2022年01月18日

米国に次ぐ類型感染者のインドも減少

インド国内の過去24時間の感染者は25万8089人。累計感染者は3738万人と、米国に次いで世界で2番目に多い。

そんな中で、首都デリーと金融都市ムンバイでは過去2日で、新型コロナウイルスの感染が大幅に減少、感染者の大半が自宅療養で回復した。ムンバイ、デリーの両都市では、今月に入りオミクロン株の流行が急増して以降、新型コロナ患者用の病床は80%以上が未使用という。

ムンバイの新規感染者は今月7日には過去最多の2万0971人に達していた。その約10日後の16日遅くの段階で新規感染者は7895人。今月初旬以来初めて1万人を割り込んだ。

デリーの感染者も今月13日に2万8867人のピークに達し、以降は減少が続いており、17日は今月初旬以来初めて1万5000人を下回る見通し。

専門家は、国内全体の感染のピークは来月初旬か中旬になると予測している。




出典[ニューデリー 17日 ロイター] -
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2021年05月07日

真理と美を愛する精神〜民芸運動の父・柳宗悦〜

高崎哲郎氏が、柳宗悦について、我孫子での民藝に向かう変化の兆しをその生まれ、人減関係などを通して次のように書いていたので、紹介しておきたい。


戦前、手賀沼周辺(今日の千葉県我孫子市)の閑静な高台に著名な作家、芸術家、学者らが居を構えていていた。「手賀沼文化人」である。「手賀沼文化人」の中で、私にとって、その豊饒な多方面にわたる天才性ゆえに最も論じにくいのが柳宗悦(1889〜1961)である。だが、柳宗悦の高邁な哲学的かつ芸術的精神は後世に伝えるべきである、と考える。宗教哲学者、思想家、美学者、文学者そして、それよりも「民芸運動の父」として知られる人である。

大正期、東京から常磐線で1時間足らずの田園地帯に広大な自然の広がる沼畔があって、東京の作家、画家、知識人らが「都会の喧騒から離れた思索の地」として目をつけた。イギリス人陶芸家バーナード・リーチが柳邸に仮寓し、日英の友情の絆を深め、浜田庄司との出会いもここ我孫子の地だった。我孫子の地は、宗悦にとって妻兼子との新婚時代を過ごした地であるとともに、初めて自らの家庭を築いた地、つまり家族の絆を築いた場所である。「白樺」同人である志賀直哉、武者小路実篤を我孫子に導き、生涯にわたる絆をここで結んだ。柳宗悦にとって我孫子は「出会い」と「絆」の地であった。

民芸運動の指導者・柳宗悦の夫人は声楽家・兼子、柳の伯父にあたる東京高等師範学校(東京教育大学を経て現筑波大学)校長・柔道家・嘉納治五郎、他に、中勘助、滝井孝作、「朝日新聞」記者・文明評論家杉村楚人冠など、日本の代表的作家や思想家、芸術家たちが暮らしていた。

柳は学習院高等科のころ、同級生と同人誌「白樺」を創刊した。紙面の美術面を主に担当し、宗教哲学、心霊学についての論文を相次いで寄稿する。「科学と人生」(1911)を東京帝大哲学科在学中に刊行する。1913年、同大哲学科を卒業し、翌年、東京音楽学校(現東京芸大)卒の声楽家・中島兼子と結婚する。恋愛結婚であった。

柳は学生時代からイギリスの詩人・画家ウィリアム・ブレークに深く傾倒し、我孫子に来た1914年、「ウィリアム・ブレーク」を出版した。そして、神秘主義の研究は宗派を超え「宗教とその真理」(1919)、「宗教的奇蹟」(1921)と順を追って研究をしていた。

しかし、我孫子に転居した9月に朝鮮在住の浅川伯教が来訪、つづいてその弟・巧の兄弟と親交を結び、朝鮮を数次にわたって旅行し、日本の朝鮮政策を批判する文章を発表した。さらに1922年には光化門取り壊しを聞き知って、反対の文章「失はれんとする一朝鮮建築のために」を雑誌「改造」に発表した。1919年の朝鮮の独立運動弾圧に対して、有識者が声を上げぬのに業をにやして、「朝鮮人を想う」、「朝鮮の友に贈る書」を発表。1923年の関東大震災での朝鮮人虐殺を悲しみ、1924年にはそれまで集めていた朝鮮美術を携えて京城景福宮緝敬堂(しゅうけいどう)に朝鮮民族美術館を開設した。

我孫子から転居後には、「宗教の理解」(1922)、「神に就いて」(1923)を経て、戦後、仏教論「南無阿弥陀仏」(1955)に向かい、初期のキリスト教から仏教(主に浄土真宗)に関心が移る。両者に通底するものを追い求め続けたことは後年の「神と仏」(1956)に明らかである。白樺派の彼らの精神に通底するものは知識人としてのヒューマニズムまたはリベラリズムと言っていいだろう。この水と緑の豊かな湖畔は彼ら知識人に静寂と思索の場を与え、代表作や秀作を生ませたのである。

1926年、陶芸家浜田庄司、同河井寛次郎とともに高野山を旅して「日本民芸美術館」設立の構想を得て、設立趣意書を発表した。すぐれた器の収集や実作の調査に乗り出し、1931年に雑誌「工芸」を創刊して1949年までに120冊を出した。これらの冊子は、軍国主義に転落していった日本にあって、柳の守ったけじめを示している。大原孫三郎から寄付を得て1936年に日本民芸館を創設した。

敗戦後の1948年京都の相国寺で行った講演「美の法門」は美と醜の区別を超えて世界を見渡す視野の成立を説いて、仏教の信仰に根を下ろす美意識のあり方を示した。これは「妙好人因幡の源左」(1950)、「仏教と悪」(1958)、「心偈」(1959)に連なる仕事である。
救いを求める庶民と仏教の在り方を常に問うた。


参照HP:https://www.risktaisaku.com/articles/-/4459?page=2


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2021年04月02日

日韓関係を振り返る

韓国外交省が3月29日に外交文書を公開した。1990年5月の盧泰愚(ノテウ)大統領(当時)訪日に先立ち、天皇陛下(現在の上皇さま)に植民地支配をめぐる「具体的で強いおわび」を求める方針を立てた韓国政府内の討議の様子が詳しく記されていた。

 文書は同年4月に作成された内部資料。宮中での歓迎晩餐会の場でのおわび発言について、84年の全斗煥(チョンドゥファン)大統領の訪日時より「さらに具体的で強い内容になるよう交渉する」と記されていた。そのうえで天皇陛下への訪韓要請と「連携して対応する」とした。文書で韓国外務省(当時)は「未来志向の関係のため」にはおわび発言が必要だと指摘。実現しない場合、「韓国国民は決して納得しないだろう」と強調した。

 全氏の訪日時、昭和天皇は植民地支配について「誠に遺憾であり再び繰り返されてはならない」と語った。90年に盧氏が訪日した際、天皇陛下(現在の上皇さま)は「貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、痛惜の念を禁じえない」と述べた。韓国側はこれを十分だと判断したようで、盧氏は日本滞在中、天皇皇后両陛下に韓国訪問を要請していた。



出典:(4/2)
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2021年03月26日

What a happy happening ! 

目玉焼きを作ろうとたまごを取って、割りました。するりと二個の黄身がでてきて「あ、ふたご」と驚きました。

CIMG5521.JPG

ひとつで二個たべられた、ちょっと食べるのが惜しい気がしましたが、あまりもののニンジンと大根のしっぽで作ったピクルスと一緒にいただきました。

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卵の周りの猪口にあるのは、ニンジンの水栽培です、時々、つまんでスープやサラダの色どりに使ってゐます。ニンジンの香りと味わいが強いので色どりと味のアクセントになります。
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2021年01月07日

『柳宗悦と朝鮮・自由と芸術への献身』

 朝鮮工芸品への愛情、そして日本植民地下にあった朝鮮民族の自由を願った柳宗悦の生涯について、在日2世の美術研究家・韓永大氏の連載「柳宗悦と朝鮮 自由と芸術への献身」をする。これまで未発表の資料も取り入れながら、柳宗悦の全貌に迫る一大企画だ。著者の韓永大氏が、本連載の意図などを寄稿してくれた。

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 アジアとりわけ朝鮮の自由と芸術に深い理解を有していた柳宗悦(1889〜1961)について、本誌に連載することが出来ることは筆者の大きな喜びである。

 柳の朝鮮工芸品への傾倒と愛情、それへの限りない歓びと慰めの感情表現は、柳の重要な一部分である。柳は朝鮮の宗教、特に石窟庵仏教彫刻から深い宗教体験をし、「慄(りつ)然と慄(おのの)きの、霊の異常な閃きを身に感じた」と語っている。こうした点は読者と共に味わいたい大切な点である。

 柳は朝鮮民族には生来、優れた工芸品を生む能力があると指摘した最初の外国人であり、その能力が失われつつあることを「世界的損失」と表現した。

 彼はやがて植民地下にあった朝鮮民族の将来の再生を願って、あらゆる日常生活の工芸品を収集し、ついには朝鮮民族美術館まで設立(1924)したのだったが、妻子の犠牲も省みずこれを成し遂げたこの人物の理想と熱情には、深く心打たれるものがある。

 柳は1914年秋、浅川伯教(のりたか)の訪問を受けたことが縁で朝鮮陶磁への本格的関心を有したとされている。浅川はロダンの彫刻を見に行ったのだが、なぜいきなり初対面の人に数点もの朝鮮陶磁を持参したのか、疑問が残る。

 これは浅川の彫刻の師・新海(しんかい)竹太郎の介在が考えられる。柳が関係していた『白樺』のロダン特集号(1910年11月号)に、新海と柳が共に小論を寄稿するという顔見知りの間柄であり、新海はこの時すでに柳が朝鮮白磁を買う(1909)など柳の朝鮮陶磁への関心を知っており、このことを入門してきた浅川に伝えたためと推測される。

 柳はまた、実践の思想家、行動する哲学者として、「発言の自由のない朝鮮人に代って」行動したことでも知られる。1919年5月の「朝鮮人を想ふ」発表以来、朝鮮の自由と独立を一貫して主張し、時の日本当局の植民地・同化政策を公然かつ大胆に批判し続けた行動の数々は、今さら多言を要しない。『朝鮮とその芸術』序文(1922)は実践家としての柳を象徴するもので、その一文は今なお格調高く力強い。

 柳のこの行動力は叔父の嘉納(かのう)治五郎(講道館柔道で有名)の影響と共に、カントの認識論(いわゆる三批判書)によるものであろう。柳は結婚前、妻となる中島兼子に「カントの認識論に心おどらせて」おり、深い感銘を得たことを告白している。

 柳の東洋とりわけ朝鮮との平和を重視する思想の淵源が奈辺にあるかも謎のままである。筆者はこの点、柳家や嘉納家との間にある勝海舟(1823〜1899)との歴史的な人間関係を看過出来ない。嘉納治郎作(柳の母方の祖父)と海舟とはペリー来航直後の1855年からの古い関係があり、海舟は物的援助を受けている。柳の父・楢悦(ならよし)と海舟とは長崎海軍伝習所以来の師弟で、明治新政府でもその関係は続いた。柳の母・勝子の名は海舟の名に因(ちな)んでいるが、その弟の嘉納治五郎も海舟に親しく指導を受けている。

 治五郎の妻は須磨子だが、その父は竹添進一郎で、朝鮮の甲申政変(1884)の時の日本国公使であり、海舟との関係はやはり親密である。

 この甲申政変に金玉均、朴泳孝らと共に参加しているのが尹致昊(ユンチホ)(1864〜1945)で柳がこの尹致昊に対面(1920)しているところに近現代史上の重要な意味がある。
 柳には海舟の東洋和平の思想が多分に反映されていると考えている。


韓永大;1939年岩手県生まれ。在日2世。上智大学卒。著書に「朝鮮美の探求者たち」(未来社)、訳書に「朝鮮美術史」(A・エッカルト著、明石書店)。美術史学会員。本誌に「新羅・伽耶の不思議」十回連載(2000年2月〜2001年1月)。


出典:東洋経済日報(2004)
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2020年07月07日

柳宗悦の原稿、再発見

民藝研究家、柳宗悦(1889〜1961)が1922年、日本植民地下で光化門が撤去される方針に反対して東亜日報へ送った寄稿文のなかで、日本の事前検閲によって載らなかった内容が見つかった。

「仮に朝鮮が発展して日本が衰退し、日本が朝鮮に併合されて宮城(江戸城)が廃墟となり、代わりにそこへ広大な西洋風の日本総督府の建物が建てられ、あの碧の堀を越えて高い白壁がそびえる江戸城が壊されるのを想像してみよ」

国外所在文化財財団(チェ・ウンチョン理事長)は、柳が光化門撤去に反対し、1922年7月に作成した直筆原稿が、東京の日本民藝館で最近発見されたと7日、本紙に明かした。「失われんとする朝鮮建築のために」という題名のこの原稿は、1922年8月24〜28日、東亜日報1面に5回にわたって掲載され、光化門撤去反対の世論を呼び起こす決定的契機となった。

直筆原稿には、日本の事前検閲によって新聞に載らず、同年日本の雑誌「改造」9月号に載った200字原稿用紙2枚の分量の内容も含まれていた。文化財庁文化財委員長を務める成均館大学のイ・サンヘ名誉教授は「光化門の美しさを追悼するかのような悲しい描写で撤去に反対した柳の文章は、当時の韓国人の琴線に触れた。日本は光化門を壊して朝鮮の象徴を抹殺しようとしていたのをやめ、光化門は元の位置ではないが移動して命は保たれることになった」と話す。

「君(光化門)をよく知っている人は発言の自由がなく、君を生み出した民族の間でも不幸なことに発言の権利を持てないでいる。しかしながら、沈黙のなかで君を葬ってしまうことは私にはとても耐えがたい悲惨なことだ」

柳の原稿は植民地の文化財の運命と国を奪われた者たちの苦痛に深く共感する絶唱だ。柳は日本が朝鮮に併合され、江戸城が壊されるなら「間違いなく日本のすべての人がこの無謀なことに怒りを感じるだろう。しかしながら、このようなことが今京城で、強要された沈黙の中で行われようとしている」と告発した。

柳は「私は君(光化門)を生んだ民族がその堅固な花崗岩の上を深く削って祈念する永遠の彫刻のように、君の名前と姿と霊を決して消えないように刻もう」と書いた。総督府の建物の新築については「何の創造の美も持たない洋風建築が突然この神聖な地に侵攻してきた」と批判した。

朝鮮総督府は1920年代、景福宮興禮門区域を壊して総督府の建物を建てるにあたり、その前をふさぐ光化門を撤去しようとし、結局1926年、景福宮の東側の建春門の北側に移動した。イ・サンヘ教授は「光化門がなくなっていたら、原形の復元は難しかっただろう」と話す。

