2016年01月09日

柳田国男と柳宗悦のクロスロード

この週末、「ウィリアム・モリスと柳宗悦」(12/20)と「アーツ・アンド・クラフツ運動と民藝運動」(12/21)というシンポジウムが、阪大の豊中キャンパス、文法経講義棟41で開かれます。今年度が最終年度である藤田治彦先生の科研「アーツ・アンド・クラフツ運動と民藝」の成果発表会でもあります。詳細は以下を参照ください。

http://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/seminar/2014/12/6330

 こちらは、ロバートソン・スコットいう英国のジャーナリストについてお話します。1915年から1919年まで日本に滞在した彼は、大戦中、英国大使に依頼され、対日プロパガンダ活動に従事します。日本語が不自由なスコットが協力者として目をつけたのが、柳宗悦。ただし剣もほろろに断れます。

 そこで匿名を条件に協力をとりつけたのが柳田国男なのです。これが怪我の功名というべきか、もともと農村に関心のあった柳田の関心とひびきあい、二人はともに調査旅行を行うまでになります。その成果報告として、帰国後、スコットはFoundations of Japan(1922)という大著をまとめます。柳田は謝辞にあるのみですが、柳と内村鑑三については詳細なインタビュー記事が掲載されます。

 もし柳が宣伝活動に協力していれば、この本は民芸や新しき村について多くのページを割く書物になっていたのかもしれません。とはいえ、スコットが宣伝のために刊行した『New East(新東洋)』というバイリンガル雑誌には、柳やバーナード・リーチ、鈴木大拙(ここでの連載が『禅と日本文化』の原型となります)など、多士済々が日本文化について質の高い論考を寄稿します。ただ、ここでも柳田は表だってでてきません。

 スコットをめぐって、柳、柳田、リーチがどのように交錯したのか、そんなことを当日はお話するつもりです。

 なおスコットの活動とNew Eastは、今年度から始まった神智学の科研共同研究(代表・安藤礼二先生)につながっていきます。スコットと入れ替わるようにして、野口米次郎の招きで慶應にJames Cousinsがインドからやってきます。アイルランド出身のカズンズは、神智学の宣伝に奔走するのですが、その際に、柳ほかスコットの人脈をかなり利用(というか逆用)しているのです。

 インドの反英運動を刺激するからとNew Eastは神智学を批判するものの、大拙やOsvald Sirenなど、神智学関係者の記事がしばしば掲載されていました。おそらくカズンズは、New Eastを読んで参考にしたのではないかと思っています。そのせいかどうか、カズンズは、離日後にインドで、New Japanと題した日本滞在記を刊行します。New Japanでは、柳やリーチ、そしてベースとなる岡倉の『東洋の理想』が、New Eastとは実に対照的に登場しており、両者の比較は来年度にでもできればと思っています。。

