2016年01月23日

我孫子の芸術家村

●白樺派と我孫子
1914(大正3)年、柳宗悦は声楽家中島兼子と結婚し、叔父の嘉納治五郎(講道館創始者、教育者)のもつ我孫子の別荘の隣地(「三樹荘」)に引っ越してきた。東京から常磐線で1時間余り、静謐(せいひつ)で美しい手賀沼が広がる我孫子が気に入った柳のすすめもあって、大正4年に志賀直哉がこの地にすまいを構え(大正12年まで居住)、つづいて武者小路実篤や陶芸家バーナード・リーチ、志賀を師と慕う小説家瀧井孝作も我孫子に集った。
1910(明治43)年、学習院、東京帝国大学に学ぶ若者たちが文芸雑誌「白樺」を創刊した。「白樺」には志賀直哉、柳宗悦、武者小路実篤、有島武郎、有島生馬、里見ク、木下利玄、郡虎彦、長與善郎、梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政ら若い作家・芸術家たちが集い、後に「白樺派」と称される。彼らは近代芸術を創ったロダンやセザンヌを理想と仰ぎ、既存の芸術・文芸からの脱却と革新を志していた。

●志賀直哉の住まい
志賀直哉がここに設けた住まいは、生活の場である母屋(大正4=1915年)と、「二階家」と呼んだ崖の上の離れ(大正7=1918年頃)、そして書斎(大正10=1921年)からなっていた。母屋は茅葺きで基本的に畳敷きの和風だったが、東側に下見板を張った洋風の書斎と応接間を配置し、明治末から大正にかけて流行した和洋折衷式と呼べるものだった。我孫子の別荘の多くは、眺望の良い台地の先端部に設けられている。しかし、志賀の住まいは台地の裾を中心に展開しており、志賀邸の前の道(住民の生活道である沼沿いの道=ハケの道)と沼へのアクセスを意識していたことが分かる。これは友人である武者小路邸との往来や、沼での舟やスケートなどの野外活動を好んだ志賀の嗜好のためと考えることもできる。
崖からは湧水が滲み出ているが、手賀沼の水源でもあり、かつては沼沿いのあちこちでみることができた。志賀家ではこの水を横井戸から導いて缶に貯めて活用していたようである。

●志賀直哉書斎
志賀がこの書斎を作ったのは1921(大正10)年のことである。木造平屋の切妻作りで、床面積は約44坪(14.46u)、6畳間の北側に床の間、地窓と踏込み 、トイレを配し、東側に押入を突き出し、南側に濡れ縁を設けている。屋根は現在、銅板平葺き、外壁は漆喰塗りで腰を板張りとしているが、当初は杉皮葺きで、外壁は下まで漆喰塗りであったことが古い写真から判明している。四面に開口部が設けられ、通風と採光への配慮が見られる。内装は漆喰仕上げの壁、船底天井に網代を張り、棹縁に柱の磨き丸太を用いている。柱は杉材で手斧(ちょうな)跡を残したなぐり仕上げとし、虫喰い跡のある杉丸太の梁や垂木を見せる。床柱には青桐の皮付き丸太、落し掛には湾曲した百日紅(さるすべり)を用いるなど、数寄屋風の手法であるが、かなり独創的で趣味的な建物となっている。
志賀はここで「暗夜行路」の前篇と後篇の大半部を執筆した。志賀が大正12年に我孫子から京都へ引っ越し、書斎を含めた建物も地元住民の住宅に移築され、当初は長らく更地となっていた。1987(昭和62)年、市民の保存要望を受けて書斎は元の場所に再移築され、敷地は志賀直哉邸跡として整備された。
書斎は移築や修理を受けているが、創建当初の部材が再利用され、独創的な意匠は志賀本人がデザインし、我孫子の大工である佐藤鷹蔵(バーナード・リーチがデザインした椅子や旧杉村楚人冠邸「澤の家」を作った)が建てた。このことからこの書斎は平成23年に我孫子市指定文化財となった。

●ここで書かれた小説
我孫子に移住する前の志賀は、父との確執に悩み、小説の執筆も余り順調とはいえなかった。我孫子移住後は静かな環境の下で柳や武者小路たちと感性を高めあい、心に癒しを得て、再度創作へと意欲を高めていった。
1917(大正6)年、長年不和であった父親との和解を題材にした小説「和解」を執筆した。また、同年「城の崎にて」、1920(大正9)年には「小僧の神様」、1921〜1923(大正10〜12)年には「暗夜行路」の前編と後編の大部分を次々に発表し、充実した作家生活を送った。
我孫子を題材にした小説も多く(「雪の日」、「流行感冒」など)、当時の我孫子の情景をしのぶ貴重な資料となっている。

●文人たちのエピソード
志賀直哉をはじめとして我孫子に集った白樺派の文人たちが残したエピソードを瀧井孝作(作家・俳人)、木下検二(志賀の学習院時代の後輩)、柳兼子(柳宗悦の妻)、武者小路実光(武者小路の甥・仏文学者)の想い出から紹介する(「我孫子市史研究」より、敬称略)。

・EPISODE1
白樺派がいた大正時代の我孫子は、志賀や柳、武者小路が我孫子を取り上げて書くため、「特別な文学村」のように考えられていたという。

・EPISODE2
柳兼子はバーナード・リーチの意見を取り入れ、味噌を入れたライスカレーを訪れる文人たちにふるまった(「白樺派のカレー」として復刻されている)。

・EPISODE3
白樺派の文人たちが集った大正時代の我孫子は、駅付近を除いて電気が通じていなかった。志賀や瀧井は、我孫子駅からロウソクに濡れた紙を巻いたものを灯して暗い夜道を帰ったという。1917(大正6)年に設けられた東京帝国大学教授村川堅固の別荘(旧村川別荘)にも常夜灯としての灯篭が残されている。

・EPISODE4
当時の我孫子は静かな場所だったため、柳邸と志賀邸との連絡は蓄音機のラッパを外してメガホン代わりにすることで用が足りたという。

・EPISODE5
志賀は雪の日が好きだったが、寒がりのため、仕事中は着物の上に丹前をまとい、備長炭を山盛りにして火鉢を焚き、ストーブまで点けていたという。

・EPISODE6
志賀は崖に穴(横井戸)を掘り、したたり落ちる湧水を活かして「天然の冷蔵庫」として利用していた。この湧水は今でも崖に認められる。

・EPISODE7
志賀と武者小路の家との間は約2キロ離れているため、互いの家を訪れるのに舟を使って往来していた。志賀、武者小路とも器用に棹を操ったという。

・EPISODE8
志賀や武者小路たちは志賀の妻・康子の指導を受け、女子学習院で行われた「テザーボール」(3mほどの木の棒を地面に立て、棒の先から麻縄につけたゴムマリを吊り下げ、二人で向い合ってラケットでゴムマリを打ち、早く麻縄を柱に巻きつけたほうが勝ち、という球技)をして遊んでいたといい、スポーツマンの志賀が一番強かったという。またテニスコートを作って楽しんでいた。

出典:http://yshisotricalplace.web.fc2.com/historical_place/naoya_shiga_abiko/index.html
posted by その木なんの気、柳の気 at 12:47| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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