実際、扁額の変更は4回目だ。1度目は、1950年にはじまった朝鮮戦争で、光化門は爆撃によって焼失してしまった。2度目以降は韓国人のミス。朝鮮戦争でなくなった光化門を建て直したとき、朴元大統領が扁額の「光化門」を、漢字ではなくてハングル文字で書いた。その後、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権のときに「朴正煕が書いた字を外そう」「違和感がある」といった声が上がって、この扁額は降ろされた。3度目の変更は2010年で、そのときは漢字で「光化門」と書いたが、2カ月で大きなひびが入ってしまった。このときは「手抜き工事だったのでは?」と問題になった。さらに「扁額の色がおかしい」という指摘がされる。掲げていた扁額は「白地に黒文字」になっていたが、本来は「黒地に金色の文字では?」という声が上がってきた。韓国文化財庁は、「白地に黒の文字で合っている」と説明していたが、後日談で、文化財庁が「やっぱりこの色じゃなかった。黒地に金色の文字でした。」と認め4回目の変更となった・・・という具合だった。


それでも、国外所在文化財財団は2014、15年に日本民藝館所蔵の韓国の文化財を調査し、その後、東京芸術大学の関連研究を支援してきたおかげで、今回の調査に参加した日本民藝館の杉山享司学芸部長が「日本民藝館の学芸員たちも(柳の直筆)原稿の存在は知っていたが、検閲された部分を把握し、その意味を考察し、確認したのは初めて」と説明した。これに先立って財団は最近、東亜日報に当時の資料(柳の原稿)が存在するのかを問い合わせていた。

(2020年6月8日付東亜日報 チョ・ジョンヨプ記者)

(翻訳・成川彩)


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2018年07月08日

NHKニュース(2001)、兼子さんの歌声発見される

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2018年05月13日

雨の日の出来事@我孫子駅前

 まるで、「我孫子から」を書いた柳宗悦のように、目にした光景を書き留めておきたい気持ちになった。

 母の日、娘は孫を連れてやってきた。この間はまだ、靴を履いてもおぼつかない歩き方だったのに、おっとととなるが随分と上手にあちこち家の中を探検してまわって、ご機嫌に引き出しや棚のモノを手にしては、次々に床にほおり出していく。にこにことご機嫌な笑顔だから、怒るわけにもいかない、小台風がとおりさったかのようだが、他愛無い。皆こんなふうに大きくなるのだ。

 94歳になる母のいる「ゆめみ野」の家にも、曾孫を連れていくという、相変わらず優しい子だと思う。ピアノを弾いたり、日本画を描いたり、海外スケッチ旅行をしたり、90才まで車の免許を更新すると言い張っていた、さすがに自粛したけれど。行けるところが限られて、さすがに生きているのに辛いとも言う時期があったが、それも自粛して、言われた通りのこさず食事・おやつを食べて、時折のデイサービスに出かける。車いすを押して貰うまでになっていないが、手押し車を押してゆっくり歩く。そして、「時間が無駄だからお見舞いなんかに来なくていいよ、でもありがとう、来てくれて、気を付けて帰りなさい」という。もう、会話はいつも同じになってしまう。でも、曾孫を連れてくる新米ママは来月から、職場復帰するという。時代は変わった、男女の関係も、社会の女性へ期待する目も変わってきた。
夫の影を踏まずに歩くなどの意味ももう解釈できる人は、孫を持つ世代でしかわからないだろうし、そんな事をする必要がどこにあったのかわからないだろう。

 しかし、駅前で見た光景は、人の優しさは変わらないのだなと思わせるものだった。

 雨の駅前を傘をさして、窓をおんぶして荷物を山盛り持つ娘を駅の改札まで見送った。そして、道を渡ろうと左右を見極めていると、スーパーの角の段差に気づかず転倒した高齢者がいた。荷物をたくさん持って傘をさしていたから、足を滑らせたようだ。すぐに立ち上がることも出来ない様子を見て、手を貸そうとそちら方向に体が向かうと同時に、高齢者のそば近い所にいた若者がおじいさんに手を貸して体を起こしてあげた。すると私と同時にそれぞれ おじいさんの転倒した姿を認めた人たちが、その人たちの傘の幾つかが動き出して、5、6つ程の傘がおじいさんの周りに輪のように次々に集まってきて、手を貸したり、荷物をおこしたり、「大丈夫ですか」「ありがとう」の言葉が飛び交った。おじいさんがすっかり荷物を手にしたころには、自然に傘が何事もなく、もとの場所に散っていった。我孫子だから、今どきも若者も男性も女性も思いやりの行動を起こす、そうした光景を目に出来る街なんだと、ここに住んでいることに、小雨のお蔭で気づかされたと思ってしまった。

 きっと、柳宗悦は我孫子の家で待つ、新妻・兼子に、車中での微笑ましい光景を話したに違いない。なぜなら、私も娘を送る車を運転してきた夫に、傘が輪のように集まった光景を話したからだ。捨てたものじゃない、世の中に人の優しさが続く限りは・・・。




















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2018年02月19日

日本人は歴史を知らなすぎ、事の正否を自ら判断するメディアリテラシーが必要

関東大震災の折に、朝鮮人に対するあらぬ疑いによって各地で殺傷事件が多発する事態もおきたと言われる。この事件を記録したものは、なかなか表出されないので研究も進まないが、流山市でこの事件の詳細を調べている辻野さんのことを知った。我孫子市でも、辻野さんの知り合いの方から、同様の殺傷事件がおきて処罰されたのだということだ。忘れてはいけない史実であり、災害時ではあっても、偏見と誤解でこのようなことは二度と起きてはならない。

     *   *   *

隈本ゼミ(江戸川大学)では、福田村事件についての著書を2013年に出された辻野弥生さん(千葉県流山市在住)に直接お話を伺った内容をHPで紹介していた。


長年にわたって関係者以外にはほとんど知られていなかったこの事件について、いま改めて書籍にした理由はなんだったのか、インタビューでお伺いしてみた。(2015年1月13日)

――そもそも福田村事件を調べようと思った最初のきっかけはなんだったので

すか?

辻野さん:それはですね、私が所属している「流山市立博物館友の会」という文化団体があるのですが、そこから毎年1回「東葛流山研究」という研究誌を出しているんですね。その研究誌の編集長から関東大震災後に起きた流山市での朝鮮人虐殺事件について書いてくれと言われたことがきっかけです。詳しいことを誰かが書かなければ証言者がいなくなるということで、編集長から私に依頼がありました。私には荷が重かったんですけどね。

それで書こうとしたときに、野田市にお住まいの知り合いの方が「野田市でも別の事件があった」と教えてくださったんです。その方は「野田の人間には書けない話なので、流山のあなたがしっかり書いてほしい」と言って、福田村事件の資料を持ってきてくださったんです。そういういきさつで、私はそこで初めてこの事件のことを知ったのです。

――その流山の研究誌の編集長の方がご存知だったということですか?

辻野さん:いえ、編集長も福田村事件のことはご存知なかったようです。その時点ですでに知られていた流山での(朝鮮人虐殺)事件を知る方がだんだん亡くなっていくので、証言者が生きていらっしゃるうちに早く書かないと、ということだったんですけど、それがきっかけで福田村事件という思わぬものが出てきたんです。

――ではその野田在住の方はどこで知ったんでしょうね?

辻野さん:その方は地元出身の方で、学校教育に携わっていた方なので、聞き伝えでご存知だったのだと思います。

――そうですか。そうすると、あまり語られない地域の歴史ではあるものの、その方はご存知だったということなんですね。

辻野さん:そうですね。だから、この事件は「地元でも知っている人は知っている」という事件だったんですよね。


――なるほど。ということで、そうやって地元の方から資料が持ち込まれたところから取材が始まったわけですね。どのような取材をしていったのですか?

辻野さん:取材は、まず『いわれなく殺された人びと』という本を出された「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の方たちとの交流から始めました。そしてこの事件を掘り起こされた香川県の郷土史研究家、石井雍大先生とも知り合ったんです。


難航した地元での聞き取り調査

――(現在慰霊碑のある)圓福寺のご住職の方にインタビューしたことが本に書いてありますね。

辻野さん:はい、私がお訪ねをしてご住職に「福田村事件について詳しいことが聞きたいのですが」と言ったら急に厳しい顔つきになられました。「それはいけません」と言われて。何度も「お帰りください」って言われました。ですが、ここで下がったら証言は一つも取れないと思いまして「ご迷惑になることはしませんから」と食い下がりました。すると「じゃあ奥の方へ」と言われて、やっとお話を聞けたんです。そこで圓福寺では犠牲になった9人の方の供養しておられることを知りました。その時まで私は、このご住職と石井雍大先生との関係を知らなかったんです。あとで石井先生に聞いたら、石井先生がご住職にお願いして、供養されることになったらしいです。

――やっぱりご住職は、本当は事件について聞いてほしくなかったという感じがあったんですか?

辻野さん:当然でしょうね。最初にお話を伺った時の様子が未だに忘れられないです。ですが、その後は、お手紙をくださったり、のちに「ぜひまたいらっしゃい」とか言ってくださったりしたんですよ。


――ご住職の方はこの事件についてどのように考えてらっしゃったんですか?

辻野さん:「お祭りの時のような、やっちゃえやっちゃえといった感覚で人を殺すのはよくない、宗教者の務めとして、地域住民のプライバシーを守りながら、二度とこのような暴力的な事件を起こさない方向に心を導くことです」と語られました。とても思慮深く進歩的な方でした。


――だから協力もしてくださったんですね。他にはどんな証言者の方とお会いになったのですか?
辻野さん:そうですね。実はいろんな人に片っ端からお電話したんですけど、ほとんどの人が何も話してくれませんでした。

――そうですか。事件からもうこんなに時間が経っていても?

辻野さん:ええ、電話では対応してもらえないので、お手紙を書いたりしたんですが、記事に採用できるような内容は得られませんでした。例えば、「あの人なら証言をしてもらえるはずですよ」と紹介してもらっても、電話してみると、「何言っているんだ!」という感じで怒鳴られたりしました。お会いする約束をしていながら、直前に連絡が途絶えた人もいました。やっぱりいざ活字にされちゃうと思うとみんな黙っちゃうんですよね。

――野田市に住んでいて、ある一定年齢以上の人は、目撃したり親から聞いたことがある話なんでしょうか?

辻野さん:それは、すごくまちまちですね。ご高齢の方といっても、例えば85歳の方にお電話したら、この事件について知ったのはほんの15年前だと。つまり知っていた人もいれば、知らない人も沢山いた。あまりにもおぞましい事件なので、たとえ知っていても、しゃべってはいけないという空気があって伝わらなかったのでしょうね。

――野田市役所の対応もたいへん消極的で、それがあの慰霊碑の問題にもつながっていくわけですね?

辻野さん:ええ。そうなんですよね。香川県側の「千葉福田村事件真相調査会」や、野田市側の「福田村事件を心に刻む会」が協力して慰霊碑はなんとか出来上がったんですが。

――慰霊碑の裏には、9人の方が亡くなった「理由」が書かれていないんですよね?

辻野さん:ええ。石井雍大先生たちが「この人たちは、いわれなくして殺されました」ということをちゃんと書いてほしいと要望したんですけどね。結局いまは慰霊碑のその部分は空白になってるんですよね。いつか書いてほしいと私は思うんですけどね。

山田昭次先生(※)も国家責任の問題があるのに、国として謝ったりもしないし調査もしないと常に憤っていらっしゃるんですよ。だからこの朝鮮人虐殺は国としては今でも未解決のままなんですよね。

(中略)

――また、当時のメディア(新聞・雑誌)も、それまで朝鮮での暴動とか反日運動とかは報道してましたから、当時のメディアに接している国民も漠然たる不安感というものはあったと思いますよね。

辻野さん:そうですよね。当時のメディアも今ほど発達もしてなければ情報公開もない時代ですのでね。みんながデマを信じちゃっても仕方ないかなと思います。

――この事件は、関東大震災の後2.3年の間は新聞などにも掲載されたのですね?

辻野さん:そうですよね。私も地元では個別の証言がなかなか取れないので、千葉の県立図書館に何日も通って当時の新聞を一つ一つ調べました。そこの図書館は、筆記用具持ち込みは禁止なので弁当を持って通い、そこからこの情報を拾い出したんです。


――当時の新聞が、図書館にはあったのですか?

辻野さん:ありました。マイクロフィルムになっています。少しずつ紙面を繰りながら、ここだと思ったところで止めればコピーが出来るようになっています。そして、コピーしたのをもとにこの本をまとめたのです。証言してくださる方が少ないので、結局ほとんど新聞から拾いました。調べたのは東京日日新聞です。いまの毎日新聞にあたります。

――こうして誰かが記録しないと忘れられてしまいますよね。地元にとってあまり都合のいい話ではないですからね。

辻野さん:そうですね。でも起こったことをなかったことにはできませんから。野田の方で、この本は読みたくもないって言う人もいました。


今の日本人は歴史を知らなすぎる

――この本を書こうとしたきっかけは?

辻野さん:ある在日韓国人のミュージシャンの歌を聴いて、その歌と演奏があまりにも素晴らしかったので、こちらの地元にお呼びして3回くらいコンサートをやったんですね。そのコンサートでは、そのミュージシャンが、日本でものすごくいじめられていたことを話すんです。友達が自殺したとか、すごい話を歌の合間に何度も話すんです。そしたらコンサートを聞きに来た人の中に「なんであの人は日本の悪口を言うんだろうね」「そんなに嫌なら自分の国に帰ればいいのに」と言っているのを聞いたんです。私はそれを聞いてびっくりしました。「ああ今の日本人は歴史を知らないんだな」と思い、やはり本を書かなければと思いました。

――いまの日本人には、在日韓国・朝鮮人の人たちへのヘイトスピーチに走るひともいますね。

辻野さん:そうですね。嫌韓・嫌中などといった書籍も目立ちますね。戦時中、旧満州での暮らしを体験した山田洋次監督は「植民地の収奪の上に僕らの豊かな暮らしが成り立っていた。日本人がどれほど中国人を侮辱していたかを肌感覚として覚えている…」と、毎日新聞紙上で語られていました。

――辻野さんはもともと取材をするお仕事をされていたんですか?

辻野さん:ええ。地域の下請けリポーターとして、タウン誌や千葉日報に100人あまりものインタビュー記事を書きました。

――そういうお仕事を引き受けるきっかけというのがあるんですか?

辻野さん:そうですね。まず、流山市立博物館友の会と出会い、編集長に「文章がうまいね」と、ほめていただき、色々なチャンスを与えていただきました。野田や柏のタウン誌をきっかけに、どんどん広がっていきました。

――昔からジャーナリストになりたかったとか?

辻野さん:そうではないですけど、書くのは好きで、10年間くらいレポーターをやりました。柏二番街のホームページの記事を担当したりもしました。

ちなみに元毎日新聞記者だった弟は、自分の本の売り上げすべてを、昔日本が迷惑をかけたことへのせめてもの償いとして中国に全額寄付しました。退職後も中国と交流を続け、歴史や平和についての講演を行ったりしています。


――本を出したことの反響はありました?