 なお、ご参考までに、当日配布する発表要旨を掲載しておきます。文中にある拙稿は、

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/handle/11094/27378

で公開されています。
 
「ロバートソン・スコットと民藝運動」        
 ボーア戦争に反対するなど反戦論で知られた英国のジャーナリスト、J・W・ロバートソン・スコット(1866-1962)は、1900年以降、農業や農村について記事や書物を多く刊行するようになる。ジャーナリズム界から去ったのが、主戦論にわく政府からの圧力のせいなのかどうかはよくわかっていない。しかし、この両極に揺れ動いたかにみえる執筆活動は、反戦の筆を折ったというよりは終始一貫しているとみることが可能だろう。競争と戦争を引き起こす都会の物質文明から逃れ、農業と牧畜を基盤とする村落共同体に活路を見いだすという点では、19世紀的な田園幻想という同じ硬貨の両面といえるからである。
 西欧文明の内戦ともいえる第一次世界大戦が勃発してから約一年後の1915年、スコットは日本へ向かう。浩瀚な農村調査にもとづく大著Foundations of Japan (1922)にしたがうならば、日本の農業についての研究はこれまでになく、それによって英国の文明を建て直すためだという。そこには日本が近代化と田園とを調和させているという誤解もあったのではないか。そもそも日本の庭園や農村は、ヴィクトリア朝の旅行者を通じて過剰に美化される傾向があった。その点で、スコットが義和団事件を機にして刊行した小冊子Peoples of China(1900)が一つの傍証になる。ステッドのもとで修行した名ジャーナリストらしく、スコットは中国を訪れることなく、中国関係の書籍をあさり、それらを切り貼りすることで、この入門書を書いた。ステッドが、月刊誌Review of Reviewsで膨大な雑誌新聞を巧みに編集して要約した手法と、スコットの書き方は実によく似ている。この小冊子のなかでスコットは、中国の大部分は都会ではなく村落と指摘しつつ、その家族を基盤とする共同体には長老たちの頑迷で固陋な支配しかないと否定的に記した(69-71)。つまり、スコットの関心は近代以前の農業社会ではなく、産業都市と共存する農村共同体にあったといえるだろう。すでに多くの研究があった中国でもインドでもなく日本の、しかも農村を調査しようというのは、こうした背景があったからではないか。
 ただ日本を訪れて以降、スコットは、再びジャーナリズムの世界に飛び込み、今度は一次大戦における英国の大義を声高に主張することになる。これはスコット自身というより、すでにIan Nish (1972)やMari Nakami (1997)が指摘しているように、グリーン英国大使から対日宣伝活動を依頼されたためである。こうしてスコットは敵国ドイツの蛮行を強調し、日英同盟の堅持を呼びかけ、アジア主義者がインドに接近する危険を警告した。英国にとってのインドは、日本にとっての朝鮮半島だというのである。その宣伝に際してスコットに協力をよびかけられて断ったのが柳宗悦である。一方、船木裕 (1991)が明らかにしたように、スコットが執筆したプロパガンダであるIgnoble Warrior (1916)の邦訳原稿を作成し、日本語が不自由な彼の農村調査に同行協力したのが、柳田国男だった。つとに知られるように、柳と柳田は、西洋物質文明の対極にあるような日本や東洋の文化という関心を共有しつつも、とりわけ植民地に対する態度が異なるなど、けっして親しく交わることがなかった。スコットという共通の友人をもちつつ、ここでも二人は距離を置いていたことになる。
 たとえばスコットが宣伝のために編集していた雑誌『新東洋』(1917-8)には、柳やリーチも寄稿しているが、柳田はさして関わろうとしなかった。そしてスコットが柳田とともに調査した成果を盛り込んだFoundations of Japanに、柳についてはインタビュー記録といえるほど多くの頁を割いているが、柳田の名は謝辞にあるのみである。なお本書に挿絵を提供しているのは、スコットの妻の妹であったElizabeth Keithであり、版画家として知られる。姉を訪ねて来日してからは日本の版画を学び、アジア各地を旅行して残した作品は、特に朝鮮半島の貴重な記録として近年、再評価されている。この点からも両者の違いを浮き彫りにすることが可能だろう。
 このようにスコットの日本滞在( 1915-1919) に注目することで、民藝や民俗学をとりまく人脈の広がり、ひいてはその反響と反発が発掘できるのではないか。リーチは1919年に日本の工芸についての報告書を英国政府に提出しているが、こうした文脈は、スコットが拡大し攪拌した政治と工芸の境界を読み直すことで浮かび上がってくるだろう。拙稿「日英における移動と衝突 : 柳、柳田、スコット、リーチの交錯の例から」(2013)をもとに、スコット周辺の交錯を解きほぐししながら、スコットと民藝運動、ひいては民俗学とのかかわりとその文脈を明らかにしたい。

出典:
Facebook https://www.facebook.com/yorimitsu.hashimoto/posts/741860509238675
posted by その木なんの気、柳の気 at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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