳書に「朝鮮美術史」(A・エッカルト著、明石書店)。美術史学会員。本誌に「新羅・伽耶の不思議」十回連載(2000年2月〜2001年1月)。


出典:東洋経済日報(2004)
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2020年07月07日

柳宗悦の原稿、再発見

民藝研究家、柳宗悦(1889〜1961)が1922年、日本植民地下で光化門が撤去される方針に反対して東亜日報へ送った寄稿文のなかで、日本の事前検閲によって載らなかった内容が見つかった。

「仮に朝鮮が発展して日本が衰退し、日本が朝鮮に併合されて宮城(江戸城)が廃墟となり、代わりにそこへ広大な西洋風の日本総督府の建物が建てられ、あの碧の堀を越えて高い白壁がそびえる江戸城が壊されるのを想像してみよ」

国外所在文化財財団(チェ・ウンチョン理事長)は、柳が光化門撤去に反対し、1922年7月に作成した直筆原稿が、東京の日本民藝館で最近発見されたと7日、本紙に明かした。「失われんとする朝鮮建築のために」という題名のこの原稿は、1922年8月24〜28日、東亜日報1面に5回にわたって掲載され、光化門撤去反対の世論を呼び起こす決定的契機となった。

直筆原稿には、日本の事前検閲によって新聞に載らず、同年日本の雑誌「改造」9月号に載った200字原稿用紙2枚の分量の内容も含まれていた。文化財庁文化財委員長を務める成均館大学のイ・サンヘ名誉教授は「光化門の美しさを追悼するかのような悲しい描写で撤去に反対した柳の文章は、当時の韓国人の琴線に触れた。日本は光化門を壊して朝鮮の象徴を抹殺しようとしていたのをやめ、光化門は元の位置ではないが移動して命は保たれることになった」と話す。

「君(光化門)をよく知っている人は発言の自由がなく、君を生み出した民族の間でも不幸なことに発言の権利を持てないでいる。しかしながら、沈黙のなかで君を葬ってしまうことは私にはとても耐えがたい悲惨なことだ」

柳の原稿は植民地の文化財の運命と国を奪われた者たちの苦痛に深く共感する絶唱だ。柳は日本が朝鮮に併合され、江戸城が壊されるなら「間違いなく日本のすべての人がこの無謀なことに怒りを感じるだろう。しかしながら、このようなことが今京城で、強要された沈黙の中で行われようとしている」と告発した。

柳は「私は君(光化門)を生んだ民族がその堅固な花崗岩の上を深く削って祈念する永遠の彫刻のように、君の名前と姿と霊を決して消えないように刻もう」と書いた。総督府の建物の新築については「何の創造の美も持たない洋風建築が突然この神聖な地に侵攻してきた」と批判した。

朝鮮総督府は1920年代、景福宮興禮門区域を壊して総督府の建物を建てるにあたり、その前をふさぐ光化門を撤去しようとし、結局1926年、景福宮の東側の建春門の北側に移動した。イ・サンヘ教授は「光化門がなくなっていたら、原形の復元は難しかっただろう」と話す。

実際、扁額の変更は4回目だ。1度目は、1950年にはじまった朝鮮戦争で、光化門は爆撃によって焼失してしまった。2度目以降は韓国人のミス。朝鮮戦争でなくなった光化門を建て直したとき、朴元大統領が扁額の「光化門」を、漢字ではなくてハングル文字で書いた。その後、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権のときに「朴正煕が書いた字を外そう」「違和感がある」といった声が上がって、この扁額は降ろされた。3度目の変更は2010年で、そのときは漢字で「光化門」と書いたが、2カ月で大きなひびが入ってしまった。このときは「手抜き工事だったのでは?」と問題になった。さらに「扁額の色がおかしい」という指摘がされる。掲げていた扁額は「白地に黒文字」になっていたが、本来は「黒地に金色の文字では?」という声が上がってきた。韓国文化財庁は、「白地に黒の文字で合っている」と説明していたが、後日談で、文化財庁が「やっぱりこの色じゃなかった。黒地に金色の文字でした。」と認め4回目の変更となった・・・という具合だった。


