2014年10月14日

バーナード・リーチと尾形乾山

ニューヨークに、メトロポリタン美術館があり、世界の美術品が展示される。その中には尾形光琳の『八橋図』、六曲屏風二隻、『波涛図』、二曲屏風一隻も収められている。

その尾形光琳の弟がバーナード・リーチの陶芸の師となる六代目の祖先・尾形乾山(1851-1923 )である。
日本で最初の人間国宝の認定を受け、文化勲章をうけた富本憲吉とともに六世乾山に師事し、七世乾山の皆伝目録を受けたバーナード・リーチだ。

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尾形光琳は、後代に「琳派」と呼ばれる装飾的大画面を得意とした画派を生み出した始祖であり、江戸時代中期を代表する画家のひとりである。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。フェノロサはそんな光琳を「世界最大の装飾画家」とまで呼んだ。

初代・尾形乾山(1663-1743)は江戸大奥や東福門院などの御用を勤めた京都第一流の呉服商雁金屋尾形宗謙の次男で、その弟・乾山によれば光琳は絵にこそ自分の天分があるといつも言っていたという。兄は何を描いてもそれが即模様になっているところが並の絵師とは違っていて、京焼の代表的名工,画家・野野村仁清と光琳が自分の師であると書き残している。

当時のファッションの先端だった呉服商に生まれた光琳は当然のようにそこからデザインの影響を大きく受けており、少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しんだこともよく知られている。絵はもともとは趣味として狩野派の流れをくむ山本素軒に師事したとされるが、その時期等はくわしくわかっていない。

そこで、尾形光琳と乾山について、江戸のころの時代へと歴史を辿ってみたいと思う。
尾形道柏(光琳の曽祖父)の代に染色業を始めたという。道柏の夫人は本阿弥光悦の姉であり、光悦と光琳は遠い姻戚関係にあることになる。道柏の子・宗柏は光悦流の書をよくする風流人であった。呉服商雁金屋は慶長年間には高台院、淀殿、徳川家康、徳川秀忠および同夫人江など当代一流の人物を顧客としていたが、宗柏の時代には東福門院(徳川秀忠娘、後水尾天皇中宮)の用を務めるようになった。

光琳は公家、大名、役人など、多くのパトロンをもっていた。五摂家のひとつ、二条家の当主で摂政・関白を務めた二条綱平の屋敷にはたびたび出入りしていることが記録からわかり、前述の法橋位が与えられたのも、綱平の推挙によるところが大きかったと推測されている。また、京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助 (1669–1730) とも親交があり、光琳は内蔵助の肖像画(現存、大和文華館収蔵)を描いている。光琳は中村内蔵助の娘を引き取って数年間養育し、その娘は後に光琳の息子と結婚するなど、光琳と内蔵助の関係は単なるパトロン、援助者という以上のものがあったようである。(紅白梅図屏風の性的な解釈で有名な小林太市郎は、「光琳と乾山」(『世界の人間像』第7巻、角川書店)の中で、「内蔵助が光琳の愛人たることは毫もうたがう余地がない」と断定的に推測した。)

兄が継いだ呉服商雁金屋が経営状態がわるくなると、光琳は江戸詰となった中村内蔵助を頼り、宝永元年(1704) 頃、江戸へ下った。つまり、光琳は経済的には貧窮していたようである。江戸では姫路藩主酒井家から扶持を得、また、津軽家や豪商の三井家、住友家、冬木家(江戸深川の豪商)などともつながりがあったため、作品を納めるツテが出来たようである。

弟・乾山も江戸に出て陶芸で仕事を行なうようにとなっていた。作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、オランダのデルフト焼きの影響を受けて成ったと言う作品を含めて、現存する作品で認定されるものは僅かとされる。

乾山は裕福な家に生まれはしたものの、内省的で書物を愛し隠遁を好み、霊海・逃禅などと号して地味な生活を送った。元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、乾山は早くから光悦の孫の光甫や楽一入から手ほどきを受けていたこともあり、仁清から本格的に陶芸を学んだようだ。

37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えた為ここに窯を開く。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号し、出来上がった作品に記した。正徳2年(1712年)50歳のとき京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、多くの作品を手がけた。乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多い。

享保16年(1731年)69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住んだ。元文2年(1737年)9月から初冬にかけて下野国佐野で陶芸の指導を行う。その後江戸に戻り、81歳で没した。

乾山の名は2代、3代と受け継がれていった。6代乾山(1851-1923年)はバーナード・リーチの師ということになる。さらに、この乾山との縁により、後に再来日を果たしたリーチは「佐野乾山贋作事件」に巻き込まれることになるが、詳細については、大島一洋の「芸術とスキャンダルの間 (第5章)」、大宮知信『スキャンダル戦後美術史』、(2006年発行)に譲ることにする。

参照:Wikipedia
posted by その木なんの気、柳の気 at 12:33| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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