辻野さん:そうですね。色々な感想がたくさん来ましたけど、ある人からは「よくぞ書いてくれた」と言われました。また「よくこんな本を出しましたね」とも言われました。「こんな本」といわれてしまう理由はやはり、被差別部落のことに踏み込んだことと、地元でタブーとされていたことを掘り起こしたことでしょうね。でも褒めてくれる人もたくさんいました。私はいろんな方の資料を駆使して書かせていただいたのですが、やっぱり香川の石井先生や真相調査会の中嶋忠勇さんには、言葉につくせないほどお世話になりました。

――「よくぞ書いてくれた」という一方で「よくこんな本を・・」って言われる意味はなんとなく分かりますね。普通の常識からいえば、まず手を出さない方が身のためと思う人が多いでしょうから。

辻野さん:そうですね。一冊の本になるとは誰も思ってなかったでしょうから。だから出版できた時には大勢の人に祝ってもらいました。

――本の表紙に使われている慰霊碑の写真は、刻まれたお名前の名字の部分をぼかしてありますね。

辻野さん:そうです。表紙をどうするか迷っていたら、崙書房の編集長が、これがいいんじゃないかと言ってくださいました。加害者も被差別部落の被害者も、本の中ではすべて仮名としました。でも慰霊碑には本名が書いてあります。香川の地元では被害者の方もほとんど亡くなられ、子孫の方なども散り散りでお話も聞けませんでした。


――あの時は集団心理が働いたんですかね?お祭り騒ぎのような。

辻野さん:いちおう朝鮮人と間違えて殺したということになっていますが、念仏を唱えたり、国歌を歌ったりして日本人であることを訴えたわけですから、もしかして日本人とわかったのに、行商人に対する差別意識などが働いて、やっちゃえということになったとも考えられます。やはり人を差別する意識があったのでしょう。それが殺人にまで至るとはねえ。でも人を差別する心理は誰にでもある気がします。それが大きくゆがんだときにこのような恐ろしいことが起こるんですね。

例えばヘイトスピーチをやっている人たちも、優越感みたいなものを持っていますよね。それも小さな差別の根っこだと思います。その根っこは誰しも持っていると思うので、行動を間違わないためにやはり学習しないといけないと思います。私はあの慰霊碑の前でそういう人権学習をしてほしかったです。野田市の人たちがこの慰霊碑を素材に人権を学ぶ取組をしてほしかったです。でもそこまで行っていませんね。

――ヘイトスピーチをやっている人たちも、正義の実現のためと思っていて自分たちは悪くないと思ってやっているという感じがしますね。辻野さんは、野田市に対して、この慰霊碑を使って人権について学んでほしいと言ったのですか。

辻野さん:はい、野田市も何年か前に比べると丁寧に対応してくれるようになりました。でも、有名な映画監督の森達也さんが、この事件をテレビで報道してほしいと企画書を持ち込んだらしいのですが、部落問題が絡んでいるからか放送されなかったそうです。被害者が被差別部落の人ということでマスコミも足踏みしたのだと思います。地元の香川でもあまり報道されなかったようで、そこでも差別を感じさせます。

――やっぱりこのような問題をメディアもしっかり見つめないといけないですね。

辻野さん:そうですね。

――私たちはこう考えています。もし当時、今みたいにメディアが発達していたらこのような震災後の流言飛語による虐殺は起きなかったかもしれない。一方で、関東大震災の前に当時のメディアが繰り返し伝えていたのが、朝鮮半島で起きている抗日運動など朝鮮人への恐怖を煽るような報道でした。だからこの事件を考えることは、メディアの持っている良い面、悪い面両方の勉強の材料になるかと思うのです。

辻野さん:やっぱり情報を鵜呑みにしない心が常にないとね。


――メディア・リテラシーですよね。今回は真実を地道に掘り起こしていく人の努力について生の声を聞かせていただいて大変感謝しています。どうもありがとうございました。
posted by その木なんの気、柳の気 at 09:02| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月31日

スプリング・フォーラム:我孫子から世界へ

先日の『リーチ先生』の原田マハ氏の講演会は、定員の3倍もの申し込みとなったそうで、参加できなかった方のほうが多いということです。そこでリーチの事にも触れながら、100年前の我孫子での芸術家の活動に思いを馳せて、2020へと誘うべく、下記のご案内をいたします。

日時 2 月18 日(日) 午後2 時〜3 時半
         (開場は10 分前から)
場所 市民プラザ 第1 会議室
    我孫子ショッピングプラザ( 旧エスパ) 3 階
      問い合わせ: 我孫子カルチャー&トーク
           Tel:04-7184−9828(海津にいな)

chart.JPG

我孫子から世界へ
バーナード・リーチと柳宗悦・兼子夫妻、嘉納治五郎、志賀直哉ら白樺の文人たちが、手賀沼をみながら暮らした時代を振り返って画像を中心にお話ししていきます。我孫子の春の予感になるように、来場の皆様と”笑顔”になる座談会にしたいと思います。

入場は無料、どうぞお誘い合わせでいらしてください。 (#^.^#)

posted by その木なんの気、柳の気 at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月09日

英国陶芸の父、バーナード・リーチ





Edmund de Waal, British ceramic artist and Professor of Ceramics at the University of Westminster,2011 Order of the British Empire (OBE) for Service to the Arts,worked on a monograph of Leach, researching Leach’s papers and journals in the archive room of the Japanese Folk Crafts Museum,his book ” Bernard Leach” was published in 1998. ”Rethinking Bernard Leach”: Studio Pottery and Contemporary Ceramics, with Kenji Kaneko was Published in 2007. De Waal noted that Leach did not speak Japanese and had looked at only a narrow range of Japanese ceramics、but it was not true. He did not know about years in Abiko artists colony leading Yanagi Muneyoshi.

Attracted by the Prussian philosopher and art scholar Dr. Alfred Westharp, who at the time was living in Peking, Leach moved to Peking in 1915. There he took on the Name 李奇聞 (for "Leach"), but returned the following year to Japan. – It was the year 1919, when young Hamada Shoji visited Leach for the first time. Leach received a kiln from Kenzan and built it up in Yanai's garden and called it Tomon-gama. Now established as a potter, he decided to move to England.

In 1920, before leaving, he had an exhibition in Osaka, where he met the potter Kawai Kanjiro. In Tokyo, a farewell exhibition was organised

Leach was instrumental in organising the only International Conference of Potters and Weavers in July 1952 at Dartington Hall, where he had been working and teaching. It included exhibitions of British pottery and textiles since 1920, Mexican folk art, and works by conference participants, among them Shoji Hamada and US-based Bauhaus potter Marguerite Wildenhain. Another important contributor was Japanese aesthetician Soetsu Yanagi, author of The Unknown Craftsman. According to Brent Johnson, "The most important outcome of the conference was that it helped organize the modern studio pottery movement by giving a voice to the people who became its leaders…it gave them [Leach, Hamada and Yanagi] celebrity status…[while] Marguerite Wildenhain emerged from Dartinghall Hall as the most important craft potter in America."


But in fact the people he was spending time with, and talking to, were very few, highly educated, often Western educated Japanese people, who in themselves had no particular contact with rural, unlettered Japan of peasant craftsmen".

Writings (selected)
•1940: A Potter's Book. London: Faber & Faber
•New edition, with introductions by Soyetsu Yanagi and Michael Cardew. London: Faber & Faber, 1976, ISBN 978-0-571-10973-9
•1985: Beyond East and West: Memoirs, Portraits and Essays. New edition, London: Faber & Faber (September 1985), ISBN 978-0-571-11692-8

Honours
•Japan Foundation Cultural Award, 1974.
•Companion of Honour, 1973 (UK).
•Order of the Sacred Treasure, 1966 (Japan).
•Commander of the Order of the British Empire, 1962.


Souce ;https://alchetron.com/Bernard-Leach-1273834-W
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2016年11月18日

On the beginnings of Mingei at Abiko

YANAGI SOETSU WAS IMPRESSED BY THE WARM, dignified and majestic ceramics of the Joseon Dynasty. His encounter with Joseon crafts became the prologue for the Mingei movement. In Japan, indeed in the world, when talking about Joseon ceramics and crafts, the names of the Asakawa brothers, Noritaka and Takumi, and Yanagi Soetsu cannot be excluded. This is because, until these three met, the general view was that the only Korean crafts deserving recognition, including ceramics, were the Goryeo celadon ware and also some bowls revered by Japanese tea masters that were attributed to the Goryeo period but actually came from the Joseon period.

This view was proven incorrect by the exhibition Art of the Korean People held at the Ryuitsuso Gallery in Kanda, Tokyo, from May 7th-15th, 1921. This exhibition was organised under the auspices of the Korean Folk Art Museum. That little-known museum is the reason why the names of the Asakawa brothers and Yanagi Soetsu cannot be excluded when talking about Joseon ceramics and crafts. The story of how the Korean Folk Art Museum became the crystallisation of the wisdom of the Asakawa brothers and Yanagi Soetsu, is the subject of this article.

In September 1914, Asakawa Noritaka, a schoolteacher in Korea, visited the Yanagi residence in Abiko Chiba Prefecture Japan, for the purpose of viewing a sculpture by Rodin, which had been presented to the Shirakaba group of which Yanagi was a member. Asakawa's present of several pieces of Joseon ceramics introduced Yanagi to Korean pottery.





Gazing at the gift of Korean pottery Asakawa had brought him, Yanagi said "I had never dreamed of discovering in cold pottery such warm, dignified and majestic feelings. As far as I know, the people (1) with the most developed awareness of form must be the ancient Korean people." Two years later in August 1916, Yanagi visited the Korean Peninsula for the first time, to investigate the true beauty of Korean crafts.

Asakawa Noritaka travelled down to Pusan to meet Yanagi and brought him back to Seoul, then known as Keijo. Asakawa wrote in his book Reminiscences of Korea: "In his zeal for Korean crafts, Yanagi has already bought a ferric-oxide decorated vase in Pusan and mailed it back to Japan. Despite the heat here (in Seoul), Yanagi has been doing the rounds of the antique shops and hunting through them every day."

[ILLUSTRATION OMITTED]

Yanagi was fascinated by the beauty of form in Korean design and while in Seoul bought many Korean craft objects. But perhaps one of the most valuable things Yanagi was able to obtain on that trip to Korea was his acquaintance and subsequent friendship with Asakawa Noritaka's younger brother, Takumi.

Asakawa Takumi joined his brother Noritaka, who was seven years older, one year following Noritaka's move to Korea in 1914. Resigning from his job with the Akita Prefectural Forestry Office, Takumi found work with the Korean governmental Forestry Office. A devout Christian, as was his brother Noritaka, Takumi followed the missionaries in learning the Korean language and generally assimilating himself in the Korean way of life.

Yanagi enjoyed staying as a guest in Takumi's house. Observing the Korean craft objects which Takumi had acquired while setting up house with his wife, Yanagi experienced astonishment and inspiration in the true beauty of the Korean crafts.

On March 1, 1919, the Mansei Demonstrations or March First Movement (2) (in Japanese Banzai Jiken) occurred. In what he later refers to as "the first thing that I wrote about Korea after realising that there was no one speaking publicly in their defence" Yanagi hastily wrote Chosenjin o Omou (Sympathy Towards the Koreans). This lead to a series of articles being published in the Yomiuri newspaper from May 10 to May 24 that year. Through that series of articles Yanagi was able to express his sincere affection for the Korean people.





In 1920 accompanied by his wife Kaneko, a professional alto singer, Yanagi made his second visit to the Korean Peninsula. With the co-operation of Asakawa Takumi, Yanagi held lectures and Kaneko gave concerts, with the purpose of showing support for the Korean people's situation. The Yanagi's humanitarian acts made a great impression on Korean intellectuals and were received favourably. These positive results prompted Yanagi to consider with Takumi, the proposal of setting up an art museum, to further show support for the Korean people. In the January 1922 edition, Volume 13, Number 1 issue of the Shirakaba magazine, Yanagi announced the official proposal for the museum. The following is an excerpt from that article: "When trying to understand the humanity of any nation, I always think the easiest way is to examine that country's art. I believe it to be even more necessary now, when relations between Japan and Korea are in a pressing situation. If art could be used as a means of understanding, then I am confident that Japan could always remain the warm friend of Korea. I wish for all objects in my possession to belong to everyone. When the heart is consumed with beauty, there can be no thoughts of conflict. I have no doubt in my mind that the day when those excellent works of art of the Korean people will intersect and blend in our hearts, is not far off. I also have no doubt that the creators of those excellent works of art will become our heartfelt friends. To fulfil this hope and conviction, I propose the establishment of the Korean Folk Art Museum. First I intend to amass a collection which is representative of the unique characteristics of Korean folk art. Through this collection in the museum, I hope to convey the beauty of Korea which in turn represents the feelings of the people. It is also my wish that this will serve as a stimulus to promote the continuity and also the revival of the Korean ethnic art. "

Through the success of this exhibition, Yanagi and the Asakawas became confident in their mission and in October of the following year, 1922, were able to have the world's first Joseon Dynasty ceramic exhibition at the Kizoku Kai Kan (Aristocrats' Hall) in Seoul, the first event held under the name of the Korean Folk Art Museum. Finally, in April 1924, the Korean Folk Art Museum was officially opened at Chipkyongdang in the Gyeongbokgung, the main royal palace of the Joseon dynasty, located in Seoul. In the process of establishing the new museum, Yanagi and the Asakawas were repeatedly requested by the Japanese colonial government of Korea to remove the word minzoku, meaning folk or ethnic, from the name of the museum. However, they refused to comply with the request to compromise on this important word in the museum's name. The reason for that is, as Yanagi had stated in his proposal for the establishment of the museum: "It is also my wish that this will serve as a stimulus to promote the continuity and also revival of the Korean ethnic art."

With this important point as a premise in its establishment, the Korean Folk Art Museum was established when Yanagi Soetsu was 35, Asakawa Noritaka 40 and Takumi 33 years old. It is because of this noble ambition, that even though the museum was destined to vanish after fulfilling its historical mission, their achievements are still spoken of with respect and their names have been immortalised.

[ILLUSTRATION OMITTED]

Yanagi Soetsu's approach to craft, in particular folk craft or Mingei, was influenced by his experiences during his sojourn in Korea. Through his experience with Korean crafts, especially the beauty of Joseon crafts, Yanagi and the two Asakawa brothers were able to support the Korean people who were forced to endure the oppression of the Japanese rule after Korea's annexation by Japan in 1910.

It was the intention of the Asakawa brothers, Noritaka and Takumi, and Yanagi Soetsu to evoke a sense of pride in the Korean people, by exhibiting the excellent craft articles of the Joseon Dynasty. This intention was realised in the exhibition at the Ryuitsuso Gallery in Kanda, Tokyo, Japan.