それでも、国外所在文化財財団は2014、15年に日本民藝館所蔵の韓国の文化財を調査し、その後、東京芸術大学の関連研究を支援してきたおかげで、今回の調査に参加した日本民藝館の杉山享司学芸部長が「日本民藝館の学芸員たちも(柳の直筆)原稿の存在は知っていたが、検閲された部分を把握し、その意味を考察し、確認したのは初めて」と説明した。これに先立って財団は最近、東亜日報に当時の資料(柳の原稿)が存在するのかを問い合わせていた。

(2020年6月8日付東亜日報 チョ・ジョンヨプ記者)

(翻訳・成川彩)


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2018年07月08日

NHKニュース(2001)、兼子さんの歌声発見される

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2018年05月13日

雨の日の出来事@我孫子駅前

 まるで、「我孫子から」を書いた柳宗悦のように、目にした光景を書き留めておきたい気持ちになった。

 母の日、娘は孫を連れてやってきた。この間はまだ、靴を履いてもおぼつかない歩き方だったのに、おっとととなるが随分と上手にあちこち家の中を探検してまわって、ご機嫌に引き出しや棚のモノを手にしては、次々に床にほおり出していく。にこにことご機嫌な笑顔だから、怒るわけにもいかない、小台風がとおりさったかのようだが、他愛無い。皆こんなふうに大きくなるのだ。

 94歳になる母のいる「ゆめみ野」の家にも、曾孫を連れていくという、相変わらず優しい子だと思う。ピアノを弾いたり、日本画を描いたり、海外スケッチ旅行をしたり、90才まで車の免許を更新すると言い張っていた、さすがに自粛したけれど。行けるところが限られて、さすがに生きているのに辛いとも言う時期があったが、それも自粛して、言われた通りのこさず食事・おやつを食べて、時折のデイサービスに出かける。車いすを押して貰うまでになっていないが、手押し車を押してゆっくり歩く。そして、「時間が無駄だからお見舞いなんかに来なくていいよ、でもありがとう、来てくれて、気を付けて帰りなさい」という。もう、会話はいつも同じになってしまう。でも、曾孫を連れてくる新米ママは来月から、職場復帰するという。時代は変わった、男女の関係も、社会の女性へ期待する目も変わってきた。
夫の影を踏まずに歩くなどの意味ももう解釈できる人は、孫を持つ世代でしかわからないだろうし、そんな事をする必要がどこにあったのかわからないだろう。

 しかし、駅前で見た光景は、人の優しさは変わらないのだなと思わせるものだった。

 雨の駅前を傘をさして、窓をおんぶして荷物を山盛り持つ娘を駅の改札まで見送った。そして、道を渡ろうと左右を見極めていると、スーパーの角の段差に気づかず転倒した高齢者がいた。荷物をたくさん持って傘をさしていたから、足を滑らせたようだ。すぐに立ち上がることも出来ない様子を見て、手を貸そうとそちら方向に体が向かうと同時に、高齢者のそば近い所にいた若者がおじいさんに手を貸して体を起こしてあげた。すると私と同時にそれぞれ おじいさんの転倒した姿を認めた人たちが、その人たちの傘の幾つかが動き出して、5、6つ程の傘がおじいさんの周りに輪のように次々に集まってきて、手を貸したり、荷物をおこしたり、「大丈夫ですか」「ありがとう」の言葉が飛び交った。おじいさんがすっかり荷物を手にしたころには、自然に傘が何事もなく、もとの場所に散っていった。我孫子だから、今どきも若者も男性も女性も思いやりの行動を起こす、そうした光景を目に出来る街なんだと、ここに住んでいることに、小雨のお蔭で気づかされたと思ってしまった。

 きっと、柳宗悦は我孫子の家で待つ、新妻・兼子に、車中での微笑ましい光景を話したに違いない。なぜなら、私も娘を送る車を運転してきた夫に、傘が輪のように集まった光景を話したからだ。捨てたものじゃない、世の中に人の優しさが続く限りは・・・。




















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