2015年03月18日

上野は維新後の時代に最先端をいった

桜の名所として有名な場所といえば、上野公園だろう。江戸時代より、上野の山全域において東叡山寛永寺の造営が始まり境内が公開されると、上野の山は花見の名所として、不忍池は蓮の名所として賑わいを見せた。 しかし、上野の寛永寺は戊辰戦争で全焼し、荒れ果てていた。東京都の管理下に置かれたが、木を切り倒して茶畑や桑畑にしたり、不忍池を埋めて水田にしようという案があるほどだった。そこで文部省がここに医学校と病院を建てる計画を決めた。 ちょうどその頃、上野を訪れる機会のあったオランダの医師ボードインが、まだ十分に残っていた上野の山の自然を見て、いくら学校や病院のためとはいえ、これだけ見事な自然を損なうのはもったいない、これは将来のためにも公園として残すべきだと進言して、すでに始まっていた病院の基礎工事は中止されることになった。上野の山は、維新政府太政官布達により日本で最初の公園のひとつになった。 ボードインがいなければ現在の上野公園はなく、大噴水池の横には、上野公園の生みの親ともいうべきボードインの像が建っている。
国内初の公園に指定されると、荒れた山も整備され、天皇も出席して盛大な開園式が行われた。1876年、日本の西洋料理の草分けである精養軒が築地より移転して、公園開設時より営業する。明治10年(1877)年には日本で最初の博覧会である第1回内国勧業博覧会が開かれ、国内から工芸品八万四千点が展示される。それまでにない博覧会というものに人々は新鮮な衝撃をうけ、五ヶ月で45万人の人出でにぎわう。その後にはお雇い外故国人建築家の設計によって日本で最初の博物館、動物園が開設、国内最大級の文化施設が集積する今日の上野公園を形づくるようになってきた。博物館(現在の東京国立博物館。煉瓦造りジョサイア・コンドルの設計)の開館。初の動物園の開館には、当時91種の動物がいた。東京藝術大学の前身、東京美術学校と東京音楽学校が開校し、多くの芸術家を育てる。
 後に柳宗悦の妻となる、中島兼子も前途有望な音楽学校の学生となった。当然、帝大生だった宗悦は、兼子に会いたさに、何食わぬ顔をして待ち伏せまでしたとのことだ。バーナード・リーチも奇しくも音楽学校に近い桜木町に家を建てて住んでおり、兼子も時々リーチの姿をみていた。
 1883年の上野駅開業後には、上野駅が東北本線の始発駅となったことから、東京の北の玄関口の役割を担うようになり、街も発展した。
posted by その木なんの気、柳の気 at 18:53| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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