REFERENCES:

(1.) 'Abiko kara: Tsushin 1' Shirakaba magazine, vol 5, issue 12, 1914.

(2.) The March First Movement was one of the earliest displays of Korean independence move ments during the Jap anese occupation of Korea. Massive crowds assembled in the Pagoda Park to hear a student, Chung Jaeyong, read the Korean Declaration of Independence.

Victoria Oyama is an Australian potter who spent many years in Mashiko, Japan. This article is written by Shinzo Ogyu and translated by Victoria Oyama. Photography courtesy Nihon Mingeikan.


COPYRIGHT 2008 Ceramic Art
No portion of this article can be reproduced without the express written permission from the copyright holder.

Copyright 2008 Gale, Cengage Learning. All rights reserved.


Resouce:https://www.thefreelibrary.com/The+beauty+of+Joseon+Dynasty+crafts%3A+Victoria+Oyama+has+translated...-a0216897164
posted by その木なんの気、柳の気 at 23:21| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月23日

昔の手賀沼

宝永のころの地図です

手賀沼 宝永図.gif
posted by その木なんの気、柳の気 at 08:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月18日

ミキモトパールと柳宗悦の父

ミキモトパールは世界の女性の憧れ、この名を知らない人は少なくても日本人にはいないのではないか。
この真珠王・御木本幸吉が養殖真珠を創るまでの秘話に柳宗悦の父が大きくかかわっていたことを知る人は少ない。採ればもうかる、外国へ天然真珠輸出できるとなって、濫獲が進み、伊勢志摩のアコヤ貝は絶滅寸前となっていきました。

 「このままでは、アコヤ貝がいなくなってしまう。」と考えたのが御木本幸吉でした。町が疲弊する前に、アコヤ貝の増殖に着手をします。

 そのとき力を貸してくれたのが、柳宗悦の父(津市出身の大日本水産会幹事長・柳楢悦(ならよし)でした。楢悦のお陰で海の使用を許可された御木本幸吉は、海底に打った杭に縄をはり、そこに結わえた瓦や木片に稚貝を付着させるというアイディアを実践します。

 実験開始から約3か月、稚貝が付着しているのが確認され、実験は成功。その後もアコヤ貝の数は順調に増えていきました。 貝が増えれば採れる真珠もそれに比例すると考えていた幸吉でしたが、期待していたほど多くの真珠は得られませんでした。

 そんな時、柳氏から「動物学の権威で真珠研究の第一人者でもある東京帝国大学教授・箕作(みつくり)佳吉(かきち)理学博士に紹介したい」という手紙が届きました。
 幸吉は早速博士の研究所を訪ね、天然の真珠が生まれるプロセスを学びます。それは、「なんらかのきっかけで貝の中に異物が入り込み、それが吐き出されずに長い時間貝の体内に留まれば、その異物を包むようにして真珠質が形成され真珠になる。」というものでした。
 
 しかも、「誰も成功したことはないが、理論上は人の手によってできるはずだ。」というのです。
 その言葉は、幸吉の心に火をつけました。「誰も成し遂げたことのない仕事こそ、やってみる価値がある。なんとしても自分の手で真珠をつくってみせる。」と決意を固めたのでした。

 東京から戻った幸吉は早速、英虞湾(あごわん)で真珠養殖の実験に取り掛かります。
 ガラス玉や陶器のかけらなど、思いつく限り色々なものを貝に入れ、数か月後に開いてみるという作業を何度も繰り返しておこないました。
 しかし、たいていは吐き出されてしまい、まれに貝の体内に残っていても真珠はできていませんでした。
 何の成果もなく時間だけが過ぎ、資金繰りにも苦しむ幸吉の様子をみて、周囲の人々は「悪い男ではないが、真珠なんぞに憑りつかれてしまって…。気の毒に。」などと陰口を言うようになりました。

 そんな周りの冷たい視線にも負けずに実験を続ける幸吉を、最大の試練が襲います。大規模な“赤潮”が発生し、英虞湾の貝五千個が全滅してしまったのです。
 「もうだめだ、諦めよう…」そう思い始めていた幸吉をもう一度立ち上がらせたのは、彼を支え続けた最愛の妻・うめでした。

 「まだ、相島(おじま)の貝が残っています。」
 用心深い幸吉は何かあった時のためにと、鳥羽の相島でも千個程の貝を育てていました。
 幸吉は被害を免れたわずかな貝で、最後のチャンスに懸けることにしました。

 そして実験開始から3年余り経った明治26(1893)年7月11日、運命の時が訪れます。
 その日もうめと一緒に数か月前に異物を入れた貝を引き上げ、真珠ができているかどうか確認していました。
 すると突然、「あ、あなたっ!!」と叫ぶうめの声が静寂を破ります。
 慌てて駆け寄った幸吉にうめが一つの貝を差し出しました。
 
 その貝の内側には、確かに幸吉の手で入れられた異物を包むようにして半円形の真珠ができていたのです。
 それは、これまで世界の誰も成功することがなかった養殖真珠誕生の瞬間でした。
 その後も多くの人の協力を得ながら努力を重ね、幸吉が人生のすべてをかけて完成させた養殖真珠は世界中の女性を輝かせていきました。
 
 多くを語らない、しかし、柳父子が日本に残したものは多大であったと思います。


posted by その木なんの気、柳の気 at 12:13| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月23日

我孫子の芸術家村

●白樺派と我孫子
1914(大正3)年、柳宗悦は声楽家中島兼子と結婚し、叔父の嘉納治五郎(講道館創始者、教育者)のもつ我孫子の別荘の隣地(「三樹荘」)に引っ越してきた。東京から常磐線で1時間余り、静謐(せいひつ)で美しい手賀沼が広がる我孫子が気に入った柳のすすめもあって、大正4年に志賀直哉がこの地にすまいを構え(大正12年まで居住)、つづいて武者小路実篤や陶芸家バーナード・リーチ、志賀を師と慕う小説家瀧井孝作も我孫子に集った。
1910(明治43)年、学習院、東京帝国大学に学ぶ若者たちが文芸雑誌「白樺」を創刊した。「白樺」には志賀直哉、柳宗悦、武者小路実篤、有島武郎、有島生馬、里見ク、木下利玄、郡虎彦、長與善郎、梅原龍三郎、岸田劉生、中川一政ら若い作家・芸術家たちが集い、後に「白樺派」と称される。彼らは近代芸術を創ったロダンやセザンヌを理想と仰ぎ、既存の芸術・文芸からの脱却と革新を志していた。

●志賀直哉の住まい
志賀直哉がここに設けた住まいは、生活の場である母屋(大正4=1915年)と、「二階家」と呼んだ崖の上の離れ(大正7=1918年頃)、そして書斎(大正10=1921年)からなっていた。母屋は茅葺きで基本的に畳敷きの和風だったが、東側に下見板を張った洋風の書斎と応接間を配置し、明治末から大正にかけて流行した和洋折衷式と呼べるものだった。我孫子の別荘の多くは、眺望の良い台地の先端部に設けられている。しかし、志賀の住まいは台地の裾を中心に展開しており、志賀邸の前の道(住民の生活道である沼沿いの道=ハケの道)と沼へのアクセスを意識していたことが分かる。これは友人である武者小路邸との往来や、沼での舟やスケートなどの野外活動を好んだ志賀の嗜好のためと考えることもできる。
崖からは湧水が滲み出ているが、手賀沼の水源でもあり、かつては沼沿いのあちこちでみることができた。志賀家ではこの水を横井戸から導いて缶に貯めて活用していたようである。

●志賀直哉書斎
志賀がこの書斎を作ったのは1921(大正10)年のことである。木造平屋の切妻作りで、床面積は約44坪(14.46u)、6畳間の北側に床の間、地窓と踏込み 、トイレを配し、東側に押入を突き出し、南側に濡れ縁を設けている。屋根は現在、銅板平葺き、外壁は漆喰塗りで腰を板張りとしているが、当初は杉皮葺きで、外壁は下まで漆喰塗りであったことが古い写真から判明している。四面に開口部が設けられ、通風と採光への配慮が見られる。内装は漆喰仕上げの壁、船底天井に網代を張り、棹縁に柱の磨き丸太を用いている。柱は杉材で手斧(ちょうな)跡を残したなぐり仕上げとし、虫喰い跡のある杉丸太の梁や垂木を見せる。床柱には青桐の皮付き丸太、落し掛には湾曲した百日紅(さるすべり)を用いるなど、数寄屋風の手法であるが、かなり独創的で趣味的な建物となっている。
志賀はここで「暗夜行路」の前篇と後篇の大半部を執筆した。志賀が大正12年に我孫子から京都へ引っ越し、書斎を含めた建物も地元住民の住宅に移築され、当初は長らく更地となっていた。1987(昭和62)年、市民の保存要望を受けて書斎は元の場所に再移築され、敷地は志賀直哉邸跡として整備された。
書斎は移築や修理を受けているが、創建当初の部材が再利用され、独創的な意匠は志賀本人がデザインし、我孫子の大工である佐藤鷹蔵(バーナード・リーチがデザインした椅子や旧杉村楚人冠邸「澤の家」を作った)が建てた。このことからこの書斎は平成23年に我孫子市指定文化財となった。

●ここで書かれた小説
我孫子に移住する前の志賀は、父との確執に悩み、小説の執筆も余り順調とはいえなかった。我孫子移住後は静かな環境の下で柳や武者小路たちと感性を高めあい、心に癒しを得て、再度創作へと意欲を高めていった。
1917(大正6)年、長年不和であった父親との和解を題材にした小説「和解」を執筆した。また、同年「城の崎にて」、1920(大正9)年には「小僧の神様」、1921〜1923(大正10〜12)年には「暗夜行路」の前編と後編の大部分を次々に発表し、充実した作家生活を送った。
我孫子を題材にした小説も多く(「雪の日」、「流行感冒」など)、当時の我孫子の情景をしのぶ貴重な資料となっている。

●文人たちのエピソード
志賀直哉をはじめとして我孫子に集った白樺派の文人たちが残したエピソードを瀧井孝作(作家・俳人)、木下検二(志賀の学習院時代の後輩)、柳兼子(柳宗悦の妻)、武者小路実光(武者小路の甥・仏文学者)の想い出から紹介する(「我孫子市史研究」より、敬称略)。

・EPISODE1
白樺派がいた大正時代の我孫子は、志賀や柳、武者小路が我孫子を取り上げて書くため、「特別な文学村」のように考えられていたという。

・EPISODE2
柳兼子はバーナード・リーチの意見を取り入れ、味噌を入れたライスカレーを訪れる文人たちにふるまった(「白樺派のカレー」として復刻されている)。

・EPISODE3
白樺派の文人たちが集った大正時代の我孫子は、駅付近を除いて電気が通じていなかった。志賀や瀧井は、我孫子駅からロウソクに濡れた紙を巻いたものを灯して暗い夜道を帰ったという。1917(大正6)年に設けられた東京帝国大学教授村川堅固の別荘(旧村川別荘)にも常夜灯としての灯篭が残されている。

・EPISODE4
当時の我孫子は静かな場所だったため、柳邸と志賀邸との連絡は蓄音機のラッパを外してメガホン代わりにすることで用が足りたという。

・EPISODE5
志賀は雪の日が好きだったが、寒がりのため、仕事中は着物の上に丹前をまとい、備長炭を山盛りにして火鉢を焚き、ストーブまで点けていたという。

・EPISODE6
志賀は崖に穴(横井戸)を掘り、したたり落ちる湧水を活かして「天然の冷蔵庫」として利用していた。この湧水は今でも崖に認められる。

・EPISODE7
志賀と武者小路の家との間は約2キロ離れているため、互いの家を訪れるのに舟を使って往来していた。志賀、武者小路とも器用に棹を操ったという。

・EPISODE8
志賀や武者小路たちは志賀の妻・康子の指導を受け、女子学習院で行われた「テザーボール」(3mほどの木の棒を地面に立て、棒の先から麻縄につけたゴムマリを吊り下げ、二人で向い合ってラケットでゴムマリを打ち、早く麻縄を柱に巻きつけたほうが勝ち、という球技)をして遊んでいたといい、スポーツマンの志賀が一番強かったという。またテニスコートを作って楽しんでいた。

出典:http://yshisotricalplace.web.fc2.com/historical_place/naoya_shiga_abiko/index.html
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2016年01月21日

バーナードリーチと我孫子と柳宗悦のつながり

高村光太郎が書いた紹介状のあて先の中には、彼の父親である彫刻家の高村光雲、その友人の岩村透がいた。2人とも東京美術学校(現・東京芸大)の教授である。日本語を全く解さないリーチのために、岩村は教え子の1人を紹介し、身の回りの世話をさせることにする。リーチは日暮里に暮らしながら、上野桜木町にある寛永寺の貸し地に、西洋風でもあり和風でもある1軒家を新築し、英国からミュリエルを招き寄せる。リーチはここで銅版画を教える積もりであった。生徒募集のため、宣伝を兼ねた3日間のデモンストレーションを行ったリーチのもとに、数人の見学者が訪れる。それは名前をあげれば、柳宗悦、児島喜久雄、里見ク、武者小路実篤、志賀直哉などの、翌年には白樺派(*)を起こすことになる蒼々たるメンバーであった。これ以後リーチと白樺派のメンバーは互いに学び合い、思想の上でも双方共に多くの刺激を受けていくことになる。特にリーチと柳宗悦の関係は生涯続き、リーチの思想形成にも重要な役割を果たす。
結局、銅版画クラスはリーチが白樺派から日本文化を学ぶ時間にとって代わられた形で、自然消滅した。だが当時の日本は物価も安く、父親の遺産もあったリーチは、ミュリエルと共に近くの学校で英語を教えたり、前述の岩村透の関係する美術誌にエッセイを寄稿したりするなどして、必要以上にあくせく働く必要はなかったようだ。
 リーチにとって、この時期はひたすら学びの時であった。日本文化についてばかりではない。ロダンやヴァン・ゴッホの作品を、西洋と変わらぬリアルタイムで鑑賞し、イプセンやウィリアム・ブレイクについて仲間と議論を戦わせるという体験もしている。柳宗悦によれば、ゴッホ並びに後期印象派の作品を全く知らなかったリーチは、ゴッホの作品を観て興奮し、帰り道に「英国は眠っている!」と電信柱を何度も殴っていたという。こうして、リーチはラフカディオ・ハーンの描くエキゾチックな過去の日本のイメージを次第に払拭しながら、「西洋美術」対「非西洋美術」という杓子定規な概念から離れてアートをとらえる視点を獲得しつつあった。

 Bernard Leach Tile 1925 cTate St Ives 
 一方、妻のミュリエルとの関係はリーチが芸術にのめり込む分だけ、希薄になっていた。しかも、10歳で寮暮らしを始めた彼は家庭生活、とりわけ夫婦生活がどういうものかよくわかっておらず、リーチにほとんど置き去りにされたミュリエルは、キリスト教の布教のために日本を訪れているグループと時間を共にしていたらしい。
 1911年、白樺派との関係は良好だが、銅版画や絵画など、自身の作品の方向性に行き詰まりを感じていたリーチは、ミュリエルから妊娠を知らされる。これは彼に新たな責任が付加されることも意味した。父親になることに歓びながらも、一家の大黒柱となることに重圧を感じた。
 しかし、その後この結婚生活が破綻するなどとは思いも寄らなかったのであろう。この時まだミュリエルは、夫との将来を信じており、英国にいる両親にもそのように書き送っている。
 そんなリーチに、再び転機が訪れる。建築家の友人、富本憲吉と共に訪れた茶会の席で、初めて楽焼きを体験したのだ。楽焼きとは低温で焼く、素人にも参加できる素朴な焼き物の一種である。リーチは自分の絵が皿に焼き付けられるのを見て非常に興味を覚え、陶芸についてもっと学びたいと考える。友人を介し
 Bernard Leach Ceramic 1925 cTate St Ivesて紹介されたのは、6代目乾山こと浦野繁吉で、リーチは彼に入門するとほぼ毎日工房に通う。1年後には自宅に窯を築くまでになり、更に一年後には7代目乾山の伝書をもらい免許皆伝となった。また、陶芸を学ぶことは、茶の湯や禅を始め、さらに深く日本文化を知ることであり、中国や韓国の文化に触れることだともいえる。リーチはこうして陶芸を通し、さらに広い視野で東洋を、そして美術の世界を見つめ始めていた。それまでは西洋に対する東洋、純粋美術に対する工芸など、AとBを対比させる二元論で物事を考えてきたリーチだが、陶芸の世界に触れたことで、これまでのような対比だけではなく、二者の融合の可能性を考えるようになっていく。
 これは今後のリーチの生涯の軸ともなる問題でもあった。彼はこの問題を深く考えるうちに、次第に陶芸を離れ哲学の世界に傾倒して行く。こうして26歳のリーチが「手を動かしてこそ思想が生きる」のだということに気づくまで、まだもう1つの段階を経る必要があったのだ。

出典:ONLINE ジャーニー
http://www.japanjournals.com/2011-01-14-15-46-57/great-britons/565-2011-01-24-16-09-31.html?start=2
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2016年01月11日

明治の開国と日本への憧憬

 日本におけるウィリアム・モリスの紹介は、1890年代のはじめから始まる。それは、極めて断片的なものであり、主として詩人あるいは社会主義者としてのモリスを扱うものであった。その後、英国留学から帰国した、のちに陶芸家となる富本憲吉が、1912年に、エイマ・ヴァランスの書物に基づき、工芸家としてのモリスに関しての評伝を発表し、続いて1915年には、第4次外遊ののち、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の西洋美術史の教授であった岩村透が、「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」を書いている。

 モリス像は、ある種の誤謬が初期にみられ、それから適切な修正がされるまでには、1920年代はじめの、つまり「大正デモクラシー」の絶頂期の新たなモリス研究の再開まで待たなければならなかった。

その以前の1850年代中頃から、アーツ&クラフツの運動をうけて展開されるフランスのアール・ヌーヴォーの展開には、イギリスのデザインへの日本からの影響が見られるという事がよく知られるようになっている。しかし、第一次と二次の大戦の間の時期にも日本からのインスピレーションを受けていた事は、さほど一般には認められていない。

しかし、ウェルズ・コーツのデザインが実証するように、日本からの影響は、1920年代そして30年代にもみられ、モダニズムのデザインや建築への重要なインスピレーション源であったと考えられる。

 イギリスの近代運動の中心人物であったコーツは、彼が日本で受けた教育と幼少期に受けた影響が彼の作品に多大な影響を受けていた。のデザインと執筆、日本の建築物に関する記述やイギリスにおけるデザインのモダニズムへの彼の貢献を考えると、コーツは日本そして日本建築に関する知識の伝道者だった。
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2016年01月10日

モリスは、社会主義の推進者として知られていた!?

 ウィリアム・モリスは現在の日本では、特に室内装飾のデザインで知られている。私は大阪のデパートで展示を見たことがある。彼はまた、「ユートピアだより」を書いた、空想的社会主義者として知られている。事実、モリスはアーツ&クラフツ運動の指導者であり、また詩人であった。
 しかし、ほとんど知られていないのは、彼がイギリスで、マルクスの生存中に、最初期のマルクス主義者として活動したということである。モリスがマルクスについて知ったのは、20歳年少のバックスを通してであった。バックスは音楽を専攻するためにドイツに行ったが、マルクス主義者として帰国した。マルクスの三女エリノアとともに、彼らは1885年に社会主義同盟を結成した。また、彼らは本書を協同で書いた。
 興味深いことに、モリスは、日本では明治から大正にかけても高名であったが、もっぱら社会主義者としてであった。たとえば、幸徳秋水や山川均は、本書を社会主義に関する必読書として紹介している。では、なぜこのような逆転が生じたのか。一つには、ロシア革命以後に、ロシア的マルクス主義が圧倒的に強くなったからだ。モリスは、イギリスの現実にもとづいてマルクスが書いた『資本論』の認識を踏まえつつ、オーウェンやラスキンなどイギリスの多彩な社会主義の伝統を受けついで考えた。が、ロシア革命以後、そのような試みは黙殺された。その結果、モリスはたんに芸術家・詩人と見なされるようになったのである。
 とはいえ、どちらの面が重要か、と問うべきではない。それらは分離してはならないし、また、分離できないところに、モリスらの「社会主義」の神髄がある。1893年、すなわち日清戦争の前年に出版された本書は、現在、読みなおす価値のある古典である。
    ◇
 川端康雄監訳、晶文社・2484円/W.Morris 1834〜1896▽E.B.Bax 
1854〜1926

出典:http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2015022200003.html
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2016年01月09日

柳田国男と柳宗悦のクロスロード

この週末、「ウィリアム・モリスと柳宗悦」(12/20)と「アーツ・アンド・クラフツ運動と民藝運動」(12/21)というシンポジウムが、阪大の豊中キャンパス、文法経講義棟41で開かれます。今年度が最終年度である藤田治彦先生の科研「アーツ・アンド・クラフツ運動と民藝」の成果発表会でもあります。詳細は以下を参照ください。

http://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/seminar/2014/12/6330

 こちらは、ロバートソン・スコットいう英国のジャーナリストについてお話します。1915年から1919年まで日本に滞在した彼は、大戦中、英国大使に依頼され、対日プロパガンダ活動に従事します。日本語が不自由なスコットが協力者として目をつけたのが、柳宗悦。ただし剣もほろろに断れます。

 そこで匿名を条件に協力をとりつけたのが柳田国男なのです。これが怪我の功名というべきか、もともと農村に関心のあった柳田の関心とひびきあい、二人はともに調査旅行を行うまでになります。その成果報告として、帰国後、スコットはFoundations of Japan(1922)という大著をまとめます。柳田は謝辞にあるのみですが、柳と内村鑑三については詳細なインタビュー記事が掲載されます。

 もし柳が宣伝活動に協力していれば、この本は民芸や新しき村について多くのページを割く書物になっていたのかもしれません。とはいえ、スコットが宣伝のために刊行した『New East(新東洋)』というバイリンガル雑誌には、柳やバーナード・リーチ、鈴木大拙(ここでの連載が『禅と日本文化』の原型となります)など、多士済々が日本文化について質の高い論考を寄稿します。ただ、ここでも柳田は表だってでてきません。

 スコットをめぐって、柳、柳田、リーチがどのように交錯したのか、そんなことを当日はお話するつもりです。

 なおスコットの活動とNew Eastは、今年度から始まった神智学の科研共同研究(代表・安藤礼二先生)につながっていきます。スコットと入れ替わるようにして、野口米次郎の招きで慶應にJames Cousinsがインドからやってきます。アイルランド出身のカズンズは、神智学の宣伝に奔走するのですが、その際に、柳ほかスコットの人脈をかなり利用(というか逆用)しているのです。

 インドの反英運動を刺激するからとNew Eastは神智学を批判するものの、大拙やOsvald Sirenなど、神智学関係者の記事がしばしば掲載されていました。おそらくカズンズは、New Eastを読んで参考にしたのではないかと思っています。そのせいかどうか、カズンズは、離日後にインドで、New Japanと題した日本滞在記を刊行します。New Japanでは、柳やリーチ、そしてベースとなる岡倉の『東洋の理想』が、New Eastとは実に対照的に登場しており、両者の比較は来年度にでもできればと思っています。。

 なお、ご参考までに、当日配布する発表要旨を掲載しておきます。文中にある拙稿は、

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/handle/11094/27378

で公開されています。
 
「ロバートソン・スコットと民藝運動」        
 ボーア戦争に反対するなど反戦論で知られた英国のジャーナリスト、J・W・ロバートソン・スコット(1866-1962)は、1900年以降、農業や農村について記事や書物を多く刊行するようになる。ジャーナリズム界から去ったのが、主戦論にわく政府からの圧力のせいなのかどうかはよくわかっていない。しかし、この両極に揺れ動いたかにみえる執筆活動は、反戦の筆を折ったというよりは終始一貫しているとみることが可能だろう。競争と戦争を引き起こす都会の物質文明から逃れ、農業と牧畜を基盤とする村落共同体に活路を見いだすという点では、19世紀的な田園幻想という同じ硬貨の両面といえるからである。
 西欧文明の内戦ともいえる第一次世界大戦が勃発してから約一年後の1915年、スコットは日本へ向かう。浩瀚な農村調査にもとづく大著Foundations of Japan (1922)にしたがうならば、日本の農業についての研究はこれまでになく、それによって英国の文明を建て直すためだという。そこには日本が近代化と田園とを調和させているという誤解もあったのではないか。そもそも日本の庭園や農村は、ヴィクトリア朝の旅行者を通じて過剰に美化される傾向があった。その点で、スコットが義和団事件を機にして刊行した小冊子Peoples of China(1900)が一つの傍証になる。ステッドのもとで修行した名ジャーナリストらしく、スコットは中国を訪れることなく、中国関係の書籍をあさり、それらを切り貼りすることで、この入門書を書いた。ステッドが、月刊誌Review of Reviewsで膨大な雑誌新聞を巧みに編集して要約した手法と、スコットの書き方は実によく似ている。この小冊子のなかでスコットは、中国の大部分は都会ではなく村落と指摘しつつ、その家族を基盤とする共同体には長老たちの頑迷で固陋な支配しかないと否定的に記した(69-71)。つまり、スコットの関心は近代以前の農業社会ではなく、産業都市と共存する農村共同体にあったといえるだろう。すでに多くの研究があった中国でもインドでもなく日本の、しかも農村を調査しようというのは、こうした背景があったからではないか。
 ただ日本を訪れて以降、スコットは、再びジャーナリズムの世界に飛び込み、今度は一次大戦における英国の大義を声高に主張することになる。これはスコット自身というより、すでにIan Nish (1972)やMari Nakami (1997)が指摘しているように、グリーン英国大使から対日宣伝活動を依頼されたためである。こうしてスコットは敵国ドイツの蛮行を強調し、日英同盟の堅持を呼びかけ、アジア主義者がインドに接近する危険を警告した。英国にとってのインドは、日本にとっての朝鮮半島だというのである。その宣伝に際してスコットに協力をよびかけられて断ったのが柳宗悦である。一方、船木裕 (1991)が明らかにしたように、スコットが執筆したプロパガンダであるIgnoble Warrior (1916)の邦訳原稿を作成し、日本語が不自由な彼の農村調査に同行協力したのが、柳田国男だった。つとに知られるように、柳と柳田は、西洋物質文明の対極にあるような日本や東洋の文化という関心を共有しつつも、とりわけ植民地に対する態度が異なるなど、けっして親しく交わることがなかった。スコットという共通の友人をもちつつ、ここでも二人は距離を置いていたことになる。
 たとえばスコットが宣伝のために編集していた雑誌『新東洋』(1917-8)には、柳やリーチも寄稿しているが、柳田はさして関わろうとしなかった。そしてスコットが柳田とともに調査した成果を盛り込んだFoundations of Japanに、柳についてはインタビュー記録といえるほど多くの頁を割いているが、柳田の名は謝辞にあるのみである。なお本書に挿絵を提供しているのは、スコットの妻の妹であったElizabeth Keithであり、版画家として知られる。姉を訪ねて来日してからは日本の版画を学び、アジア各地を旅行して残した作品は、特に朝鮮半島の貴重な記録として近年、再評価されている。この点からも両者の違いを浮き彫りにすることが可能だろう。
 このようにスコットの日本滞在( 1915-1919) に注目することで、民藝や民俗学をとりまく人脈の広がり、ひいてはその反響と反発が発掘できるのではないか。リーチは1919年に日本の工芸についての報告書を英国政府に提出しているが、こうした文脈は、スコットが拡大し攪拌した政治と工芸の境界を読み直すことで浮かび上がってくるだろう。拙稿「日英における移動と衝突 : 柳、柳田、スコット、リーチの交錯の例から」(2013)をもとに、スコット周辺の交錯を解きほぐししながら、スコットと民藝運動、ひいては民俗学とのかかわりとその文脈を明らかにしたい。

出典:
Facebook https://www.facebook.com/yorimitsu.hashimoto/posts/741860509238675
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2015年05月08日

kaneko

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2015年04月19日

Yanagi Muneyoshi and Two bothers met in Abiko, in the early 20C.


Noritaka Asakawa (浅川 伯教 Asakawa Noritaka?, August 4, 1884 – January 14, 1964) and Takumi Asakawa (浅川 巧 Asakawa Takumi?, January 15, 1891 – April 2, 1931) are two brothers who pioneered the study of Korean ceramics, and who worked to preserve and promote indigenous Korean culture. The two brothers were born in Yamanashi Prefecture, Japan, but would move to the Korean peninsula by early adulthood. Noritaka introduced Soetsu Yanagi to Joseon ceramics, and he alongside his brother greatly influenced Yanagi who later stated, "My encounter with Yi (Joseon) Dynasty everyday utensils was a critical one in that it determined the course of my whole life."

During Japan's occupation of Korea, Noritaka was stationed as a Japanese elementary school teacher in present-day Seoul with Takumi being sent there a year later as a forest engineer.The Asakawa brothers alongside Yanagi were critical of the Japanization of Korea during Japan's occupation, and stressed the value and importance in maintaining Korea's native culture. In 1924 the three founded the National Folk Museum of Korea, in Seoul, displaying examples of Korean culture as well as their own research.

Noritaka devoted the remainder of his life to searching for and studying Joseon ceramics. During his lifetime he surveyed 700 sites of old kilns, recovering and classifying enormous quantities of pieces and remnants. A member of the Society for the Appreciation of Korean Arts and Crafts, the essays he wrote appeared in such periodicals as the Shirakaba, the leading literary magazine in his time, and would harbinger appreciation of Joseon ware outside of Korea.Noritaka's body of work continues to receive academic praise to this day. Additionally, Noritaka produced paintings that were often inspired by the Korean artifacts he observed.His brother Takumi would ultimately publish "Survey of Korean Ceramics," an enormously important reference volume that remains in print today, detailing and describing various aspects of Korean ceramics.

Takumi lived as a Korean, and died at the age of 40 after delivering his final words "bury my bones in the land of Joseon." Beloved by the locals he was given a funerary procession, and would posthumously become well known for his work promoting Korean culture, being depicted in the novel "The Man of White Porcelain", by Emiya Takayuki, which is due to be released as a film in 2012. In 2011, Chiba City Art Museum held a special exhibition titled "Asakawa Noritaka & Takumi Brothers: Their Souls and Their Visions" to commemorate the 120th anniversary of Takumi's birth.

Re:
Wikipedia
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2015年03月18日

上野は維新後の時代に最先端をいった

桜の名所として有名な場所といえば、上野公園だろう。江戸時代より、上野の山全域において東叡山寛永寺の造営が始まり境内が公開されると、上野の山は花見の名所として、不忍池は蓮の名所として賑わいを見せた。 しかし、上野の寛永寺は戊辰戦争で全焼し、荒れ果てていた。東京都の管理下に置かれたが、木を切り倒して茶畑や桑畑にしたり、不忍池を埋めて水田にしようという案があるほどだった。そこで文部省がここに医学校と病院を建てる計画を決めた。 ちょうどその頃、上野を訪れる機会のあったオランダの医師ボードインが、まだ十分に残っていた上野の山の自然を見て、いくら学校や病院のためとはいえ、これだけ見事な自然を損なうのはもったいない、これは将来のためにも公園として残すべきだと進言して、すでに始まっていた病院の基礎工事は中止されることになった。上野の山は、維新政府太政官布達により日本で最初の公園のひとつになった。 ボードインがいなければ現在の上野公園はなく、大噴水池の横には、上野公園の生みの親ともいうべきボードインの像が建っている。
国内初の公園に指定されると、荒れた山も整備され、天皇も出席して盛大な開園式が行われた。1876年、日本の西洋料理の草分けである精養軒が築地より移転して、公園開設時より営業する。明治10年(1877)年には日本で最初の博覧会である第1回内国勧業博覧会が開かれ、国内から工芸品八万四千点が展示される。それまでにない博覧会というものに人々は新鮮な衝撃をうけ、五ヶ月で45万人の人出でにぎわう。その後にはお雇い外故国人建築家の設計によって日本で最初の博物館、動物園が開設、国内最大級の文化施設が集積する今日の上野公園を形づくるようになってきた。博物館(現在の東京国立博物館。煉瓦造りジョサイア・コンドルの設計)の開館。初の動物園の開館には、当時91種の動物がいた。東京藝術大学の前身、東京美術学校と東京音楽学校が開校し、多くの芸術家を育てる。
 後に柳宗悦の妻となる、中島兼子も前途有望な音楽学校の学生となった。当然、帝大生だった宗悦は、兼子に会いたさに、何食わぬ顔をして待ち伏せまでしたとのことだ。バーナード・リーチも奇しくも音楽学校に近い桜木町に家を建てて住んでおり、兼子も時々リーチの姿をみていた。
 1883年の上野駅開業後には、上野駅が東北本線の始発駅となったことから、東京の北の玄関口の役割を担うようになり、街も発展した。
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2014年12月24日

柳宗悦はなぜ我孫子に来ることになったのか、『白樺』の中に探る

「我孫子から 通信一」『白樺』大正三年十二月号

「此土地は凡ての無益な喧騒から自分を隔離さして、新しい温情を自分に贈っている。自己の性情を育む上に自然はその最上の風調を示してくれた。今は水も丘も自分の為に静かに横たわっている。家は手賀沼を臨んで木に囲まれた丘の上に建っている。朝日は特に美わしい光と熱とを茲に送る事を愛している。その第一の光線が東の空から破れ出る時山も木も家も凡て甦って見える。又東方一帯の汀が落陽の光華を浴びる時、自然は更に複雑な相を自分に示してくれる。雲の姿も新しい心を含めて大空に漂っている。特に自分の心に日々の黙示を与えているのは東西四里に亘って前に横たわる手賀の沼の水だ。その静穏は限りない深さを示現している。自然は水の静寂にその底知れない偉大な平和を示している。レオナルドーは此深さを愛し、それを芸術に表現した画家だった。茲の自然はレオナルドーが愛したその自然だ。」

 
「我孫子から 通信第二」『白樺』大正四年九月号

 「多くの人は此沼が秋から冬にかけて富岳の姿を映す事を知らないでいる。凡て沼の特質はそれが限りない静穏を示す時に見出されると思う。その時は囲繞(いにょう)する凡ての事物が、その有の儘な心を映している、木々も丘も亦走る雲も凡て此水鏡の静さから洩れる事はない。」 


「我孫子から」『白樺』大正十年四月号

 「一見して平凡に見えるここの自然には年と共に離れられないような気持ちを加えた。…思い出してもここへ来て自然とどれだけ親しい間柄になったかを感謝せずにはいられない。静かな音もない沼の景色は自分の心をはぐくんでくれた。沼の上に永く降り続く雨も、時としては自然の美しい、なくてはならぬ諧調に思えた。月の沼も又となく美しい。私は床に就く時間を幾度か延ばした。…ここは地上の美しい場所の一つだと自分はよく思った。…思想の暗示やその発展に、自分はどれだけ此我孫子の自然や生活に負うた事であろう。静かなもの寂しい沼の景色は、自分の東洋の血に適い、又東洋の思想を育てるに応わしかったと自分は思う。」 

                        ・・・・・・・・・・・・・
 水尾比呂志氏によれば(『評伝・柳宗悦』)、柳に自然の美しさを教えたのは学習院中等学科二年のときに学級担任となった服部他之助(たのすけ)で、夏休みには赤城や尾瀬に連れ出して「自然の浄(きよ)さ」を生徒たちに説いたといいます。最も感化を受けたのが柳で、のちに「浄(きよ)いものの尊さを私の心に知らせて下さった最初の方は先生でした」(「恩師服部先生」)と回顧します。柳はその後も学習院と縁のある猪谷旅館が建つ赤城山を度々訪れており、先の「我孫子から 通信第二」にも、「自分が自然を愛する心を学んだのは年々遊んだあの赤城山に於てだった」と記します。

 その赤城山には大沼があり、「水」というキーワードで手賀沼とつながります。白樺文学館副館長の渡辺貞夫氏は、柳はラフカディオ・ハーンに憧れており、ハーンの愛した松江にも宍道湖の水がある、と指摘をします。渡辺氏は、論語の「子曰、知者樂水、仁者樂山」という一節をひいて、柳は知者ゆえに水を楽しんだ、というのです。

 柳が我孫子を選んだもう一つの大きな理由は東京に近いということを、忘れてはいけないと思っています。それは、柳が自らこう書いていることからも明らかです。
 「手賀沼は東京に最も近い湖水である。夕べ夕べに西一帯の空が赤らむのを見ても、都がどれだけ近いかが知れる。……我孫子への汽車は上野を発して一時間と十五分で来る。直通の列車は僅か四十分を出ない。」(前出「我孫子から 通信第二」)
 いかに自然が美しくとも、深い静穏を示現する沼があろうとも、それが赤城山のように東京から遠い土地であったなら、柳は移ってこなかったでしょう。

出典: 『蘆の髄より』(2005年 楫西 雄介/著)より 抜粋
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2014年12月01日

中見真理『柳宗悦』の本、韓国訳

翻訳をされた金順姫氏の思いが、「韓日の狭間におかれた者の思念──中見真理著『柳宗悦 時代と思想』の翻訳を終えて」(「UP」5月号より転載)としてご本人のブログ(2006年5月17日)に掲載があったので、参考になった。是非、そのエピソードをご紹介したい



2003年初夏のこと,日頃親しくしている出版社の社長から電話があり,大学からの帰りに立ち寄った.彼は少々興奮し,まるで宝物を見せるかのような表情で,1冊の本を私に差し出した.中見真理著『柳宗悦 時代と思想』(東京大学出版会,2003)との出会いである.

東京ブックフェアで見つけたと得意げに話しながら「先生,翻訳出版しましょう」と意気込んでいる.表紙からして重みが感じられる本,一瞬たじろいで目次を見てドキリとした.これは筆者がイメージしていた「柳宗悦」ではない.彼に関しては「民藝」と「茶」に関する知識のみの筆者は,あとずさりせずにはいられなかった.

ためらっている筆者に社長は次のように述べて詰め寄った.「金先生から日頃,『柳宗悦を語らずして韓日の関係について語ることは出来ない』と言われていたので,それがすっかり頭に焼きついていました.ブックフェアで一番に目に付いたのがこの本だったのです」.さらに浅川巧の生涯を著述した高崎宗司著『朝鮮の土となった日本人』(増補新版,草風館,1998)と共に,2冊を同時出版したいと言う.難解そうだという不安と内容に対する期待が交錯する中,清水の舞台から飛び降りる心境がこのようなものかと思いつつ,厳粛な思いで翻訳を引き受けることにした.



韓国で柳宗悦が話題に上る時,まず,直面するのはその呼び方である.「やなぎむねよし」と話を始めると,相手は怪訝な顔をする.話の内容から少し納得できたのか,「ああ,ユジョンヨルのことですね」と反応が返ってくる.すると今度はこちらが当惑する羽目になる.「ユジョンヨル」は韓国式の字音読みであるが,何度経験しても未だに慣れない事の一つである.韓国には「ユ(柳)」という姓があり,そう呼びたくなるのはよく理解できるのだが,姓名を重視する韓国人が外国人の名前だと適当に呼んですましてしまうのはどうかと思われる.世間話ではなく,「柳宗悦」に関する話をしているのだから,名前を正しく呼ぶよう注意を喚起したいと思うが,うまく伝わらない.その後の話の流れで「悲哀の美」が出てくると,きまって韓国と日本という両極に分かれた展開となっていくので,かなり微妙な感情が入ることとなる.日本で生まれ育った韓国人である筆者は,柳宗悦の思想をしっかりと把握していなかったこともあって,自ずと慎重な言葉選びとなり,充分に自分の意見を話しきれず,いきおい名前の呼び方についてはいつもそのままにしてしまった.

筆者が初めて柳宗悦を知ったのは中学生の時,国語の教科書を通してであった.光化門を撤去してはならないと主張する彼の「ああ,光化門」は,韓国人である筆者に大きな感動を与えてくれた.その後,大学生になり文学を学びながら柳宗悦の美意識,特に,暮らしの中の実用品に美しさを見つけ,民藝運動を展開した1人の良心的な日本人の生き方に深い関心を持つようになった.韓国に帰国してからも折に触れ,彼について話し,書き続けてきたが,『柳宗悦 時代と思想』の翻訳は筆者の能力を越えた仕事と思われた.今までに何冊もの本を翻訳してきたし,いつもかなり丁寧に読みこんだ上で翻訳に臨んでいたのだが,正直言って翻訳前にこれほど読み返したのは初めての経験である.

しかし,読めば読むほど難しく感じられた.筆者が柳宗悦に関してそれなりに知っていると自負していたのは彼のほんの一部分であり,しかも柳思想の底を流れている核心を知らなかったということに気づいた.「悲哀の美」についても,いろいろな意見,さまざまな批評に接していて,筆者なりの考えも持っていたが,この『柳宗悦 時代と思想』は,柳宗悦の一面に偏っていた狭い考えを一新させてくれたのである.そしてこれからは「悲哀の美」に関しても,今までとは違った話し方が出来るだろうという自信もわいてきた.

こうして,韓国の人々にこの本を読んでほしいという思いが,日に日に強くなっていった.そのためには,より正確なわかりやすい翻訳をしなければならない.著者の平和への思いが,17年間にわたる柳宗悦の思想の形成過程を追う研究へと結びついたこと,そして「複合の美の平和思想」を柳思想の核心と見なしたその高見に敬意を表する意味でも,著者の意図から外れた翻訳であってはならないと心に誓った.

文学を専攻した筆者にとって,思想史的な内容が大部分であるこの本の翻訳は大変難解な仕事であった.柳の思想形成史を辿る中で,近代思想史に関して門外漢の筆者は,多忙な著者を質問攻めにして迷惑をかけてしまった.著者の精密でかつ誠意のある説明と助言がなければその翻訳を完成する事が出来なかったと思う.


韓国人の柳宗悦に対する評価,批判は,古くは『開闢』(1922・9)誌上で朴鐘鴻が「悲哀の美」について批判したことに始まるが,その場合,主な対象となっていたのは柳宗悦の著書『朝鮮とその芸術』(叢文閣,1922)であった.『朝鮮とその芸術』は,今までに7種類翻訳出版されているとのことであるが(加藤利枝の調査による),最近の韓国人が読んでいるのは,李大源が翻訳した『韓国とその芸術』(知識産業社,1974)ではなかろうか.10数年前に『柳宗悦 茶道論集』(岩波文庫,1987)を翻訳した際,内容に対してかなり好意的な評価は得られたと記憶している.だが朴鐘鴻の批判から80年余りという歳月が過ぎた現在でも,やはり柳宗悦といえば「悲哀の美」という固定観念から抜け出せない感がある.その意味で,『民藝』誌2001年4月号で藤岡泰介が述べている「過去の日本との関係がそうさせるためか,韓くに人の柳宗悦批評,批判は,どれも,folkの視点ではなくnationの視点で柳を取り上げている感がある」という指摘は的を射ている.『柳宗悦 時代と思想』はそうした固定観念を打破し,韓国における柳宗悦像を再構築させるきっかけになるのではないかと翻訳をしながら,心の中で大きな期待を寄せていた.


『柳宗悦 時代と思想』は2005年11月30日に『柳宗悦評伝 美学的アナキスト』(Hyohyug Publishing, 2005)と題して発売された.そして12月1日に『連合ニュース』,2日には『朝鮮日報』,『ソウル新聞』,『韓国日報』,5日には『京郷新聞』,『釜山日報』,9日には『ハンギョレ新聞』に書評が掲載された.

それらの書評が「悲哀の美」だけでなく,「複合の美」をも同等に取り上げていることに,筆者は何よりも感動させられた.

『ソウル新聞』の書評では,あらゆる武力行使を否定する「絶対平和思想」について述べながら,「それは,世界の平和は一色によって得られるのではなく,すべての民族がそれぞれ個性を発揮すべきだとする柳思想の核心としての『複合の美』に繋がる.しかし,そのような論理が韓国でどれほどの説得力を持つかはいずれにしても疑わしい」と疑問を投げかけている.一方,『京郷新聞』は「グローバリゼーションという名の下に文化の多様性の意味さえ廃れてしまっているこの時代に,多様な文化の価値を強調し,守ろうとした彼の生涯は,韓日関係を改めて考え直すきっかけを私たちに投げかけてくれる」と述べている.『韓国日報』の書評は「朝鮮の美に陶酔した2人の日本人」と題して,「ヨン様に熱狂する中年女性が日本に出現する70─80年も前に,朝鮮の美に魅了された2人の人物がいた.その評伝がこのたび同時出版された意義は大きい.(中略)日本植民地下の韓国の文化に魅せられた浅川巧と柳宗悦.彼らの思想に対する両国民の正しい理解と受容が,21世紀の新しい韓日関係を解決していく端緒になり得るのではなかろうか」と述べている.

上記の七社の中でも『ハンギョレ新聞』は韓国の知識人の声を最も良く反映する新聞社として知られている.『ハンギョレ新聞』の書評の要約をここで紹介したい.

「朝鮮の美」,または朝鮮民藝論,韓国学などについて論じる時,必ず登場する日本人柳宗(1889─1961).「朝鮮人よりも朝鮮を愛した」という修飾語と共に,「悲哀の美」で代表される彼の初期朝鮮美学観に対する是非が,今も続いている.『柳宗悦評伝 美学的アナキスト』は,この柳の思想的軌跡,特に,彼の平和思想を集大成した本である.国際関係思想史研究の専門家で,戦争と平和の問題に関心を寄せ続けている日本の清泉女子大学教授(文学部文化史学科)の中見真理氏が,17年間の長期間にわたって柳を研究し続けた結実である.柳が西力東漸の潮流のなかで,日本文化の個性確立を重視しながら,自民族中心主義には陥らずに,朝鮮と台湾,沖縄文化を尊重した民藝運動を繰り広げることができた背景の一つとして,著者は,「世界を一色にすることで平和を得ようとしても無理であろう」という彼の「複合の美思想」をあげている.柳の朝鮮美学を眺める視野を一層幅広く深くしてくれる.

『朝鮮日報』の書評のなかで,「著者が17年間の歳月をかけて書いた,その苦労の大変さと同じくらいに,その内容も奥深く重みがあって容易く読めるものではない」という指摘があるが,書店の店頭にいつまでも並べられていることから推察して,地味ながらも読者は増えつづけていると思われる.1人でも多くの韓国人に『柳宗悦評伝 美学的アナキスト』が読まれることによって,間違いなく柳宗悦に対する韓国人の受けとめ方が変わっていくであろうと信じている.

『柳宗悦 時代と思想』の翻訳は,今まで経験した難行中の難行であった.本全体にあふれている著者の誠意,広範囲にわたる内容と精密な論理の展開.一語も疎かに出来ないと祈る思いで翻訳を続けた.そしてこの本は筆者の生活までも変えてしまったような気がする.生みの親である韓国と,育ての親としての日本の狭間で苦しんできた筆者が,柳宗悦の平和思想を学んだことにより遅蒔きながら今後の生き方をしっかりと掴んだのである.朝鮮の美が,柳宗悦にとって「民藝」を生み出す起点となったのならば,「民藝」を通して日韓両国は平和な関係を作りあげることが出来ると信じる.

願わくは,日本の「民藝」を韓国に伝え,韓国の「民藝」を日本に伝える仕事を続けることが出来れば,筆者の人生は意味あるものとなるのであろう.

(きむ・すんひ 日本中古文学)

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コメント ≫
韓国と日本の関係を考える上で、柳宗悦はひとつのバロメーターになると思われます。中見氏の長年の研究成果が本としてまとめられ、そのうえ、早速韓国で翻訳され、高い評価を受けていることを金氏の文章から知ることができました。ありがとうございます。

コメント by 立花秀治 − 2006年5月28日 @ 0:38

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2014年11月03日

菊池寛が讃えた、志賀直哉

志賀直哉氏の作品

菊池寛


 自分は現代の作家の中で、一番志賀氏を尊敬している。尊敬しているばかりでなく、氏の作品が、一番好きである。自分の信念の通りに言えば、志賀氏は現在の日本の文壇では、最も傑出した作家の一人だと思っている。
 自分は、「白樺」の創刊時代から志賀氏の作品を愛していた。それから六、七年になる。その間に自分はかつて愛読していた他の多くの作家(日本と外国とを合せて)に、幻滅を感じたり愛想を尽かしたりした。が、志賀氏の作品に対する自分の心持だけは変っていない。これからも変るまいと思う。
 自分が志賀氏に対する尊敬や、好愛は殆ど絶対的なもので従って自分はこの文章においても志賀氏の作品を批評する積つもりはないのである。志賀氏の作品に就いて自分の感じている事を、述べて見たいだけである。

 志賀氏は、その小説の手法においても、その人生の見方においても、根柢においてリアリストである。この事は、充分確信を以て言ってもいいと思う。が、氏のリアリズムは、文壇における自然派系統の老少幾多の作家の持っているリアリズムとは、似ても似つかぬように自分に思われる。先ず手法の点から言って見よう。リアリズムを標榜ひょうぼうする多くの作家が、描かんとする人生の凡すべての些末事を、ゴテゴテと何らの撰択もなく並べ立てるに比して、志賀氏の表現には厳粛な手堅い撰択が行われている。志賀氏は惜しみ過ぎると思われるくらい、その筆を惜しむ。一措も忽ゆるがせにしないような表現の厳粛さがある。氏は描かんとする事象の中、真に描かねばならぬ事しか描いていない。或事象の急所をグイグイと書くだけである。本当に描かねばならぬ事しか描いていないという事は、氏の表現を飽くまでも、力強いものにしている。氏の表現に現われている力強さは簡素の力である。厳粛な表現の撰択からくる正確の力強さである。こうした氏の表現は、氏の作品の随所に見られるが、試みに「好人物の夫婦」の書出しの数行を抜いて見よう。

「深い秋の静かな晩だつた。沼の上を雁が啼ないて通る。細君は食卓の上の洋燈を端の方に引き寄せて其その下で針仕事をして居る。良人は其傍に長々と仰向けに寝ころんでぼんやりと天井を眺めて居た。二人は長い間黙つて居た。」

 何という冴えた表現であろうと、自分はこの数行を読む度に感嘆する。普通の作家なれば、数十行乃至数百行を費しても、こうした情景は浮ばないだろう。いわゆるリアリズムの作家にこうした洗練された立派な表現があるだろうか。志賀氏のリアリズムが、氏独特のものであるという事は、こうした点からでも言い得ると思う。氏は、この数行において、多くを描いていない。しかも、この数行において、淋しい湖畔における夫婦者の静寂な生活が、如何いかにも溌剌として描き出されている。何という簡潔な力強い表現であろう。こうした立派な表現は、氏の作品を探せば何処にでもあるが、もう一つ「城の崎にて」から例を引いて見よう。

「自分は別にいもりを狙はなかつた。ねらつても迚とても当らない程、ねらつて投げる事の下手な自分はそれが当る事などは全く考へなかつた。石はコツといつてから流れに落ちた。石の音と共に同時にいもりは四寸程横へ飛んだやうに見えた。いもりは尻尾を反そらして高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思つて居た。最初石が当つたとは思はなかつた。いもりの反らした尾が自然に静かに下りて来た。するとひぢを張つたやうに、傾斜にたへて前へついてゐた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめつてしまつた。尾は全く石へついた。もう動かない。いもりは死んで了しまつた。自分は飛んだ事をしたと思つた。虫を殺す事をよくする自分であるが、その気が全くないのに殺して了つたのは自分に妙ないやな気をさした。」

 殺されたいもりと、いもりを殺した心持とが、完璧と言っても偽ではない程本当に表現されている。客観と主観とが、少しも混乱しないで、両方とも、何処までも本当に表現されている。何の文句一つも抜いてはならない。また如何なる文句を加えても蛇足になるような完全した表現である。この表現を見ても分る事だが、志賀氏の物の観照は、如何にも正確で、澄み切っていると思う。この澄み切った観照は志賀氏が真のリアリストである一つの有力な証拠だが、氏はこの観照を如何なる悲しみの時にも、欣よろこびの時にも、必死の場合にも、眩くらまされはしないようである。これは誰かが言ったように記憶するが、「和解」の中、和解の場面で、
「『えゝ』と自分は首肯うなづいた。それを見ると母は急に起上つて来て自分の手を堅く握りしめて、泣きながら『ありがたう。順吉、ありがたう』と云つて自分の胸の所で幾度か頭を下げた。自分は仕方がなかつたから其頭の上でお辞儀をすると丁度頭を上げた母の束髪へ口をぶつけた。」と描いてある所など、氏が如何なる場合にも、そのリアリストとしての観照を曇らせない事を充分に語っている。

 志賀氏の観照は飽くまでもリアリスチックであり、その手法も根柢においてリアリズムである事は、前述した通りだが、それならば全然リアリズムの作家であろうか。自分は決してそうは思わない。普通のリアリストと烈しく相違している点は、氏が人生に対する態度であり、氏が人間に対する態度である。普通のリアリストの人生に対する態度人間に対する態度が冷静で過酷で、無関心であるに反して、ヒューマニスチックな温味を持っている。氏の作品が常に自分に、清純な快さを与えるのは、実にこの温味のためである。氏の表現も観照も飽くまでリアリスチックである。がその二つを総括している氏の奥底の心は、飽くまでヒューマニスチックである。氏の作品の表面には人道主義などというものは、おくびにも出ていない。が、本当に氏の作品を味読みどくする者にとって、氏の作品の奥深く鼓動する人道主義的な温味を感ぜずにはいられないだろう。世の中には、作品の表面には、人道主義の合言葉や旗印が山の如く積まれてありながら、少しく奥を探ると、醜いエゴイズムが蠢動しゅんどうしているような作品も決して少くはない。が、志賀氏は、その創作の上において決して愛を説かないが氏は愛を説かずしてただ黙々と愛を描いている。自分は志賀氏の作品を読んだ時程、人間の愛すべきことを知ったことはない。
 氏の作品がリアリスチックでありながら、しかも普通のリアリズムと違っている点を説くのには氏の短篇なる「老人」を考えて見るといい。
 これは、もう七十に近い老人が、老後の淋しさを紛まぎらすために芸者を受け出して妾に置く。芸者は、若い者に受け出されるよりも老先の短い七十の老人に受け出される方が、自由になる期が早いといったような心持で、老人の妾になる。最初の三年の契約が切れても老人はその妾と離れられない。女も情夫があったが、この老人と約束通りに別れる事が残酷のように思われて、一年延ばす事を承諾する。一年が経つ。そのうちに女は情夫の子を産む。今度は女の方から一年の延期を言い出す。そして又一年経つ裡うちに女は情夫の第二の子を産む。そして今度は老人の方から延期を申出す。そしてその一年の終に老人は病死して妾に少からぬ遺産を残す。そして作品は次のような文句で終る。

「四月の後、嘗かつて老人の坐つた座蒲団には公然と子供等の父なる若者が坐るやうになつた。其背後の半間の間には羽織袴でキチンと坐つた老人の四つ切りの写真が額に入つて立つて居る……」

 この題材は、もし自然派系の作家が扱ったならば、どんなに皮肉に描き出しただろう。老人がどんなにいたましく嘲笑されただろう。が、志賀氏はかかる皮肉な題材を描きながら、老人に対しても妾に対しても充分な愛撫を与えている。「老人」を読んだ人は老人にも同情し、妾をも尤もっともだと思い、その中の何人にも人間らしい親しみを感ぜずにはいられないだろう。情夫の子を、老人の子として、老人の遺産で養って行こうとする妾にも、我等は何らの不快も感じない。もし、自然派系の作家が扱ったならば、この題材はむしろ読者に必ずある不快な人生の一角を示したであろう。が、志賀氏の「老人」の世界は、何処までも人間的な世界である。そして、我々は老後の淋しさにも、妾の心持にも限りなく引付けられるのである。氏の作品の根柢に横たわるヒューマニスチックな温味は「和解」にも「清兵衛と瓢箪」にも「出来事」にも「大津順吉」などにもある。他の心理を描いた作品にも充分見出されると思う。

 氏の作品が、普通のリアリズムの作品と違って一種の温かみを有している事は、前に述べたが、氏の作品の背景はただそれだけであろうか。自分は、それだけとは思わない。氏の作品の頼もしさ力強さは、氏の作品を裏付けている志賀直哉氏の道徳ではないかと思う。
 自分は耽美主義の作品、或は心理小説、単なるリアリズムの作品にある種の物足らなさを感ずるのは、その作品に道徳性の欠乏しているためではないかと思う。ある通俗小説を書く人が「通俗小説には道徳が無ければならない」と言ったという事を耳にしたが、凡すべての小説はある種の道徳を要求しているのではないか。志賀氏の作品の力強さは志賀氏の作品の底に流れている氏の道徳のためではないかと思う。

 氏の懐いている道徳は「人間性ヒューマニティの道徳」だと自分は解している。が、その内で氏の作品の中で、最も目に着くものは正義に対する愛(Love of justice)ではないかと思う。義ただしさである。人間的な「義しさ」である。「大津順吉」や「和解」の場合にはそれが最も著いちじるしいと思う。「和解」は或る意味において「義しさ」を愛する事と、子としての愛との恐るべき争闘とその融合である。が、「和解」を除いた他の作品の場合にも、人間的な義しさを愛する心が、随所に現われているように思われる。
 が、前に言った人道主義的な温味があるというのも、今言った「義しさ」に対する愛があるという事ももっと端的に言えば、志賀氏の作品の背後には、志賀氏の人格があると言った方が一番よく判るかも知れない。そして作品に在る温味も力強さも、この人格の所産であると言った方が一番よく判るかも知れないと思う。
 志賀氏の作品は、大体において、二つに別わかつ事が出来る。それは氏が特種な心理や感覚を扱った「剃刀」「児を盗む話」「范の犯罪」「正義派」などと、氏自身の実生活により多く交渉を持つらしい「母の死と新しい母」「憶ひ出した事」「好人物の夫婦」「和解」などとの二種である。志賀氏の人格的背景は後者において濃厚である。が前者も、その芸術的価値においては決して、後者に劣らないと思う。氏は、その手法と観照において、今の文壇の如何なるリアリストよりも、もっとリアリスチックであり、その本当の心において、今の文壇の如何なる人道主義者よりも、もっと人道主義的であるように思われる。これは少くとも自分の信念である。

 志賀氏は、実にうまい短篇を書くと思う。仏蘭西のメリメあたりの短篇、露国のチェホフや独逸のリルケやウィードなどに劣らない程の短篇を描くと思う。これは決して自分の過賞かしょうではない。自分は鴎外博士の訳した外国の短篇集の『十人十話』などを読んでも、志賀氏のものより拙いものは沢山あるように思う。日本の文壇は外国の物だと無条件でいい物としているが、そんな馬鹿な話はないと思う。志賀氏の短篇などは、充分世界的なレヴェルまで行っていると思う。志賀氏の作品から受くるくらいの感銘は、そう横文字の作家からでも容易には得られないように自分は思う。短篇の中でも「老人」は原稿紙なら七八枚のものらしいが、実にいい。説明ばかりだが実にいい(説明はダメ飽くまで描写で行かねばならぬなどと言う人は一度是非読む必要がある)。「出来事」もいい。何でもない事を描いているのだがいい。「清兵衛と瓢箪」もいいと思う。
 志賀氏の作品の中では「赤西蠣太」とか「正義派」などが少し落ちはしないかと思う。
 色々まだ言いたい事があるが、ここで止めておこう。ともかく、自分の同時代の人として志賀氏がいるという事は、如何にも頼もしくかつ欣よろこばしい事だと自分は思う。
 最後にちょっと言っておくが、自分はこの文章を、志賀氏の作品に対する敬愛の意を表するためにのみ書いたのである。

(一九一八年十一月)

底本:「半自叙伝」講談社学術文庫、講談社
参考HP:http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1388_17405.html
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2014年10月30日

世界のミンゲイ

一年前になるが、民芸が世界的な関心を持たれてきていることを示す記事なので、
概略を訳してご紹介。

マーサ ・ w ・ Longenecker のアートで生涯のキャリアは多面的だった。彼女は陶芸家で、San Diego 州立大学で美術の教授 35 年間、彼女は 2005 年までの民芸 インターナショナル博物館の初代館長としても働いた。

Longenecker アートで生涯のキャリアは多面的、セラミックス、教育者、館長、アーティスト職人としての仕事を取囲みます。ミンゲイ インターナショナル博物館造語用語民芸 (人々 の芸術)
柳宗悦を尊敬し、20 世紀に生きた日本の学者の教えを受けたのは、 1952 年夏、ロサンゼルスでの出会い柳が米国など世界各地セミナーを開催しての折だった。 1 週間を通して博士柳、日本人陶工濱田庄司とバーナードリーチの-世界ツアー-の一部として講義し、地域の職人が陶芸を示した。そして、陶芸の伝統的手ほどきをうけるようにと日本に訪れるよう話し、 10 年後彼らの招待を受け入れることができた。日本では、濱田庄司・島岡達三の窯で仕事をして 4 ヶ月の滞在の間に浜田の主に見習いをしていた。浜田は、陶芸家として人間国宝に選ばれました。Longeneckerは、日本への訪問は柳京都陶工である河井寛治郎、染色家 芹沢けいすけ、木版画家の棟方志功とも知り合った。

これらのことに触発されて、 2005 年に彼女の退職の時に、1978 年 5 月にミンゲイ インターナショナル美術館を設立。140 ヶ国からの 17,000 以上のオブジェクトのコレクションを収容し、毎年以上 10 万の訪問者を提供国際的な評判の博物館に成長していた。

「マーサはすべての時代や文化、世界の理解と民芸の感謝を共有する彼女の人生を捧げた広大なビジョンと情熱の人」キャロリン シート オーウェン-トウル(博物館の理事会の議長)は言っている。等しい部品のインスピレーションと決意を持って彼女ミンゲイ インターナショナル博物館の確立し、27 年以上の開発をはるかに超えて San Diego 地域の人々 に毎日の使用のオブジェクトを作る人間の文化の最高のアートを提示してきた。

2013 年 10 月 30 日 - サンディエゴ、カリフォルニア-93、死去。
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2014年10月14日

バーナード・リーチと尾形乾山

ニューヨークに、メトロポリタン美術館があり、世界の美術品が展示される。その中には尾形光琳の『八橋図』、六曲屏風二隻、『波涛図』、二曲屏風一隻も収められている。

その尾形光琳の弟がバーナード・リーチの陶芸の師となる六代目の祖先・尾形乾山(1851-1923 )である。
日本で最初の人間国宝の認定を受け、文化勲章をうけた富本憲吉とともに六世乾山に師事し、七世乾山の皆伝目録を受けたバーナード・リーチだ。

・・・・・・・・・・・・・・

尾形光琳は、後代に「琳派」と呼ばれる装飾的大画面を得意とした画派を生み出した始祖であり、江戸時代中期を代表する画家のひとりである。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。フェノロサはそんな光琳を「世界最大の装飾画家」とまで呼んだ。

初代・尾形乾山(1663-1743)は江戸大奥や東福門院などの御用を勤めた京都第一流の呉服商雁金屋尾形宗謙の次男で、その弟・乾山によれば光琳は絵にこそ自分の天分があるといつも言っていたという。兄は何を描いてもそれが即模様になっているところが並の絵師とは違っていて、京焼の代表的名工,画家・野野村仁清と光琳が自分の師であると書き残している。

当時のファッションの先端だった呉服商に生まれた光琳は当然のようにそこからデザインの影響を大きく受けており、少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しんだこともよく知られている。絵はもともとは趣味として狩野派の流れをくむ山本素軒に師事したとされるが、その時期等はくわしくわかっていない。

そこで、尾形光琳と乾山について、江戸のころの時代へと歴史を辿ってみたいと思う。
尾形道柏(光琳の曽祖父)の代に染色業を始めたという。道柏の夫人は本阿弥光悦の姉であり、光悦と光琳は遠い姻戚関係にあることになる。道柏の子・宗柏は光悦流の書をよくする風流人であった。呉服商雁金屋は慶長年間には高台院、淀殿、徳川家康、徳川秀忠および同夫人江など当代一流の人物を顧客としていたが、宗柏の時代には東福門院(徳川秀忠娘、後水尾天皇中宮)の用を務めるようになった。

光琳は公家、大名、役人など、多くのパトロンをもっていた。五摂家のひとつ、二条家の当主で摂政・関白を務めた二条綱平の屋敷にはたびたび出入りしていることが記録からわかり、前述の法橋位が与えられたのも、綱平の推挙によるところが大きかったと推測されている。また、京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助 (1669–1730) とも親交があり、光琳は内蔵助の肖像画(現存、大和文華館収蔵)を描いている。光琳は中村内蔵助の娘を引き取って数年間養育し、その娘は後に光琳の息子と結婚するなど、光琳と内蔵助の関係は単なるパトロン、援助者という以上のものがあったようである。(紅白梅図屏風の性的な解釈で有名な小林太市郎は、「光琳と乾山」(『世界の人間像』第7巻、角川書店)の中で、「内蔵助が光琳の愛人たることは毫もうたがう余地がない」と断定的に推測した。)

兄が継いだ呉服商雁金屋が経営状態がわるくなると、光琳は江戸詰となった中村内蔵助を頼り、宝永元年(1704) 頃、江戸へ下った。つまり、光琳は経済的には貧窮していたようである。江戸では姫路藩主酒井家から扶持を得、また、津軽家や豪商の三井家、住友家、冬木家(江戸深川の豪商)などともつながりがあったため、作品を納めるツテが出来たようである。

弟・乾山も江戸に出て陶芸で仕事を行なうようにとなっていた。作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、オランダのデルフト焼きの影響を受けて成ったと言う作品を含めて、現存する作品で認定されるものは僅かとされる。

乾山は裕福な家に生まれはしたものの、内省的で書物を愛し隠遁を好み、霊海・逃禅などと号して地味な生活を送った。元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、乾山は早くから光悦の孫の光甫や楽一入から手ほどきを受けていたこともあり、仁清から本格的に陶芸を学んだようだ。

37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えた為ここに窯を開く。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号し、出来上がった作品に記した。正徳2年(1712年)50歳のとき京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、多くの作品を手がけた。乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多い。

享保16年(1731年)69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住んだ。元文2年(1737年)9月から初冬にかけて下野国佐野で陶芸の指導を行う。その後江戸に戻り、81歳で没した。

乾山の名は2代、3代と受け継がれていった。6代乾山(1851-1923年)はバーナード・リーチの師ということになる。さらに、この乾山との縁により、後に再来日を果たしたリーチは「佐野乾山贋作事件」に巻き込まれることになるが、詳細については、大島一洋の「芸術とスキャンダルの間 (第5章)」、大宮知信『スキャンダル戦後美術史』、(2006年発行)に譲ることにする。

参照:Wikipedia
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2014年10月13日

勝海舟の父・小吉の自伝、『夢酔独言』

 勝海舟の父である小吉自身が書き残したとされる自伝、『夢酔独言』(むすいどくげん)は、子孫にけして同じ轍は踏むなと本人が自戒の書ところの人生だが、この書が21世紀の今日に至るまで伝わるとは思ってもみなかっただろうが、それをどう読むか、この秋の課題にして、本を探してみてはどうでしょう。 かの坂口安吾までもが、『夢酔独言』を読みたくて必死に探したが、読むことができなかったとの逸話も残されているほど面白く、当時の話し言葉も判り、また当時の国内の状況も知ることができます。

 勝海舟は、我孫子ゆかりの加納治五郎の父そしてまた柳宗悦の父とは海軍伝習所で一緒に働いた共通点があると言われます。その勝海舟の父は、勝小吉があまりに破天荒な人生を送ったため、小吉が自分のような大馬鹿を子孫が真似をしないように戒めとして、書き残したとしされています。

 さらに、文章も破天荒な人生を送った小吉らしく、話し言葉で書いてあるので、現代文のように読み易い。口語訳もあるそうで、日本人なら一度は読んで損はないと言われます。

 思い切り端折(はしょ)ると、小吉は家に帰り旗本の地位に戻ります。そして男気と腕っ節で、当時の江戸の町を仕切る顔役になります。それからは痛快娯楽時代劇を地で行く生活が始まります。
その間、兄に座敷牢に閉じ込められ改心するように迫られたり、密教の修行をして富くじ(宝くじ)の番号を何度も当てたり、大阪に旅をしたときには、自分の首を入れる首桶を持参して、切腹すると一芝居打ち大金を工面したり、記録に残っている当時の有名な剣術家たちと戦って、余裕で勝ったりします。
事実は小説より奇なりをこれでもかとばかりに地でいっています。

 つまり、この書を読んで、勝海舟の幕末・維新における柔軟な発想や行動は、この「生涯一不良」のような父に育てられたからであろうとも考えつく。すると、小吉に「何、言ってやんでい!」と大笑いされるに違いないと、ハッとする。
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2014年09月27日

日本の技が影響した、アーツアンドクラフツ

19世紀後半、万国博覧会などを通じて欧米にもたらされた型紙は、産業革命以降低迷していたイギリスの装飾芸術や産業芸術に時代に即した新たな造形表現を求めていた欧米で積極的に収集され、多くの芸術家やデザイナーに影響を与えました。

欧米にわたった型紙は、さまざまな博物館、コレクターに収集されて大切に保管されてきた。

工業デザイナーの先駆けとして知られるクリストファー・ドレッサーが、1876−77年に日本を視察して型紙染めの技法を著作中で報告したことを契機に、80年代以降、リバティー百貨店では型紙が販売され、シルヴァー・スタジオをはじめとするイギリスの産業芸術に美的インスピレーションを与えました。1884年には、表面装飾のためのステンシル用にイギリスのリバティ百貨店で実際に型紙が販売された実績もある。

イギリスのアーツ・アンド・クラフツ、フランスのアール・ヌーヴォー、そしてドイツのユーゲントシュティールなどの運動に確実に影響を与えたことは間違いなく、展覧会の中では、アルフォンス・ミュシャやルイス・コンフォート・ティファニー、ウォルター・クレイン、ルネ・ラリックらの作品の中でも、特に象徴的なものが紹介されている。また、イギリスのブリントンズ・カーペット社やリバティ商会など、影響を受けた企業のコレクションも見逃せません。スコットランドでは、チャールズ・レニー・マッキントッシュが型紙を平面装飾に応用しています。

一方、アメリカでは、1876年のフィラデルフィア万博から型紙への関心が高まり、ルイス・コンフォート・ティファニーなどにより、型紙の影響が顕著な作品が多数制作されました。

ドイツは1871年に統一、19世紀半ば以降自国産業の発展促進のために、数多くの工芸博物館とそれに附属する学校が設立されました。当時なおハプスブルク帝国の威容を誇っていたオーストリアを含むドイツ語圏では、型紙の受容にこの工芸博物館・学校が大きな役割を果たしました。型紙は幅広い地域で収集され、各地の工芸改革運動やユーゲントシュティールと呼ばれる新しい芸術潮流と密接に連動し、時代に見合う新たな造形を模索していた人々の手本とされたのです。本章では、ドイツにおける型紙の受容とその展開に加え、ドイツ北西部ルール地方と経済的に密接な関係をもつオランダ、そしてウィーン工房を中心とするオーストリアでの型紙の影響がみられます。

フランスでは19世紀末に印象派が絵画革命を起こし、その後アール・ヌーヴォーの花開く。早くから日本の文物への関心が高く、ジャポニスムと呼ばれる造形運動が起こりました。絵画ではナビ派が日本の平面デザインを画中に応用し、工芸デザインではナンシー派が型紙のコレクションを活用した作品を制作しました。テキスタイルの産地であったミュルーズ、リヨンでも型紙が収蔵され、さかんに日本風文様がデザインされました。  
アール・ヌーヴォーのもうひとつの揺籃の地となったベルギーの首都ブリュッセルでも、実際に型紙を所有していたアンリ・ヴァン・ド・ヴェルドや建築家ヴィクトール・オルタが、型紙を参考にして曲線デザインをつくりあげました。

これらの手工芸を見直す運動は、世界におきていたが、日本に民藝運動が起きたのは、そもそもこうした技術があったわけであり、柳宗悦は各地の手工芸を発掘して全国を歩いたのであった。
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2014年09月26日

嘉納治五郎と勝海舟

勝海舟は、その人物が凡人であるか非凡であるかを見分けるのに、次のようなものさしで見ていた。「職責を超える仕事ができるかできないか。また、求められたら、そういう職責を超える仕事をやる勇気があるのか、ないか」

身分は幕府の無役である。
また、長崎の海軍伝習所にいた時、学生監督程度の身分で、薩摩藩主島津斉彬と会っている。斉彬は、勝を友人待遇にし、自分でもしばしば手紙を書いた。いわば、幕府の外交官のような立場で、斉彬と堂々と対していたということだ。神戸に海軍操練所を作り、幕府や各藩の子弟を預かって教育した時、別に私塾を設け、ここに坂本龍馬以下、資格のない若者を全部放り込んで教育した。明らかに職責を超えている。

姑息な幕臣だったら、後生大事に幕府が作った海軍大学の経営と教育に邁進し、私塾を作ってまで、資格のない者を教育するということはしなかったろう。

役所や、銀行や、学校などの堅いと言われる職業を持つ人の中で出世するのは、自分の職分を超える人との付き合いや、異業種の会合や勉強会への参加を怖れないことだ。その組織内での、古くからのしきたりや上下の力関係を飛び越える、実力なりパワーを持っているから、枠をはみ出すことができる。失敗を恐れ、余計なことは一切やらないという、守りに入った人間は、変化の激しい現代では生き残るのは難しい。柔らかな心を持ち、チャレンジを怖れず、職責を超える仕事ができる人に期待できそうだ。

参考:
童門冬二『勝海舟の人生訓』PHP文庫

posted by その木なんの気、柳の気 at 14:09| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする