2014年09月15日

柳宗悦夫妻が我孫子に来るまで

柳宗悦はなぜ、大正初期に我孫子に住むことになったのでしょうか?
 この問については、柳の叔父に当たる嘉納治五郎が我孫子に別荘を構えていた事実から、ごく自然に、嘉納が甥の柳に近くに住むことを勧めたのであろうという見方が、地元では定着しています。そうは言っても、「勧められたからといって人は簡単に住まいを移すものか?」という根源的な疑問に突き当たりました。誰に勧められようと、柳には柳なりの理由がなければなりません。
 
 柳本人は、叔父に勧められたという言葉を遺しておりません。リーチ宛の書簡には、
「近い将来、…家内と我孫子に引っ越すことになるでしょう。姉の新しい別荘があいているのです」(大正三年八月二十八日付)
という文言があります。
 妻兼子の言葉を借りると、その間の事情はこうなります(水尾比呂志氏『柳兼子夫人に聞く』)。
「義姉(あね)(宗悦の姉直枝子(すえこ))が、初縁のが亡くなりましたでざんしょ。それで、後家になりましたんで、母も後家でござんしたからね、母と二人でもって老後を過ごそうというので、土地を捜していたらしいんです。嘉納治五郎叔父があそこに土地を持っていて、別荘があったんです。ぼくのところの周りに土地があいているから、買ったらどうだというので買ったんです。そうしたら、義姉が再婚することになったでしょ。建ちっぱなしで住まなくなったんですね。それで、私たちが新婚でしたものですから、あそこに住んだらどうだと言われて、別荘番代わり家賃なしで住まわしてもらったの」
  兼子のこの言葉を真に受けて、柳は家賃なしという条件につられてやってきた、という説も根強く流布されています。兼子の言葉には、東京帝国大学を卒業後、就職もせず学究生活に入った柳が家賃にも困っていたようなニュアンスが感じられるのは確かですが、これは兼子特有のユーモアととるべきでしょう。第一、我孫子に来る前に柳夫婦が新婚所帯を営んでいた東京原宿の家は母勝子の所有になるもので、留守番代わりに住まわせてもらうならそこでもよかったはずでした。その上、我孫子の家は、若い二人が住まうには十分過ぎるほどの広さだったにも拘わらず、柳は転居早々、離れに十五畳大の凝った書斎を地元の宮大工に建てさせています。そのとき柳は、「お母さんのとこにぼくのお金がいくらか残っているから、それを使おうじゃないか」と言ったといいます(『兼子夫人に聞く』)。

 原宿の家は「赤い靴」「十五夜お月さん」などの童謡で知られる作曲家本居長世の旧宅で、母勝子が亡夫(柳の父・柳楢悦(ならよし))の麻布の五千二百坪もの大邸宅を処分して買い求めたものでした(水尾比呂志氏『評伝・柳宗悦』)。
 いずれにせよ、柳が経済的に困るようなことはなかったはずで、留守番代わり家賃なしで住まわしてくれるのが我孫子転居の動機であったとみるのは、少し無理があるようです。

 因みに柳の父・柳楢悦(ならよし)は元海軍少将、若きより和算に秀で、測量、水路、天文、水産、植物等の学術に通じ、料理、詩歌の趣味も豊かな逸材で、のちに貴族院議員にも勅任された明治偉人伝に列せられる人物でありました。中でも明治海軍の初代水路局長として、日本の沿岸測量と水路図の作成に果たした功績は特筆すべきものでした。楢悦は、御木本幸吉に真珠養殖を教えた人としても名を残しており、鳥羽のミキモト真珠島「御木本幸吉記念館」には楢悦の大きな写真とともに、彼が大日本水産会幹事長時代に幸吉のアコヤ貝増殖を懇切に助言し、出来たばかりの養殖真珠を内国勧業博覧会に出品する段取りまでしてやった経緯が記されています。幸吉は終生、柳楢悦を恩人として語り伝えたといいます。

 柳は一歳十か月で父を亡くしており、父の薫陶を受けるべくもなかったのですが、兼子も「よくまあ次から次へとよくもめっけてくる」人だったと言うように(『柳兼子夫人に聞く』)、ホイットマン、ブレイクから転じて朝鮮白磁へ、さらには木喰仏、大津絵、出雲和紙、小鹿田焼(おんたやき)へと、柳の究めようを見れば、マルチ人間であった父楢悦のDNAを受け継いでいると思われてなりません。
 余談ながら、柳宗悦が父のことを綴った『柳楢悦小傳』に、真珠に関わった話は一言も出てこないのはまことに不思議な発見でありました。
 「彼(楢悦)が特に興味を持ちしは料理なり。諸国の料理を学び自ら筆をさえとりて著書をなせり。遺本『山蔭の落栗』(明治三十九年私出版、御木本幸吉編)は其の一つなり。」と、御木本幸吉の名をあげているにも拘わらず、です。

 あらためて柳が越してきて早々に書いた「我孫子から 通信一」(『白樺』大正三年十二月号)を読むと、「茲へ来た事は自分にとってはいゝ決行だった」という書き出しで始まっています。「決行」というのは、あれこれ迷った上の決断であったことを匂わせます。
 柳を迷わせた第一の要因は、我孫子に電灯がなかったことではないでしょうか。
 事実、柳が越してきた当時(大正三年九月)は我孫子はまだランプの時代でありました。このことは、柳自身の文章にも、兼子夫人、また柳の次男宗玄氏の言葉にも残されています。念のために『我孫子市史 近現代篇 年表』を繙くと、大正四年九月の項に「野田電気(株)に対し電柱建設のための富勢村布施地先里道使用を許可。これによりはじめて電灯が据え付けられることになる」という一文が見つかりました。富勢村は柳の家から北へ四キロほどもあり、そこから電柱が逐次建てられて、柳宅に電灯のともったのは大正五年以降のことと思われます。いやしくも文筆を生業(なりわい)とする人が、電灯のある都会からランプの田舎へ越してくるには相当の抵抗があったことでしょう。

 第二の要因は、生活環境の不便性でしょう。
 兼子夫人は、「ほんとうに何もないとこで、ヤとつくものはお豆腐屋が一軒あっただけ」、肉や野菜は東京へ出たときにまとめ買いしてくると語っています。下戸で甘党、それもチョコレート好きだったという柳のハイカラな舌に適う嗜好品や、ひっきりなしに訪れる友人知人をもてなす珈琲紅茶のたぐいも、当然手に入らなかったと思われます。

出典: 葭の髄から』(楫西 雄介/著 ) 抜粋

 
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2014年08月24日

柳の唱えた「無有好醜」の考えとは

柳宗悦が生涯書きとめた約600篇の随筆より22篇を精選した本「柳宗悦随筆集」(水尾比呂志 岩波書店)があり、その読後感が次のように纏められていて楽しい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この本を読み始めると今まで味わったことないような楽しい気分になりました。ひとつは内容が僕の好きな「美しさ」について書いたエッセイを集めたものであると、もうひとつは文章が優しく、その上、「美」のエッセンスがギッシリと詰まっているからです。

前半は、昭和4年から5年、昭和27年から28年のヨーロッパ、アメリカの旅行記、昭和8年のハワイ滞在記です。

中でも昭和5年、彼がハーバード大学で「日本における美の標準」をいう講義の最後授業を終えた時の記述は感動的です。内容は以下のとおりです

僕は生徒がそんなにまで興奮した経験を日本ですら有(も)たない。僕が次の言葉をいい終わって壇を去った時、僕はたちまち興奮した生徒に取りかこまれた。

僕は驚いた。はじめは何か腹でも立てたのかと思った。ある生徒はもう口がきけなく、どもって咳き込んで何かをいうのだがよく分からない。顔を真っ赤にしてしまってこんな講義を聞いたことがないというんだ。今まで分かっているようで分かっていなかったことをみんないってくれたといって悦んで手を僕の肩から離さない。僕は僕の部屋に帰ってまで皆に囲まれた・・・・

後半は、「美しさと女性」、「食器と女」、「言葉の躾」、「民藝と雪舟」、「東洋文化の教養」、「山陽随筆」、「野口シカ刀自の手蹟」、仮名書きの不便さ」、「東西南北」、病中横断」、「時計のない暮し」、「漢薬の能書」、「赤と緑」の13篇の様々な随筆が収録されています。

どのエッセイも素晴らしいものがありますが,例えば「美しさと女性」の中に以下のような記述がありました。
美しさとは何かということはむずかしい問題かも知れませんし人々により、時代により、国々によって、その標準が違うのは、まぬがれません。しかし全体を通じて、美しさを「調和の相(すがた)」といってよいかと思います。不調和は私たちに美感を誘いません。それは人間の心をなごやかにさせず、やわらぎを与えません。音の世界に例をとれば、不調音が、吾々の耳に美しく響かないのと・・・・

民藝運動において、美を追求した柳宗悦が成しえたことは、
"In the long run , a history of art without heroes is the very one which I should like to write!"(結局、英雄のいない芸術史、民衆の美を明らかにしたいということだったのだ!)

柳宗悦は「利休以上の眼を持つ」といわれた人です。その柳宗悦が熱心に掘り起こした美とは、それまでのひ人々が気づかなかった美を丹念にすくいあげてきたことでした。

彼の思想は「名も無き民衆が美を作ろうという意識を持たずに作り上げた美の世界こそ、真の美がある」という民衆的工芸、すなわち「民芸」です。「民芸」が美しいのではなく、「民芸」は美しいものが生まれる土壌なのであると主張し、生涯を通して民芸品の「美」を追求しました。

彼の唱えた「無有好醜」の考えは、「民芸品の特徴は『醜い』ものは一点もない、たとえば富士山のような圧巻はあるが、かといって身近の野山が醜いわけではない。そういう美醜を超えた世界、醜いものが原理上存在しえない世界に『民芸』はある・・・」です。


出典HP:
http://blog.livedoor.jp/hanaichisan/archives/51302662.html
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2014年08月23日

声楽の神様と言われた人

長崎の男性のブログに柳兼子さんの紹介がありましたので、以下にご紹介します。
http://ameblo.jp/noburin28/entry-10328027752.html



筆者には、非常に強い印象を残し、感動に誘った一枚のCDの存在が忘れられない。
これは「柳兼子」というアルト歌手の歌う「現代日本歌曲選集2 日本の心を唄う」と題された一枚だ。

 これはオーディオ・ラボからLPで出て以来、長らく廃盤のままになっていたものだが2001年に彼女の再評価の機運が高まり、CDとして復刻されたものである(オーディオ・ラボ OVCA‐00003)。

 柳兼子は1892年(明治25年)生まれ。1984年に92歳の高齢で亡くなったこの日本の近代の声楽法を確立したとされる不滅のアルト歌手は、音楽における「白樺派」の代表的人物であった。旧姓を中島と言い、夫である柳宗悦の文学活動を物心両面にわたって支え続けたと言われている。我孫子での新婚生活の中、当時の日本軍部政府の韓半島の人々への抑圧や同化政策に真っ向から対立し、夫婦ともに韓半島に渡ってリサイタルを開催。当地の人々と深い親交を結んだそうである。かつては「声楽の神様」とまで呼ばれ、1928年のベルリンでのリサイタルではドイツ人を驚愕させるほどの日本最高のリート歌手であったが、軍歌を歌うことを頑なに拒否。このため戦中より活躍の場を奪われてしまった。戦後も正当な評価がなされぬままになった感があるが、本人はそんなことなどまるで意に介さないかのように歌い続け、なんと85歳まで公式のリサイタルを続け、その後もニ、三年は私的な集まりで何度となく歌っていたそうである。これは肉体そのものを楽器とする声楽家として通常は考えられないことであろう。ちなみに前述のCDは1975年、彼女が83歳の時の録音である。

 しかしなんと厳しい歌だろう。このCDの彼女の歌を聴くと、詩に対するえぐりは厳し過ぎるくらいである。彼女は詩を語りかけるように弱音主体で曲をすすめながら、曲の山に至ると凄絶なフォルテで、切ないまでの魂の叫びを響かせる。そこに感じられるのはもはや人間の声を超越してしまった何かであり、深い孤独感と憂愁が絶えず震える彼女の声の奥から響いてくる。いわゆる美しい声ではないし、磨きあげられた声でもない。それはまるですすり泣きのようであり、命懸けの訴えのようである。したがって日本歌曲の純粋なメロディの美しさに酔いたいという人にこのCDはむしろ向かないかもしれない。表面的な演奏でも通俗的な演奏でもない。それほど内容のえぐりが効いているからである。80歳を越えてなお芸術の深奥に迫ろうとする柳兼子という一人の人間の気迫を如実に伝えるそれは、まさに精神の声であり、魂の音楽と言ってよいだろう。老いのため部分部分で声が震えてしまうのは致し方ないが、少なくとも私には何の気にもならなかった。

 とりわけ感動したのは「平城山(ならやま)」「九十九里浜」「荒城の月」「母」「砂丘の歌」「浜辺の歌」「小諸なる古城のほとり」である。

 特に「九十九里浜」の強烈な魂の叫びは冒頭から私を捉えてしまった。一瞬にして太平洋の水平線につれ去られてしまうようだ。小林道夫のピアノ伴奏もまるで音楽に使える使徒のように柳兼子の歌と一つになって音楽の中に深く入り込んでいく。いわゆる外面的な美しさとは別物であり、それだけに心に奥深く突き刺さるような力を持っている。あまりにも感動的な絶唱で、聴いていて涙さえにじんでくる。

 背筋が寒くなるような感動に襲われたのは滝廉太郎の「荒城の月」である。何という憂愁! 柳兼子の歌はさながら古風な舞いを踊るようであり、聴いていて周りの時間が止まってしまう。呼吸をするのもはばかられる。音と音との間には深く暗い闇が開いているようで、深い詩心が語りかけてくる。滝廉太郎の詩の深さが悠久の時間の中を匂ってくるようであり、あたかも月夜の下で花が散っていくようだ。

 柳兼子の歌を聴くまで私は「九十九里浜」と「荒城の月」の真の魅力を知らなかった。これらの曲の本当の美しさを知らなかった。彼女の歌を聴くことで、私はこの作品に秘められた芸術性に気がつくことができたと言ってもよい。

 彼女の歌を聴くとヨーゼフ・シゲティのヴァイオリンを思い浮かべる。シゲティのヴァイオリンは技術的な問題を越えて音楽的な世界が響いてくる。少々クラシックを聴いた人間ならわかることだが、シゲティほど不器用で無骨なヴァイオリンは他にいまい。だがその独特の気迫を込めたような痛烈な音楽は、もはや技巧や楽器の音を超越して何かを伝えてしまう。このシゲティと似たような音楽性を筆者は柳兼子に感じるのだ。しかも驚くべきことは彼女は声楽家であり、自身の肉体を楽器とする演奏者であるということである。にもかかわらず肉体の衰えを乗り越えて彼女の音楽は進歩したのである。

 しかしこの歌はいったい何なのだろう。人間の声は鍛えに鍛え、ついにこのような境地にまで到達できるものなのか。彼女の「浜辺の歌」など、フレーズのあちこちに老いによる声の震えがあるはずなのに、聴いているとそんなことは少しも気にならなくなり懐かしさや優しさや詩の情景が胸に迫る。それはもはや歌手自身の人間性の発露の美しさとしか言いようがない。

 若い声楽家なら声の伸びやかさ、朗々とした美しさで歌を歌い上げることができるだろう。しかしそれらの若さと輝きをなくしたとき、声楽家は何を語りかけることができるのか。多くの歌手が年齢の限界によって舞台から去ってゆく中、ただ一人、柳兼子だけがその限界を飛び越えてしまった。その歌は、まるで歌手の声から若々しさが去ったときから真の芸術が始まるとでも言うかのようだ。

 「みなさん、年をとると歌えなくなるのではなく、歌わなくなるんでしょ」
 「この年になって、今まで出来なかったことが突然やれたり、新しい発見をすることがあるんです」(柳兼子)

 指揮者W・フルトヴェングラーは「真の芸術とは何か。技巧に走ることを必要としない能力である。」と語っているが、彼女の歌を聴いていると、技巧に走ってありあまるテクニックを駆使することが何とも底の浅い芸術に思えてきてしまう。彼女の歌の素晴らしさはいわゆる技巧とか若さとかそういったものを一切捨てたところから生まれてきたものだからだ。

 むろん筆者はここでテクニックそのものの必要性を否定しようとしている訳ではない。音楽にはテクニックが奉仕するところの最も重要なものが存在し、その表現手段としてテクニックが存在する。最も深い感動を表現するためにこそ、テクニックが存在するのであって、それ以外に技巧の存在意義などないのではないか。

 「仕事をしていれば人は年をとらない。そういうわけで、私は仕事を止めることなど夢にも考えることはできない。引退という言葉は今も将来も、私には縁がないし、私にはそんなことは思いも寄らぬ考えである。私は、私のような職業のものには引退はないと信じている。精神の続く限りは。私の仕事は私の人生である。仕事を離して人生を考えることはできない。いわば引退なるものは、私には棺桶に片足を入れることなのだ。仕事をし、倦むことのない人は決して年をとらない。仕事と価値のある事に興味を持つことが不老長寿の最高の妙薬である。日ごとに私は生まれ変わる。毎日、私は再び始めなければならない。」(パブロ・カザルス)

 私も柳兼子のように年を重ねたいと願わずにはいられない。柳兼子の歌は音楽の感動とともに、何か貴重な精神的な遺産を私たちに提供してくれる。それは人間がいかに生きるべきかという問いかけであり、自らの使命を最後の瞬間まで生き切るという彼女の不断の努力の姿勢である。
 自らの使命に生き切った人間こそが真の幸福な人間であろう。柳兼子はこのCDを聴く限り80歳を越えてなお闘っている。自分の声と闘い、声の衰えと闘いつつ、自分の限界を更に越えようとしている。そしてついにその歌声はもはや「声」であることをやめて、「詩」そのものになってしまった。聴いていて深い敬意を覚えずにはいられない。この歌手が歴史の陰に埋もれることのないよう、一人でも多くの人が彼女の歌を聴き、自分の耳でその素晴らしさに触れていただくことを筆者は希望する。
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2014年08月20日

映画『兼子』上映会@我孫子

日本の民藝の租・柳宗悦氏の夫人の柳兼子さん(1982〜1984)についてのドキュメンタリー映画を一緒にみませんか。
 
映画『兼子』上映会(80分、カラー)
参加費:無料 

●市民プラザ 第2会議室
イト-ヨ-カド-・エスパ3F
(千代田線・常磐線・成田線・我孫子駅北口より徒歩7分)

●9月15日(土) 2時〜

●お問い合わせ:04-7184-9828(ACT 柳の会)


<映画の内容>
白樺カレーのレシピを考案したとして知られるようになってきた柳兼子さんは、実は「声楽の神様」とまで言われた日本有数のアルト声楽家でした。また、明治・大正・昭和を生きた音楽活動そのものが「わが国の生きた音楽史」ともいわれています。なんと、87 歳まで現役の歌手として活躍しました。映画では、兼子さんの歌声を織り交ぜながら、夫となる柳宗悦との出会いなど、兼子の人間性に迫る作品となっています。夫の柳宗悦の白樺派の文化活動、民芸運動にも声楽家として協力、経済的にも大きく貢献しました。一方、母としても、立派に3人の子供たちの養育に力をそそぎました。兼子さんを知る20人のインタビューを中心に描き出される映像は、激動の時代を生きた一人の女性の心の軌跡です。この歌手が歴史の陰に埋もれることのないよう、一人でも多くの人が兼子さんの歌を聴き、自分の耳でその素晴らしさに触れていただくよう、第一回の上映会です。

posted by その木なんの気、柳の気 at 10:44| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月03日

柳宗悦に関する本

「歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。」というのを検索で見つけた。それには、興味深い柳宗悦研究について触れていたので紹介したい。


【本】中見真理『柳宗悦−「複合の美」の思想』(岩波新書)

2013-07-30 06:27:01 | 日記


 ボクを未知の世界へと誘ってくれた本である。今まで、民芸といい、柳宗悦といい、そういう世界があることは知ってはいたが、その世界へと足を踏み入れたことはなかった。

 今秋から、ボクは新たな歴史講座を引き受けるなかで、この浜松市にも民芸運動が存在していたことを知り、その資料を集め始めていた。そんなときに刊行されたのが、本書である。

 まず「序章」を読み、著者の立ち位置が、現代的な課題を十二分に意識しながら柳について書いていることに、大いなる安堵の感を抱いたのである。研究というものが、現代的な課題を意識せずに行われるという時代に入っていることに、ボクは慨嘆していたところであったので、本書の「まえがき」を読んで、ほっとしたことも事実である。

 さて、著者は「野に咲く多くの異なる花は野の美を傷めるであろうか。互いは互いを助けて世界を単調から複合の美に彩るのである」という柳のこの考えを中核として論じていく。この考えは、民芸に関してのみ妥当するものではなく、自然や社会、政治など、あらゆるところに敷衍することが可能となる思想である。

 柳のその思想はどこから来たものか、著者は探索を開始する。そこには、多数の思想家が顔を出す。クロポトキン、
ブレイク、大杉栄、白樺派、浅川兄弟、トルストイ、バートランド・ラッセルなど、柳が影響を与えた人々の思想が列挙される。

 ボクは、それらの文学者や思想家の思想を、ボク自身が十分に咀嚼してこなかったことを大いに恥じた。すでに遅いであろうが、ブレイクやクロポトキンについては、今から読んでみようと思う。

 さて、柳は「複合の美」という中核的な思想から、朝鮮の文化、東北の民芸、アイヌや沖縄の文化や民芸に価値を見いだし、差別される現実を、自らそういう価値に誇りを抱いて乗り越えていくことを主張する。

 同時に、「複合の美」の視点から、平和思想へと発展させていく。著者は、この平和思想こそ、現代において注目すべきではないかと主張しているようなのだ。然り、とボクは、著者の意思に賛同する。

 よい本である。柳の思想が、「大日本帝国」の思想に抗いつつ、国内外の文学者や思想家の思想を、それこそ「複合」して形成されてきたものであること、でるがゆえに普遍性をもったものとして今も存在していることを著者は明示しているようだ。


出典:http://blog.goo.ne.jp/hamanashigaku/e/ee4a77cfd6fac282010d66c3c59fd1cb
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2014年07月18日

2014年06月14日

日本の女性と音楽:柳 兼子(1892-1984) をめぐって

 柳兼子はドイツを中心にフランス、イタリア、日本語の歌で90歳まで現役を通したアルト歌手である。ベルリン (1928)、ボストン (1929)、パリ (1976) でも歌い、日本芸術院会員 (1972) にも選出された、日本の例外的女性といえる。私生活では柳宗悦 (1989-1961) の妻 (1914〜) として民芸運動をともに支え、朝鮮美術保存 (1921〜)、日本民藝館開設 (1936〜)、さらに沖縄民芸研究 (1939〜) やアイヌ工芸 (1941〜) にも関心の環を広げた夫に協力、計り知れない貢献を成した。加えて息子三人の育児と家事全般、民芸館を訪れる多数の来客の接待なども一手に引き受けており、公私にわたるこうした兼子の目覚しい働きと演奏収益なしには宗悦の業績は実現しえなかった― 長男宗里はじめそれぞれの道に大成した息子たちが異口同音に語っているところからも、これに疑いの余地はまったく無い。にもかかわらず、百科事典宗悦項目、宗悦全集、民藝館展示・売店、柳家住居などでは、兼子は不在同然の扱いで放置されているのだ。

  東京藝術大学 (旧東京音楽学校) 卒業生、国立音楽大学教授 (1954-72) としても先輩に当たるこの女性に強烈な関心をそそられた私は、最終終講義の論題に迷うことなく彼女を取り上げた。夫妻の記念碑的共同作業として建てられた日本民藝館と柳家住居がいまなお駒場にあり、都立駒場高校に通学した因縁もあらたな意味合いに感じられる。意外にも兼子は、私の身近に足跡を残していたのだ。以下、兼子の発言 (門弟松橋桂子による 『柳兼子伝』 [水曜社、1999] から引用) から取り分けインパクトの強い例をご紹介しよう。

  まずは兼子のトレード・マークである和服姿 〔珍しい洋装姿も添えておく〕 について。「帯はお相撲さんの締め込み [回し] と同じで、発声の腹式呼吸を整えるのにとてもよい」。音楽修行の原点が長唄と琴の邦楽があったのに加え、隅田川近くで育ち幼いころの小屋掛け見物から生涯の愛好者となった相撲にも重ね合わせているところが面白い。
 
 83歳時の “ハバネラ” のフランス語歌唱の映像はまさに衝撃的だったが、1926年夏、同志社大学生たちによる日本初の混声合唱団を組織して指揮棒を揮ったときも和服姿、しかも5ヶ月の身重だったという…評伝と同じ著者の編集になる詳細な 「柳兼子音楽活動年譜」 (1987,日本民藝協会) には、この類の瞠目すべき兼子のエピソードで溢れている。

  ついで、いまや神格化されているクラシックの 「巨匠」 たちに対する容赦なき批判は眞に痛快だ。「ああいうものを理解して歌ふことの出来る唄ひ手がございましょうか? メロディそのもの、ハーモニイそのものが…しみ、マア、しみでございますね」。これは恋愛中の宗悦から 「歌ってみては…」 と勧められたシェーンベルクの最新作 『心に芽生えたもの Herzgewächse』 (1911) の譜読みを終えて書き送った感想である。評伝の筆者松橋は、調性破壊に接するこうした前衛音楽をまだ兼子は理解できていなかった、と解釈しているが、私はむしろ、音楽の本義に悖る 「現代音楽」 の逸脱を、兼子が鋭く見抜いていたのだ、と捉えたい。

  ベートーヴェンに対しても一切遠慮はない。1937年、N響の前身新交響楽団の指揮者ローゼンストックから出演依頼を受けながら、それを断った理由を評論家山根銀二から尋ねられ、兼子はつぎのように答えた。「『第九』 のアルト・パートは歌っていてもちっとも面白くないから…」 ―なんという率直さであろう! N響をバックに 「第九」 を歌うという、クラシック歌手の最高の栄誉とされる機会さえ、自分の好悪を押し通して断ってしまうとは見事というほかない。

  「あんな歌、チョロイわよ…山田耕筰の歌はみんな女学生唱歌よ」。日本の作曲家として最高ランクにある山田を兼子が全面否定していたことはすでに上記8で触れた。ここに引いた発言は1944年、戦時下の慰問で例外的に歌った山田の 『兵士の妻の祈り』 に関連して吐いたもの。当時山田が妻永井郁子―兼子の音楽学校同級生にして同じペッツォルト門下、そして翻訳歌唱の提唱者としても見逃せぬ歌手だった―に暴力を揮っていた事を許せなかったという私怨が言わせたものらしいが、山田への評価の正当性を疑わせ、同時に兼子の正義感を称えたくなる一件ではないか。

  確立した権威に阿るのでなく、あくまで自らの感性を判断の拠り所とする兼子の真骨頂は、黒人歌手マリアン・アンダースンをめぐる次の発言でも示される。「とても上品で人間がよく出来た人でしたよ。黒人の声で歌われた黒人霊歌の素晴らしさに比べると 『魔王』 などの演奏は多少の破綻がある。けれども例え音が下がろうと、その奥にそれを補って余りあるものを聴く力を持たなければ駄目ですよ。去年来たトラウベルと較べてごらんなさい。大声だけ張り上げて歌う人と、アンダスンの音楽性がいかに違うかを」。1953年、来日したアンダスンとの対談を回顧して門弟に言い聞かせた一節である。ヘレン・トラウベルは音楽狂の愚父の口から聴いて10歳当時の私さえその名を知っていたアメリカの白人歌手。本稿を書くにあたって改めて彼女がワーグナー歌いだったと知り、兼子のいう 「大声だけ…」 に納得だ。

  しかし何より衝撃的なのは、1928年、念願のドイツ留学を果すべく宗悦に懇願した次の言葉である。「どうぞ、女中さんのヤブ入りみたいに、半年ばかり私におひまを下さい」。滞欧の必要資金全額を自ら賄い、留守中の生活費も調達した挙句、出立後の演奏会出演料まで夫に差し出してなお、このような物言いを強いられるとは…後を絶たぬDV、レイプ事件、就業差別、無償家事労働など、女性へのあまりに不当な扱いが世界的にさらなる悪化の気配を感じさせる21世紀。兼子の場合のような、婚家に入った女ゆえの悲痛な想いを知り、わずかでも共感する人を増やしていくことしか、解決の道筋はないのかもしれない。しかし私にはこれこそが “Think globally, Act locally” の説く教えと思われる。

出典: NPJ通信(小林緑 2009・5・28)より抜粋
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2014年06月08日

浅川伯教、朝鮮陶磁に魅せられた人

「李朝の白磁は大理石の様に透明な陰を持って居る。はち切れそうに内から壓(お)し出した曲線は気持ちよく光を辷(すべ)らす。これは全く彫刻の効果だ」(浅川伯教「壺」『白樺』1922年より)。

後漢から明にかけての中国のものも素晴らしいが、朝鮮半島のものは繊細かつユーモラス。高麗の青磁は、その透明感で、中国をしのぐ。意匠は、自在でとにかく楽しい。豊臣秀吉が、その昔、朝鮮半島から多くの陶工たちを拉致もしくは強制連行と言っていいと思う。ひとえに日本にはない、素晴らしい作品があふれていたからだろう。焼き物のすごさを教わったのは、鹿児島の苗代川、東市来の薩摩焼当主、先代の沈寿官さんやその集落の工人からだ。先々代と、もう一つ前の沈寿官の白薩摩は超絶技巧のなせる技だと思う。中国陶磁の影響を脱し、独自の美を生み出した朝鮮陶磁を通して、日本は、繊細な染付、つまり粉青を学び、吸収したのだ。

17世紀後半から18世紀前半の朝鮮官窯では、大型の白磁壺が好んで作られた。広州は朝鮮王朝の官窯が置かれた地であり、韓国陶磁研究の要となる場所です。伯教が著わした『李朝の陶磁』(座右寶行会、1956年)には、「広州郡の窯址地図」という項が設けられており、そこにはこの地が豊かな山野に恵まれ水運に適していることが、約450年もの長期間官窯として機能した理由として述べられている。

焼き物には、ほかの美術品とは違う存在感がある。例えば、土と釉薬の相性、そして窯の温度、そして、それを掌に抱き、愛でたひとの思い。そうしたものの総体が、焼き物から放出されているのだ。杯を見ていると、それに口をつけたひとの唇を想像し、花瓶であれば、活けられたであろう花や、それがしおれるさまも、思い描く。青い色、白い色と言っても、ひとつとして同じものはなく、貫入の細部、釉薬の発色も、部分部分で違っている。これを、神の御業と言わずして、何だろうか。韓国で満月壺と呼ばれて珍重される胴径と器高がほぼ一対一の均衡をとり、堂々とした造形などを、浅川伯教は、胴継成形によるシルエットの変化を人間の胴体と見なした白磁壺に抽象的な彫刻を感じていたようだ。

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2014年05月26日

なぜか、風化した我孫子の白樺派

我孫子の人は、当地が観光地だとは考えられないかもしれませんが、今時は観光される街はお洒落な散策路があったり、文学者が住んでいたとか自慢できる地域の誇りです。世界遺産との認定がされることが、社会ぬーすなのですから、少し我孫子に訪れてもらえるように仕掛けが出来ないものでしょうか!?

例えば白樺派の文人である志賀直哉をウリにしているのが、城崎町の文芸館(1977年設立)です。1階には、志賀直哉と白樺派の文人たちの作品・手紙を、2階には城崎にゆかりのある文人墨客の作品を展示。小説『城の崎にて』を当地で執筆した直哉直筆のサインが刻まれた「城の崎にて」の文学碑が建て、観光客の撮影のスポットにしています。

志賀は実父との対立から、家を離れて放浪し、広島県尾道に住み、夏目漱石の奨めにより「時任謙作」を執筆していました。1913年(大正2年)4月には東京に戻って、同年8月に里見クと芝浦へ涼みに行き、素人相撲を見て帰る途中、口論、線路の側を歩いていて山手線の電車に後からはね飛ばされ重傷を負う。暫く入院して、療養のために兵庫県にある城崎温泉(「三木屋」という旅館(現存)に宿泊)に宿泊した。その後は松江や京都など各地を点々とし、1914年(大正3年)には結婚する。

そして、いよいよの1915年(大正4年)柳宗悦の勧めで、我孫子市の手賀沼の畔に移り住む。
しばらく、筆が進まない時期があったが、1917年(大正6年)5月に、『城の崎にて』を同人誌『白樺』に発表すると、心境小説の代表的な作品となる。

『城の崎にて』は、事故に際した自らの体験と療養の記憶を 鋭い自然観察で蜂、鼠、イモリなど生き物の淋しさを感じている「自分」を通して書いた。このイモリや鼠が出てくるあたりは、我孫子での子どもたちとの生活が大きいのではないかと思われる。新たな「子ども」という生命の誕生、喪失によって自然の見方がかわってきたのではないか。簡素で無駄のない描写は無類の名文と言われるようになる、そのきっかけが城崎で療養し、その時のことを我孫子にて書いたということがあるわけです。

志賀の小説には我孫子の地名がでてくることも多く、陸軍の演習地であったことも分かります。
しかし、我孫子と白樺派など、なかなかイメージとして結びつかないのは、当時の我孫子の人には迷惑な若者たちだったからではないかなと、想像します。大正6年10月には実父との和解が成立し、『和解』を発表、この後、1920年(大正9年)、『小僧の神様』『焚火』を発表し、この題名がもじられ「小説の神様」と言われるようになる。 1921年(大正10年)、唯一の長編小説『暗夜行路』の前編を発表した。1923年(大正12年)まで我孫子に住み、京都、奈良、鎌倉、世田谷、熱海と移っている中で重要作品のほとんどが我孫子で書かれた事が検証されています。

信州白樺といわれる活動では、武者小路実篤、柳宗悦が講演に行き、青年教師たちは、しかし、青年たちは自由な思想への傾倒のために弾圧を受け、何百人も処分者がでるようになります。時代的には、柳宗悦などは日韓併合についても批判していますから、なかなか当局との折合いも難しい活動だったのでしょう

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2014年04月11日

兼子の歌声

 87才までステージに立った、アルト歌手・柳兼子ーやなぎ かねこー(1892−1984)。日本の民芸運動の祖・柳 宗悦を公私ともに支えた、夫人の兼子は、現在の東京芸大で声楽を学び、ベルリンでもリサイタルを開催した日本を代表する歌手でした。

東京都美術館で兼子が積極的に日本にも紹介し歌ったマーラーの歌曲を集めてミュージアム・コンサート 「生活と芸術 ― アーツ&クラフツ展」 記念コンサート vol.3(2009)「日本〜柳 兼子(柳 宗悦・夫人)に捧げる」、も開催されました



 「やっと八十になって、歌が歌えたなという気がいたしますからね。 長生きしてよかったなと思います。」と言う兼子・83才の、ふくよかでつややかな、表情豊かな、とても素敵な歌声にDVD「兼子」を見て魅了されました。

 柳宗理など 3人のご子息が、両親・兼子と宗悦について語るのを、興味深く聴きました。
子どもたちの自主性を生かすべく、おおきな心で、のびのびと子育てされたようです。
母への愛情が、言葉からあふれでていました。
母によって育てられた・・・と。 が、
「オヤジは 母親に対して威張ってね。暴力とか・・・。でも、オフクロは強いから・・・。」

 宗悦にも、<男は 威張っていいんだ> という カンチガイが あったのでしょうか。

 その前の週に、市民講座で、高崎宗司氏の、柳宗悦論を聴いたばかりでした。

 柳 宗悦ーやなぎ・むねよしー<1889−1962>は、白樺派の文人。
朝鮮の焼き物の美しさに出会って、’16年から、21 回も渡朝。
芸術家が作ったのではない、民衆の生活工芸品に強く惹かれ、各地を回って5000点もの民芸品を収集し、保存のために奔走しました。
その資金集めのために、<柳 兼子コンサート> が 何度も開かれました。
’20年と’21年には、京城などで10回近く行われ、西洋の音楽、女性の活躍と言う意味で、朝鮮の女性たちのこころを揺さぶったようです。
’24年にはかの地に、<朝鮮民族美術館>が 建てられ、日本にも<日本民藝館>が建てられました。

 しかし、その功績以上に宗悦は・・・・、と 高崎先生は力説しました。

 民芸品を探しに地方を回るうち、植民地化により 人々が大変苦しんでいることを知ります。
土地は取り上げられる、作った米は日本に持っていかれる、働き手は徴用に取られる・・・。
日本の植民地政策を批判しました。
’19年の三.一独立運動の時は、素手のデモ隊に武力で弾圧し、多くの死傷者を出したことに抗議し、『朝鮮の友に贈る書』を書きました。
その後の同化=文化政策、(内鮮融和と言う名の、教育・出版・皇民化政策)に対し、「自律する彼らの精神の自由を認めていない」 と批判しました。
公憤があった、のです。
’23年は関東大震災の年。 朝鮮人虐殺があった頃です。
官憲の検閲で<削除>を受けながらも、 ”日本人よ、朝鮮の人々を敬愛し、尊重せよ。朝鮮の人よ、自信と誇りを持て” と、書き続けたのです。

 宗悦の著書『朝鮮とその芸術』 は、韓国で8回も翻訳され、愛読されているとのことです。

 宗悦の、朝鮮への思い、それを伝えようとする高崎先生の思いが伝わってくる講座でした。
高崎先生の、『「反日感情」 韓国・朝鮮人と日本人』、や、『戦時下の朝鮮』(ウーン,書名、うろ覚えです。岩波新書)では、日本が朝鮮に対し、どんなにひどいことをしたか、事実の歴史を研究し、発表しておられます。


 戦後の朝鮮半島の情勢について、宗悦はどんなことを思っていたのでしょうか?
日韓条約の前に 亡くなりました。

 先の DVD では、兼子さんの朝鮮の歌は、ありませんでした。聴きたかったです。

出典:ブログ
「柳兼子の歌声」(2008.6)より抜粋
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2014年04月10日

柳兼子の音楽室

兼子さんは、日本の戦争政策に反対し軍歌を歌うことを拒否したために、第二次大戦中は活躍の場を奪われたのでした。歌い手としての全盛期のブランクは大きく、ようやく戦争が終わった後には兼子さんの存在は忘れられていました。

白樺文学館がオープンした直後・2001年に、我孫子での様々なご縁によってCD化の話が持ち上がりました。CD化した際に艶やかで美しい音で再生し、多くの方に兼子さんの魅力、その前例のない深い歌声=歌の意味を掘り下げて曲のイデアに迫った芸術を知ってもらいたいと、館内にはオーディオ装置づくり(予算は500万円)・音楽室の設計・テーブルとソファーのデザイン・椅子の選定等に取り組んだのです。兼子さんのための音楽室ですから、オーディオ装置とその調音も「兼子チューン」なのです。

それから9年が過ぎた2010年4月10日、駒場の『日本民藝館』(西館)に『柳兼子記念室』がオープンしました。我孫子の白樺文学では、兼子さんを白樺同人の数少ない女性芸術家のひとりとしてとらえ、開館当初より、その歌声も聞いていただけるようにしつらえました。

参考:
思索の日記(武田康弘)

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2014年04月09日

声楽の神様、柳兼子

 かつては「声楽の神様」とまで称され、数々のドイツ・リートを歌い85歳まで公式のリサイタルを続け、その後も数年間は私的な集まりで歌い続け、92歳で亡くなる2ヶ月前まで後進の指導にあたっていた「わが国の生きた音楽史」ともいわれたアルトの声楽家のCDがこの1月に発売された。「かなでることば〜兼子のうたのこころを聴く/VIG-8001」である。アルトの声楽家として18歳から87歳まで演奏活動を続けた柳兼子が、引退1年前の84歳の時(1976年6月11日神奈川県民会館小ホールでの独唱会)に録音した音源が見つかりCD化されたのが本作。“うた”の何たるかを体現した貴重な一枚だと思う。

 その歌声はエスプレッシーヴォで淡々と語りかける様、歌い上げる所は己の全人性を懸けるといった感。其所に無尽蔵の表現力が実感できる。「声楽リサイタル/OVCA-00002」に録音されたシューベルトの魔王では声に迫力があり素晴らしいヴォーカルだ。

 Track1のMeyerbeer(マイアベーア)の予言者より「あわれ我が子よ」は、歌もピアノも心をえぐる感でcantabile(カンタービレ/歌うように)もrecitativo(チタティーボ/語り掛けるような)も素晴らしく、高い変ロ(♭)も見事に歌い上げている。Track2はBizet(ジョルジュ・ビゼー)のカルメンより「ハバネラ」、マリオ小林のピアノ伴奏共々表情豊かな曲を聴かせてくれる。Track3のLuzzi(ルッツィ)作アヴェ・マリアではサンタ マリア(聖マリア)と歌う真情などの表現と声は感動モノ。Track4はTostiのセレナータ、Track5 Giordaniのカロ・ミオ・ベン迄が原語で歌われている。日本語で歌うBeethovenのいずこ行くか、Bishopの埴生の宿や W.S.Haysの故郷の廃家は何とも美しい響き。特に故郷の廃家では兼子の声が心に訴えてくる。寂しさでテンポを落とす辺りが絶妙。
 
 後半は日本歌曲の詩歌に込められ、長唄の要素がとり込まれているといわれる日本の美しい言葉で語られている。「芸術は心である」と語る兼子の真髄が聴ける。十八番中の十八番、清瀬保二の少年の日では自信が溢れたスケール感や悲しい心の込め方など、語りかけるような歌い方は聞くものの心に染み入る。Track16、大中寅二の「椰子の実」は兼子の代表曲、語りの要素が多く枯れきっている。フレーズは短いも実に美しい声。

 柳兼子(やなぎかねこ、1892年(明治25年)5月18日 − 1984年(昭和59年)6月1日)アルトの声楽家として18歳から87歳まで演奏活動を続け、92歳、死の2ヶ月前まで後進の指導にあたった。明治・大正・昭和を生きた彼女の音楽活動そのものが「わが国の生きた音楽史」ともいわれている。1910年東京音楽学校声楽科卒業。1914年柳宗悦と結婚。

 柳宗悦は同人雑誌グループ白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え民芸運動を起こした思想家である。朝鮮の陶磁器をはじめとした民具と、その作り手である朝鮮の人々を愛し、そのすばらしさを類まれな審美眼をもって日本に知らしめている。また兼子は夫の白樺派の文化活動、民芸運動にも妻として、声楽家として協力、経済的にも大きく貢献している。

 1927年にはグスタフ・マーラーの歌曲集「亡き子をしのぶ歌」「リュッケルトの詩による5つの歌」及び「子どもの魔法の角笛」の中の“死せる鼓手”“少年鼓手”を日本初演している(近衛秀麿指揮、新交響楽団の定期演奏会)。1928年ドイツに留学、ベルリンでのリサイタルではドイツ人を驚愕させるほどの日本最高のリート歌手であったが、軍歌を歌うことを頑なに拒否。日本政府の朝鮮半島への同化政策に反発し、夫婦ともに朝鮮半島に渡りリサイタルを開催。当地の人々と深い親交を結んでもいる。兼子は柳宗悦とともに朝鮮独立を公言し、朝鮮支配を批判していたため、私服刑事に見張られ、特高にも監視されていたようだ。国民の士気高揚のために軍国主義化する音楽界から身を引くような形となり、実質的な音楽活動が途絶えてしまう。戦後の混乱期を抜け出てようやく現場復帰を果たしたものの、当時まだ一段低いものと見られていた日本歌曲の唱法の確立に情熱を傾けていたせいもあり、半ば忘れ去られた存在となってしまう。

 戦前、自他ともに認める日本最高のアルト歌手であり、本場ドイツで絶賛された初めての日本人でもありながら、全盛時の作品は現在わかっている限り、ほとんど残っていない。2001年、柳兼子再評価の機運が高まり、オーディオ・ラボのレーベルで長らく廃盤になっていたいくつかの音源が復刻された。また他にもアートユニオン、グリーンドア音楽出版のレーベルからもCDが出されている。
 2001年3月22日、柳兼子のCDを特集した小番組「声楽の母 幻の録音テープ発見」が放映され、各地で大きな反響を呼び4月26日にCD 「永遠のアルト 柳兼子」がグリーンドア音楽出版より発売された。以下が入手可能なCDと思うが「魔王 柳兼子」はまだ入手出来ていない。

●「柳兼子 現代日本歌曲選集」オーディオ・ラボ OVCA-00001
●「柳兼子 声楽リサイタル」オーディオ・ラボ OVCA-00002
●「柳兼子 現代日本歌曲選集2」オーディオ・ラボ OVCA-00003
●「永遠のアルト 柳兼子」グリーンドア音楽出版 GD-2001~2003
●「魔王 柳兼子」グリーンドア音楽出版 GD-2004

 2003年には佐藤隆司企画・原案、渋谷昶子脚本・演出によるドキュメンタリー映画「兼子-Kaneko」(全農映)が制作され、その後、日本各地で上映される。また英語版も翌年に制作され、すでに海外でも上映がされている。
 また小池静子「柳兼子の生涯 歌に生きて」、渡部信順「柳兼子の歌」、宇野功芳「名演奏のクラシック」、多胡吉郎著「わたしの歌を、あなたに 柳兼子、絶唱の朝鮮」など数多くの書籍が発行されている。なかでも柳兼子の芸術と生きた時代を活写した評伝、松橋桂子の「楷書の絶唱 柳兼子」は是非読んでみたい一冊である。「わが国の生きた音楽史」「声楽の神様」とまで称された柳兼子の“うた”の何たるかを是非聴いて欲しい。

出典:竹内賢治コラム(2009/6/15)より
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2014年01月10日

三樹荘にあったロダンの彫刻のゆくえ

武者小路実篤は、大原美術館に送ってきた手紙が残っています。それによると、
「白樺美術館をつくろうとしてあつめた寄付が未完成すぎた結果、柳宗悦、志賀直哉達の申し出があり、白樺美術館の完成はものにならない事がわかっていたので、我々が相談してこの美術館に委託したものです。…誰からも反対されなかったと思います。幸いこの美術館からも喜んでいただけ、私達の骨折も無駄にならなかった事を喜んでいるわけです。…ロダンからもらったブロンズ三つと共に美術館におさまっている事になり、私達は喜んでいる事になりました。(原文のまま)」と述べています。

白樺同人が「白樺美術館」の建設を目的に皆でお金を出しあって美術館の建設を夢見て、セザンヌの絵も購入したましたが、美術館の設立が長らく実現せず、柳宗悦の家にかかっていました。セザンヌ好きだった大原總一郎が柳宗悦に懇望して、しばらく寄託というかたちで大原美術館にて展示をしていました。

しかし、いよいよ白樺美術館の設立は困難であるとして、昭和43年9月8日、白樺美術館企画人を代表して、武者小路実篤、志賀直哉の両人が、これらの作品を永久に大原美術館に委託するという正式な申し入れをしました。その後、館では
「…以上の作品は白樺美術館設立の企図の下に蒐集されたものでありますが、遂にその設立を見ずして歳月を経ましたので、当館に於いては柳先生の希望に則り白樺美術館当初の御意図に副うよう努めて参りました。…(中略)…この際双方の意図を文書の上に遺し、白樺美術館同人は左記作品4点を永久に大原美術館に委託し、…(中略)…永くその意図に副いたいと存じます。」
と書かれてあります。

 そのとき、セザンヌ「風景」のほかにロダンのブロンズの小作品3点も一緒に寄託されました。

参考;大原美実館HP http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a14.html

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2014年01月07日

白樺派ゆかりの地、我孫子

当時、手賀沼の周囲にきちんとした道はなく、水がひたひたと、志賀邸の石段の下まで寄せていたそうです。そんなわけで、土地の人にとって、手賀沼のほとりを行き来するには、なまじの山道より、舟を使った方が速くてスムーズ。そこで武者小路も、小舟で竿さし、スィ〜〜と岸に寄せては、お〜い、志賀、いるか〜......。こんな風に下から声をかけていたそうです。

 そういうお話を聞くにつけ、私の空想は、谷内六郎の世界とか、マーク・トゥエインとか、「未来少年コナン」(古!)に出てきた樹の上の隠れ家とか、といった方面に広がってゆくのです。ここ我孫子は、ずいぶん不便で、湿気も多く、住みづらい土地でもあったようですが、それでも彼らがしばらく居たのは、そんな日常の不自由な生活そのものに、彼らの感性のワクワク部分を刺激する〈遊び〉の面が含まれていたからではないでしょうか?住居跡の地形を見ると、そんな風に思えて来ます。家族持ちとはいえ、皆、三十代前半頃(柳宗悦は二十代後半)。まだ心はオジサンになるには早すぎて…という事だったかも知れません。

 雨なので手賀沼周遊は出来ませんでしたが、文学館には素敵なオーディオルームもあり、柳兼子さんの熱唱などを聴かせていただきました。珍しい〈手紙展〉も開催中でした(〜12/23)。白樺文学館の皆様、色々なお話をお聞かせ下さり、ありがとうございました!

* * * * * * * *

 ところで、後からふと気がつき、あの地の近くには園池公致も住んでいたはず…と、あれこれ資料をめくっていましたら、ありました、「僕が我孫子にいた時、志賀直哉は園池と二人で気らくに同人雑誌のようなものをつくっていた」(武者小路「園池公致兄」・『心』昭和49年3月号)。「和解」第九章に「自分はある親しい友と毎土曜日二人だけで回覧雑誌を作る事にした」とある、その“親しい友”が園池です。二人きりの、ささやかな回覧雑誌だったようですが、しかしそれは、ある意味で、志賀が創作活動に復帰する第一歩ともなった大事な交流。こういう面から考えると、〈我孫子と白樺派〉の関わりも、またあらたに広がって見える気がします。

出典:風のたより 

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2013年10月11日

岩波新書:中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』

 柳宗悦のプロフィールについては今さら説明の必要もないかもしれない。『白樺』派の一人で宗教哲学の研究者として出発、独自の探求のうちに民芸運動へと乗り出し、帝国日本の枠組みにおいて周縁化された植民地、とりわけ朝鮮文化へ愛着を示したことでも知られている。

 彼の思想の特徴は、文化的多元性とお互いの敬意に基づく「複合の美」を求める姿勢にあったと言えるだろう。それは宗教的心情や美的感覚にとどまらず、社会観・世界観に至るまで彼の中で一貫している。著者の専門は国際関係思想史であるが、そうした「複合の美」に着目しながら柳の生涯と思想を描き出し、そこから非暴力的な平和主義を汲み取ろうとするところに本書の眼目が置かれている。

 明治以降の近代化の過程で西欧への模倣に努めてきた日本のあり方に柳は批判的であった。東洋と西洋、それぞれが自らの独自性を示して相互の敬意を図っていく必要がある。では、西洋ではない、日本に独自のものとは何か? このような問いそのものは近代日本思想史を通観すれば頻出するもので、特に珍しいわけではない。ただ、柳の場合に目を引くのは、日本文化の美なるものを探ろうとしても、見当たるのは中国や朝鮮の模倣ばかりという困惑である。そうした懊悩の末に彼が見出したのが木喰仏であり、民芸であった。日常生活の中で普通に用いる器具にこそ、民族の心がじかに表われる。無名の工人が無心に作り続けた工芸には日常生活に根ざした信仰心が込められていると考え、「信」と「美」の一致を見出そうとしたのが柳の直観であった。

 彼が「民芸」として「発見」した日本の民族文化に独特な美があるとすれば、日本以外の民族にもそれぞれの美があるはずである。日本の美が西欧文化の圧倒的な影響力で消えてしまわないように願うならば、同時に日本が植民地支配を行っている地域の文化も尊重しなければならない。そうした思いから柳は、沖縄、アイヌ、朝鮮、台湾など日本による同化政策の圧力にさらされている地域の文化の行く末に危機感を抱いていた。

 神の意志という表現を用いるかどうかは別として、この世に存在するあらゆるものにはそれぞれの意義がある。『相互扶助論』を著したクロポトキン、「一切のものの肯定」を説いたホイットマン、「一枝の花、一粒の砂」にも「底知れない不思議さ」を見出したウィリアム・ブレイク、こうした思想家たちから強い影響を受けた柳の発想の根底には、あらゆる存在が相互に協力し合う中で自らのテンペラメントを開花させていくという考え方があった。グローバリズムが地球上の多様な文化を単一の色に染め上げて画一化してしまうことであるとするならば、そのような無味乾燥さは柳にとって最も耐え難いことである。

 どんな民族も、どんな個人も、それぞれがかけがえのない有意味な存在としてこの世界が構成されているという確信が柳の「複合の美」の前提となっている。そうした着想は、例えばハンナ・アレントの次の指摘を想起させる。


「…世界は複数の観点(パースペクティヴズ)が存在するときに限って出現するのだ。つまり世界は、いついかなる時でも、こんな風にもあんな風にも見られる場合に限り、初めて世俗的事象の秩序として現れるということである。もしある民族や国民が、または世界におけるそれ独自の位置──その由来はともあれ、簡単には複製されえない位置──から発するユニークな世界観を持っているある特定の人間集団が、絶滅させられるなら、それは単に一つの民族なり国民なりが、あるいは一定数の個人が死滅するということではなく、むしろ私たちの「共通世界」の一部が破壊されるということであり、今まで現れていた世界の一側面が二度と再び現れえなくなるということなのである。それゆえ、絶滅は一つの世界の終わりというだけではなく、絶滅を行う側もまた道連れにされるということでもあるのだ。厳密に言えば、政治の目的は「人間」というよりも、人間と人間の間に生起して人間を越えて持続する「世界」なのである。…互いに何かしら個別的な関係を持ち合いながら世界に存在する民族の数が多ければ多いほど、それらの間に生起する世界の数もますます多くなるし、世界はますます大きく豊かになるだろう。ある国家の中に世界を──すべての人々に公平に見え隠れする同一の世界を──見るための観点の数が多くあればあるほど、その国家は世界に対してますます意義深く開かれたものになるだろう。

他方で、万が一地球に大地殻変動が起きて、あとにはたった一つの国家しか残されなくなったとしたら、そしてその国家内の誰もがあらゆることを同一の観点から理解して、互いに完全に意見を一致させながら暮らすようになったとしたら、世界は、歴史的‐政治的意味では、終焉したことになるだろう。…掛け値なしの意味で、人間は世界が存在するところでしか生きてゆけないし、また世界は、掛け値なしの意味で、人類の複数性というものが、単一の種の単なる数的増加以上のものであるところでしか、存在しえないのである。」(ハンナ・アレント[ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳]『政治の約束』筑摩書房、2008年、206〜207ページ)

 一時期、ポストコロニアルやカルチュラル・スタディーズの流行に伴い、一見良心的に見える言動ではあっても、その中に潜む“植民地的暴力”を暴き立てる研究が目立ったことがある。粗探し、とまでは言わないが、はじめに結論ありきの恣意的な欠席裁判は建設的な仕事とは思えなかった。柳宗悦もカルスタ的な研究動向で俎上にあげられていたが(本書、12〜13ページ)、本書はそうした論調とは一線を画している。私自身は『民俗台湾』に集った人々に関心を持っているが、彼らに対しても同様に向けられたカルスタ的な批判への違和感はこちらに記した。

 なお、台湾で工芸運動を起こした画家の顔水龍は柳宗悦から影響を受けている。顔はもともと柳の著作を読んでいただけでなく、柳が1943年に来台し、『民俗台湾』同人の金関丈夫や立石鉄臣に連れられて台南へ来訪した折に顔が柳を案内してから個人的な関係も持ち、戦後になっても二人の交流は続いていた。

出典ブログ:
http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-dc03.html?cid=80980074#comments
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2013年09月10日

『民藝とは何か』(柳宗悦 講談社学術文庫)

日本民藝館という小さなmuseumは、知る人ぞ知る、日本が世界に対して誇れる施設だ。
その創設者である柳宗悦が書いたこの初心者への概説書(原本は1941年出版)は、「民藝」への入門書だけでなく、「近代」を問い直し、真・善・美に関する私たちの考え方を一新させるような ―あるいは真・善・美について私たちが知っていたことを思い起こさせてくれるような― 本である。

柳らの造語である「民藝」を、彼は「民衆が日々用いる工藝品」、「最も深く人間の生活に交る品物の領域」、「不断使いするもの、誰でも日々用いるもの」、「雑器」あるいは「雑具」などと説明する(21ページ)。彼はその民藝にこそ美を見出した。

その美の発見が、独りよがりなものでも、イデオロギー的なものでもない、純粋に直観的なものであることは、日本民藝館の展示物、そして展示の仕方と建物自体を実際に見れば疑いようのないことであろう。あるいは柳も言うように、茶道を創めた人々が見出し、後年「大名物」(おおめいぶつ)と呼ばれるようになった茶器は、特別に作られた美術品ではなく、当時の民藝に他ならなかったことからも明らかであろう。

仰々しく作られた「芸術」作品よりも、「民藝」にこそ美が存在することを柳は次のように説明する。

なぜ特別な品物よりかえって普通の品物にかくも豊かな美が現れてくるか。
それは一つに作る折の心の状態の差異によると云わねばなりません。前者の有想よりも後者の無想が、より清い境地にあるからです。意識よりも無心が、さらに深いものを含むからです。主我の念よりも忘我の念の方が、より深い基礎となるからです。在銘よりも無銘の方が、より安らかな境地にあるからです。作為よりも必然が、一層厚く美を保証するからです。個性よりも伝統が、より大きな根底と云えるからです。人知は賢くとも、より賢い叡智が自然に潜むからです。人知に守られる富貴な品より、自然に守られる民藝品の方に、より確かさがあることに何の不思議もないわけです。(31ページ)

そもそもあのわずかな高価な貴族的な品物の、ほとんどすべてに見られる通有の欠点は、一つに意識の超過により、一つに自我の跳梁によるのです。一言で云えば工夫作為の弊なのです。(73ページ)

繰り返すが、この審美は「貴族が悪くて、民衆が正しい」といったイデオロギー的なものではない。柳は日本民藝館のコレクションが、民衆的工藝品となったことを、
(1) 美しいものを集めたら結果的にそれが民衆的工藝品であった、
(2) 貴族的な品に美しいものがないわけではないが、それらの例外的存在はすべて「民藝美」の特徴である単純さや素朴さを備えていた、と説明する(106-107ページ)。

「民藝の美の特質」を柳は別箇所で、実用性、廉価性、平常性、健康性、単純性、協力性、国民性の7つの観点から説明する。(127-132ページ)。このうち、6番目の協力性は、個人主義以外の人間のあり方を忘れがちな近現代人にとって、非常に重要な指摘であるように私には思える。

第六は協力性の美をここに見出すということです。近世の美術品は作者の名を誇ります。他の誰にもできないような仕事であって個性の表現を示すものだと考えられます。それ故仕事は自分の名において作られるのです。ですが元来かかる習慣は個人主義が発生した後の現象で、誰も知る通り、東洋でも西洋でも昔はどんな優れた作にも名は記してありません。宗教時代のことでしたから、吾が名を誇る気持ちはなかったのです。民藝の世界に来ると再び無銘の領域に来るのです。作者は一々自己の名を記しません。このことは作者の不浄な野心や慾望を拭い去って、それを無心な清浄なものにしてくれるのです。しかもそれは大勢の人の協力の仕事なのです。これは工藝の性質自身が要求することなのです。焼物の例を取れば轆轤を引く者、削る者、描く者、焼く者、各々持ち場があって、それ等の人達が協力して仕事が完成されるのです。民藝品は個人の所産ではなく、多くの人達の協力的所産だということに大きな意義があるのです。将来の美学は、個人で美を産むということより、大勢で協力して美を産むということの方が、もっと大きな理念だということを教えねばならないと思います。個人の名誉よりも全体の名誉をもっと重く見るべきです。それ故人々は無銘品の価値をもっと見直さなければなりません。(130-131ページ)。


「無名」の現場教員が、互いに語り合っている場所の方にはるかに深い知恵があることを痛感している。もちろん有名者の話が常に駄目で、無名者の話が常に素晴らしいというわけではないが、高名・有名な人の話には、しばしば「意識の超過」や「自我の跳梁」、あるいは「工夫作為の弊」が見えるように思えて辟易することが多い。
美に関する柳の論考は、真や善に関する教育実践に関しても当てはまるのではないかと思わざるを得ない。

出典HP:http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/09/blog-post_23.html
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2013年09月08日

蒐集物語

柳宗悦『蒐集物語』(中央公論社、一九五六年二月二八日、装幀=芹沢_介)、この中の「盒子物語」の粗筋を知る機会があって、何とも面白く、全編を読みたいものと思っていた。「盒子物語」の粗筋はこうである。

大正の初め頃、柳は朝鮮京城の道具屋で染付に辰砂入りの可愛い盒子を見つける。一目気に入って予約、後日受け取りに行ったところ手違いで別人に売られてしまっていた。それから二年、李朝の蒐集家として知られた富豪、富田儀作の家でその盒子に巡り会う。手違いではなく道具屋は人を選んで売っていたのだ。柳は自分が先約だったことすら披露できずに指をくわえるしかなかった。しかし富田翁は数年後に歿し、コレクションは散逸してしまう。これでもう二度と盒子は手に入らないと諦めた。

昭和五年、柳はハーバード大学附属のフォッグ美術館に招かれてボストン近郊ケムブリッヂに滞在する。あるときボストンの山中商会を訪ね、朝鮮ものを探して地下室へ入ると薄暗い部屋に雑然と品物が置かれてあった。

《さうして重ねられたその箱を一つ一つ見て行った。ところが何たる奇遇か、その箱の一つから、例の辰砂の盒子と桃型の水滴とが肩を並べて共に現れて来たではないか。私は思はずも二つを掌の中にしかと握り、胸に抱いた。私は代金を支払ひ小さな包みを手に納めるまでは、それが現実の出来事とは思へなかつた。》

富田コレクションはほとんどを山中商会が引き受けていた。その一部がアメリカの各店舗に送られたが、まったく不思議な巡り合わせでボストン店に柳が想い続けていた盒子と桃型の水滴が届いていたのである。さらにそれらは米国では人気がなく地下室に長年放置されていた。

《私は多くのものを集めて来たが、こんなにも奇異な因縁に結ばれたものは少ない。又誰にだつて起る出来事ではない。それ故いつかこのことを書き記しておきたいと思つた。漸くその時が来て一部始終を綴るに到つたが、私の蒐集物語の中でも不思議でならない一例である。》

念ずれば通ず、ということか……それにしても。

和讃の古版本を見つける話も、こちらは古本譚だけに興味深いものがある(レベルは違うがこのブログでも『正信念仏偈』を紹介した)。

《仏書を求める方は、今も京都を訪はねばならぬ。》《明治この方昔に比べたらさびれては来たが、これでも丁字屋、平楽寺などの名は、もはや古典的な香りがある。近年、貝葉書院、法蔵館、興教書院、護法館など、何れも仏書で名を広めた。古書を扱ふものに竹苞楼や細川がある。中で最も多く仏書を売るのは其中堂である。(東京の浅倉屋も森江も名があつたが、度重なる災害を受けて、昔ほどの蔵書がない。大阪にはひとり鹿田があつた)。》

柳は越中砺波の古寺で目にした色紙和讃(一枚おきに紙色が変る仕立てになった版本)にノックアウトされ、どうにかしてそれに類するものを見つけたいと京都を訪れていた。

《せめて室町末か慶長頃のものでも見出せまいか。今はもう稀な版本であるから無謀な求めと思へたが、再び若しやとも考へられて、次から次へと厭かず本屋を探つた。焼け去つた東京から来ると、京都の町々は物で埋もれてゐるほどに思へた。店々は美しく着飾つてゐるのである。書物も眼を忙しくさせるほどであつた。私は幾冊かのものを得たが、併し求める古書は容易に姿を現はさなかつた。
 だが如何なる宿縁によるのであらうか。之こそ奇縁と呼ぶべきであらうか。或は導きに依るのだと見るべきであらうか。求める者には与へられることが約されてゐるのか。既に授けられてゐるが故に、それを受けるに過ぎないのか。偶然なのかそれとも必然なのか。何れにしても思議を越える。私が夢に描いたその和讃が、突如目前に置かれるに至るとは。》

しかも値段は柳の支払える範囲の、どうして?と疑問を抱く程だった。

《だが果して私が求めたと云へるのか。誰かが私に求めさせてくれたのか。私が和讃を追つたのか、和讃が私を追つてくれたのか。「求めよ、さらば与へられん、叩けよ、さらば開かれん」と聖句は云ふ。併しもつと切な真理は、与へられてゐる世界の中でのみ求めてゐるのだと云ふべきではないのか。既に開かれてゐる扉を開きたいと希つてゐるまでに過ぎなくはないのか。得るものは一物もなく、贈られるもののみが凡てなのだと思ひ得ないであらうか。そこまで考へずば説き得ない謎である。》

こう考えて柳は宿命論あるいは運命論にたどり着く。すべて予定されていた宿縁だと。

《私はあり余るほど幸福なのである。かういふ本に廻り合はせてもらつたこと。こんなにも見事な本が存在することを知るに至つたこと。その美しさを感じる心まで授かつたこと。さうしてそれを求め得、座右に置くほどの恵みを受けたこと。それにこの悦びを頒ち得る多くの友達さへ与へられてゐること。いつでもこの本で日本の書物を語らせて貰へること。私は幾度となく厭かずその頁を繰つた。私は幾人かの親しい友人に報らせの筆を急いだ。さうして尽きぬ美しさの泉をそこに汲み、遂にこの一篇を綴るに至つた。》

気持ちは分かる。それにしてもこの舞い上がった調子は、やはり京都で古い絵画などを蒐集した岸田劉生にも通じる単純さがあって(首尾よく手に入れたときには「神様ありがとう」と日記に書くような)、ちょっとあっけにとられるくらいだ。

鶴見俊輔は《白樺派には書物蒐集家はいない》(『柳宗悦』)と柳が若き日に書物蒐集をした時期があったにもかかわらず、後年にはブレイクの影響から直観を重んじる方向へ転じたことを論じているが、本当にブレイクが柳をこれほど単純にしたのなら、それはまさに「神様ありがとう」と言わざるを得ない宿縁だろうと思う。


出典HP:http://sumus.exblog.jp/20884792
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2013年08月02日

民藝へのルーツは、父・楢悦にあり

柳宗悦の仕事を考えるとき父親である柳楢悦(やなぎならよし)のことを書かねばならない。目指した道は違えど、父である楢悦のDNAをいろいろな所で引き継いでいるからだ。

楢悦は津藩の下級武士出身だが10代の末には何冊かの著書があったという。また23歳のときに長崎の海軍伝習所の第1期生として派遣され、西洋数学、測量学、航海学などを学び、これが礎となって明治5年40歳のときに海軍大佐、9年に初代の水路局長となり、大日本水産会の幹事になるのである(大日本水産会では養殖真珠の発明家御木本幸吉と昵懇の間柄である)。また平清盛、夢窓疎石、松尾芭蕉、本居宣長など三重県は多くの文化人を排出し、伊勢神宮は有形無形に文化の息吹を感じさせる土地でもある。そのような土壌とは決して無縁ではない。

宗悦も年譜によれば12歳で学習院の中等科に進むと後の白樺派の同人、志賀直哉、武者小路実篤らと親交を結び、20歳でバーナード・リーチの陶器に惚れ込む。21歳で白樺を創刊、25歳でウイリアム・ブレーク(18世紀末から19世紀にかけて活躍した、英国の詩人であり画家)の評論を刊行するという、父楢悦と同じように早熟なのである。

柳の交友関係は、広く様々なヒトとの出会いが彼を一回りも二回りも大きくさせていくのだが、人生を決定づけたのは、やはりバーナード・リーチとの出会いではなかろうか。彼が若干20歳の時である。27歳の時の朝鮮旅行で北京にいたリーチと再会、翌年我孫子の庭内にリーチの窯と仕事場を作るが30歳のときリーチの窯を焼失、31歳のときリーチと妻兼子を伴い朝鮮に行き講演会と音楽会を開く。同じ年にリーチの帰英告別展を催す、という具合である。リーチとの交際は生涯続き、河井寛次郎や浜田庄司らとも繋がっていく。

彼の著書「民藝四十年/利休と私」の中で利休と遠州を激しく非難している。
柳本人は否定しているが、利休によって茶道そのものが駄目になったとも捉えられる表現をしている。一般的には、利休によって侘び寂びが成就されたわけだが、人間利休は俗な事が図々しく平気ででき、人一倍権力に固執したのだ。秀吉によって切腹させられたという歴史的事実は、兎角秀吉を悪者にしがちであるが、利休は秀吉との権力闘争に敗れたとみるのである。時の為政者と結びついた茶道は、所詮金持ちの道楽にしか過ぎず、茶道具全てが権威主義と化してしまった。云ってみれば利休や遠州によって確立された茶道は、宗悦にしてみれば反面教師であり、その事に対する反動が民芸運動に向かわせたのだろうか。

彼が民藝を通じて唱えたのは雑器の美、用の美、民藝の美である。彼は下手もの、つまり日々の生活の中で使われる雑器の中に自然で力強い、しかも美しさが宿る器を見いだすのだ。利休を非難するのは、利休によって見立てられる器は一瞬のうちに高額で価値のある鑑賞物に変貌してしまう。そこからは欺瞞で塗り固められた嘘の美しさしか見えてこない。美術品が一部の天才個人によって作られるのとは対照的に、無名の工人によって作り出される、日常使いの用の美の方がはるかに美しいとみるのである。

民藝という言葉の響きはなんとなく田舎臭い、泥臭いというところはないだろうか。私の生まれた宇都宮の近くには益子焼があり、その益子焼の中から民芸運動の旗手浜田庄司が出てくる。浜田の器は父が何点か持っていたので子供の頃にそれを見て育ったが、他の益子焼に比べて田舎臭いという印象はなかった。

日本の焼き物は、秀吉が文禄・慶長の役の時に連れてきた朝鮮の工人達によって大きく華開く。宗悦が朝鮮の器に魅かれて何度か朝鮮に行き、35歳の時に浅川伯教・巧等と京城に朝鮮民族美術館を開設する。日本の陶磁器の故郷は朝鮮に有りと云っても過言ではないのであろう。同じ頃に木喰上人を甲州の旅の途中で発見するが、この旅に宗悦を誘ったのが他でもない浅川巧みであった事は、単なる偶然で片付けられない何かがある。

木喰とは出家した僧が米野菜を食せず木の実山菜のみを食して修行する僧の通称で個人名ではない。二人いて五行という江戸後期の遊行造像僧で甲斐の生まれで名は名満。45歳で木喰戒を受け、千体造仏を発願し、円空と並び称される。その木喰上人の彫った像が生まれ故郷の甲州にあったのを見た宗悦が感動したのだ。木喰は宗悦によって世の中に出たと云っても良い。

この二つの出来事(朝鮮の陶器と木喰上人の仏像)は宗悦を急速に下手物への関心を深めるのだ。民藝の美とは雑器の美、用の美に他ならない。日常の中に美を見出す事の重要さがそこにあるのだ。

器は使ってなんぼのモノであろう。少なくとも飾って楽しむモノとは所詮住む世界が違うのである。日常的に使うモノの中に、自然と対峙できる本当に美を見つける事、が宗悦に課せられた定めであるという、宗教的な啓示が宗悦の中に常にあったのではないだろうか。現代でいうところのアートディレクターとして、宗悦の果たした役割は大きい。日常雑器や用としての美は、日の当たるところではなく、むしろ日の当たらないところでの仕事にその価値が光っている。それを見つけ、日の当たるようにすることがプロデューサーの仕事なのである。何時の時代もそのような人を求めているし、そのような人の出現を待っているのだろうか。

出典HP:
http://www.japan-premium.jp/column/col_009.html
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2013年07月27日

柳について岩波新書から新刊本

岩波新書より、7月19日に 『柳宗悦ー複合の美 』という東大出版会からだされた本がいよいよ新書版で出されることになった紹介がされていた。こういう夏の時期に嬉しいことなので、紹介したい。
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サブタイトルにある「複合の美」について、著者は柳の次のようなことばを紹介し、これこそ柳の全活動を貫く思想だと述べています。

  野に咲く多くの異なる花は野の美を傷めるであろうか。互いは互いを助けて世界を単調から複合の美に彩るのである

 いままで「民芸の柳」として語られることの多かった柳宗悦を、民芸を超えて多様な活動をした人物として、とりわけ「複合の美」を求めた平和思想家として描きだそうとした意欲的な一冊です。

 もちろん、柳の生涯、民芸の活動についても多くのことが書かれています。ぜひ書店で手にとってご覧ください。

(新書編集部 平田賢一)


■著者からのメッセージ

 柳は人であれ、地域、民族であれ、それぞれがもてる資質を最大限に発揮し、互いが互いを活かすことによって世界全体がより豊かになるよう願いながら、社会通念と闘い続けた思想家であった。そのような人物として、近現代日本の思想史上独自の位置に立ち、しかもその独自性によって、現代の問題に対しても多くの示唆を与えてくれる。暴力連鎖のやまない世界の現状から抜け出す方法を模索したいと考えるとき、あるいは人心の荒廃した現代社会のなかで、質の良い人間関係を取り戻したいと願うとき、柳の生涯から学べることは、きわめて多いのではないか。

(本書「まえがき」より)


■著者紹介
中見真理(なかみ・まり)1949年東京生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士課程(外交史・国際関係論)単位取得退学。現在、清泉女子大学文学部教授。専攻は、国際関係思想史。
 著書に、『柳宗悦 時代と思想』(東京大学出版会、2003年:同韓国語版、金順姫訳『柳宗悦 評伝:美学的アナキスト』ソウル:暁享出版社、 2005年)、 In Pursuit of Composite Beauty: Yanagi Soetsu,His Aesthetics and Aspiration for Peace (Trans Pacific Press & University of Tokyo Press,2011)

 主要論文に、「清沢冽の外交思想」(『みすず』19-7、1977年7月)、「太平洋問題調査会と日本の知識人」(『思想』728、1985年2月)、「日本外交思想史の研究領域を考える―戦後日本の平和論を問題にしつつ」(『年報近代日本研究』10、1988年)、「ジーン・シャープの戦略的非暴力論」(『清泉女子大学紀要』57、2009年)。

出典:
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1307/sin_k718.html

 
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2013年07月10日

柳宗悦@京都大学大学院文学研究科・文学部hp

京都大学大学院文学研究科・文学部 の思想家紹介「柳宗悦」のページは略歴が手際和よく分かり易い。
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-yanagi_guidance/
他に、柳思想、参考文献などが纏めてあるのを、上記HPで確認できる。

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1889(明治22)年、柳宗悦は東京市麻布区市兵衛町二丁目十三番地に貴族院議員である柳楢悦と母勝子の三男として生まれる。父は彼が幼少の頃に亡くなったが、父の残した莫大な遺産によって何不自由なく成長し、学習院初等科に入学。中等科に進む頃に、後に共に雑誌『白樺』を創刊する志賀直哉や武者小路実篤らと知り合い、生涯の友となる。更に学習院高等学科では、鈴木大拙や西田幾多郎に学び、1910(明治43)年、無事高等学科を卒業後、東京帝国大学文科に進む。また『白樺』はこの年に創刊される。

東京帝国大学で哲学を専攻した柳は、当初、宗教に深い関心を示していたが、ウィリアム・ブレークに興味を持ったのをきっかけに、宗教と芸術の関係に関心を持つようになる。1913(大正3)年、東京帝国大学卒業後、声楽家の中島兼子と結婚し、千葉県我孫子へと転居する。その後、我孫子へは志賀やバーナード・リーチも転居し、白樺同人もしばしば訪れたために、さながら芸術家コロニーのようであったという。

1919(大正8)年、『宗教とその真理』を刊行、四月に東洋大学教授となる。朝鮮の美術に関心を持っていた柳はこの頃盛んであった朝鮮の独立運動に関して日本の朝鮮政策批判の文章を書いている。更にこの後数年にわたり、しばしば朝鮮を訪問し、「朝鮮民族美術館」設立を計画、1924(大正13)年完成にこぎつけた。

1924(大正13)年、前年の関東大震災で被災した柳は一家で京都へ転居する。そこで濱田庄司を介して河井寛次郎を知り、しばしば三人で京都の市に出向く。そこで発見した古い器や着物、いわゆる「下手物」が後の民藝思想へと繋がっていく。  またこの年、甲州で木喰仏を見て、研究を初め、翌年1925(大正14)年、『木喰上人之研究』に多数の論考を発表。

1926(大正15/昭和1)年、河井・浜田と高野山で民藝の運動について話し、その後『日本民藝美術館設立趣意書』を発表、さらに『越後タイムス』に「下手ものの美」を発表。この頃から柳の民藝運動が始まる。

1929(昭和4)年、『工芸美論』刊行、さらに1931(昭和6)年、月刊雑誌『工藝』を創刊。この頃、頻繁に民藝品収集のため日本各地を旅する。1934(昭和9)年、日本民藝協会を設立、会長に就任し、同年十二月『美と工藝』を創刊。1936(昭和11)年、大原孫三郎の援助などにより日本民藝館が完成する。

1938-39(昭和13-14)年にかけて沖縄に滞在し、豊かな沖縄の民藝を知り、その紹介と保存に尽力する。また当時沖縄でなされていた本土への同化政策(具体的には標準語欣行運動)に批判的立場をとり、その後の沖縄方言論争を巻き起こすことになった。

1949(昭和24)年、『美の法門』を上梓。その後も活発に著述、調査旅行を行うが、この頃からリウマチと心臓の不調に悩まされるようになり、1961(昭和36)年、72歳で没する。
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2013年06月18日

感動! 映画「道 −白磁の人ー」が出来るまで

昨年、信州の浅川兄弟記念館に行きましたが、朝鮮と関わった兄弟を郷土の誇りとして顕彰する記念館をつくり、映画を作ろうと、市議会が友好訪問をして、ソウルの墓参をしており、我孫子の歴史認識とは数段上なのでした。
どっちが田舎か都会か、というと田舎はけして田舎者ではないということでした!?

実のところ、自治体などの事業の際はに”朝鮮”となると警戒感を持つのも事実あるようなのようです。
また思わぬ、面白くないとの批判、バッシングがおきるらしいのです。

しかし、今回のこの映画には、中曽根元総理も映画評を下記のように寄せています。
「日本と韓国を真剣に考えさせられました。韓国伝統文化へ敬意を表して作られた映画でもありました。
非常に感動しました。 中曽根康弘 」


早稲田大学の学生たちがサポートしている事がフェイスブックから分かりましたが、これも丹念にしていかないと分からないのです。http://hakujinohito.com/comment.html


我孫子で、柳宗悦が浅川兄弟とどのように知合い、人生の深い関わりを持つかも、映画HPのストーリー解説を読むと興味が湧きます。クリックすると丁寧がストーリー解説の項があるのに、一般にはそのHPにアクセスが分かりにくいです。http://hakujinohito.com/story.html

私も論文作成のためにかなり、柳宗悦・柳兼子の本を読みましたが、この映画にあることは知らないことも多くあり、柳夫妻が終生にわたり朝鮮の白磁の壺を大事にし、その浅川巧に思い入れしていく背景詳細がさらに呑み込めてきました。お陰でさらに柳の行動が理解できるようになりました。我孫子に居たあの時期に浅川らとの出会いが柳という宗教哲学者を東洋へ目を向けさせて、アジアの歴史の中へ引っ張り込み、民芸運動になっていく、柳兼子が芸術家としての心を高めていく時期だったのかな、と。

凄い夫婦愛、優れた仲間が、我孫子にいた時期に、高い理想と志を持ち、関東大震災、世界大戦を経ても、絶えることがなかった。それは、我孫子での日々の偶然の重なり、この地のもつ力であったからでは、と思うのですが、それは論文仮説でもあります。
 
「早稲田大学アジア研究機構、平山郁夫記念ボランティアセンター共催のもと、早稲田大学大隈講堂にて特別試写会を実施しました!当日は、浅川巧役の吉沢悠、高橋伴明監督が登壇。途中、韓国からの留学生ユン・ジョンミンさんによる「浅川巧という人から学ぶ」をテーマにしたプレゼンテーションでは、日韓交流の先駆けとして知られる浅川巧の考え方を参考にした、日本と韓国の学生による様々な取り組みが発表され、お二人も撮影現場での韓国キャスト・スタッフとの交流エピソードで盛り上がりました。」

多くの人、過去に関心の薄い若い人にも、今、大変なこの日本だから見て欲しいと思います。皆様もご覧になり、是非、ご意見くださいませ。そして、口コミ、メール拡散して下さい。 


----- Original Message -----
Sent: Sunday, June 17, 2012 9:07 PM
Subject: 「白磁の人」評


参考までに。

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「白磁の人」上映館の情報、どうもあ りが とうございます。
実は昨日、治療で東京に行った際、日比谷スバル座で見てきました。

浅川巧というピュアな精神の持ち主が、朝鮮人蔑視の風潮、それに対抗する支配民族への敵意といった、様々な想念に巻き込まれ埋没することなく生を全うしていく姿には感動します。
それに加えて、日朝の近代の歴史をこれほど正面から扱った日本映画はこれまでなかったと思います。その意味でも画期的ですね。
朝鮮人のかつての日常生活も良く描かれており、こんなことも自分は知らなかったのか、と思いました。お隣の国なのに、子供のころからの親しい友人が在日でもあったのに、です。

惜しむらくは、もっと多くの人、特に若い人に見てもらいたいものです。
平日なので閑散としてるのは仕方ないにしても、若い人が一人もいなかったのはガックリです。
(学生の一人くらいいると思ったのに!)
もう一つ、柳宗悦が登場するのですが、存在感が希薄だったかなあ。
役者の能力というよりは、柳という人間自身が少々わかりにくく、どう演技していいものか
混乱したまま、という印象でした。

以上、感想でした。お勧めです。
上 映館

ps.この春、『灼熱の魂』という映画を見た後、しばらく席を立つことができない経験を久しぶりにしました。
  「白磁の人」は浅川巧という歴史上の人物を中心に日朝の民族間の問題も照射していますが、灼熱の魂』は中東が舞台です。つま り、宗 教間の軋轢、憎悪に巻き込まれた人間の物語で、子を思う母親の底知れぬ愛がその想念を飲み込むかのようなお話でした。
  ただし、一神教世界のことですので、その現れ方は極めて過激です。
  洋の東西の違いはあるのですが、ちょっとデジャブのような感覚を覚えました。
  こちらもお勧めです。ただし、この映画は特にストーリーを事前に知ってはいけません。
  今は浦 和でやってるようです。
  
posted by その木なんの気、柳の気 at 10:43| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月07日

白樺コロニーの立役者、柳宗悦

 志賀もリーチも武者も、三人ともが柳の勧めで我孫子に住まうことになった経過を辿ってみると、勧められた側の事情よりも勧めた側の柳のほうに強固な意志があったことに気づかされます。

 住んでみてますます手賀沼の自然に魅せられた柳は、確固たる設計図をもって、計画的に仲間を呼び寄せたのではないか、というのが私の推測です。それは知的生産者のギルドともいえるもので、始終顔を合わせることによってお互いが刺激を受け切磋琢磨して向上するという狙いを秘めたものでした。のちに柳の主唱によって発足した上賀茂民芸協団の原型は、ここにあったといえるかもしれません。

 柳は心憎いばかりの緻密さで計画を推し進めます。まず志賀をターゲットに定め、悶々としている時期を見計らって赤城山中まで訪ねて行きます。漠然と「我孫子に来いよ」というのではなく具体的な物件(「いい家」)を携えて行くことで志賀の決断を促し、実務的な仕事を全部引き受けることによって志賀の心変わりを防止します。
 リーチにも同様に、悩んでいる時期に北京まで出向いて具体的な条件(「僕の庭に窯を築いて」)を提示し、「志賀も来ることになった」と殺し文句を付け加えます。
 「志賀も来ることになった」という台詞は武者にも言ったはずで、ここでも、「志賀の隣に空き地がある」と具体的条件を示すことによって選択肢を狭めているのです。
 柳は、よほど嬉しかったのでしょう、三人の招致に成功したとき『白樺』大正五年十一月号(「編輯室にて」)に、「我孫子も之で四人になった。志賀と無車とリーチと自分と。また他の同人が来れば楽しみだ。此頃の我孫子は美しい」という一文を載せています。

 とはいえ、きわめて個性豊かなこの三人がまんまと柳の計画に乗せられたのは、柳の類稀なき人となりにあるといって過言ではないでしょう。柳は志賀より六歳下、武者より四歳下、リーチより二歳下でありましたから、なおさらの感がするのです。
 いかにも学習院銀時計を彷彿とさせる端正な顔立ちと怜悧な文章に接すると、どこか近寄り難い雰囲気を感じてしまうものですが、柳宗悦という人は、実際は、とてもあたたかい人だったようで、個性豊かな『白樺』の同人たちがお互いにくりかえしけんかをして絶交状をやりとりしているなかで、「柳宗悦に絶交状をおくったとか、柳宗悦から絶交状をもらったとかいう話は、すくなくとも私の読んだかぎりでは一度も出てこない」と、鶴見俊輔氏は記しています(『柳宗悦』)。

 特筆すべきは、あの癇癪持ちの志賀が、「五十五、六年の交わりではあるが、不思議に柳と私は一度もけんかをしたことがない」と柳への追悼文の中で述べていることでしょう(『柳宗悦の遺産』)。生来の不愉快人間である志賀は、何かというと「絶交」を宣告するのが得意だったようで、父との絶交状態のさなか最中にもあの有名な里見クとの絶交事件を起こしています。生涯の親友であった武者とさえ、「五十九年、親しい交わりをして来たが、その間には何遍か喧嘩もした」と言っていますし(『武者小路と私』)、事実、長与善郎の紀行文を巡って武者と論争になった直後、日記に「殺す事を思う」と書きつけたほどの憎悪を燃やしたこともあったのでした。その志賀が「一度もけんかをしたことがない」というのは、柳の人となりを語って余りある言葉でしょう。

 もっとも、兼子夫人によれば、柳という人は外面(そとづら)はよくても内面(うちづら)はずいぶん「怖い人」だったようで、下町言葉をとがめられて一晩中寝させてもらえなかった事件をはじめ、頭から叱られたことはしょっちゅうだった、といいます(「兼子夫人に聞く」)。思えば、志賀の康子(さだこ)夫人に対する仕打ちなどははるかにひどいものだったし、里見クの妻に対する侮蔑の態度などをみても、この時代の亭主関白なるものはこんなものであったのかもしれません。

 四人がそろったあとはご存知の通りの展開で、武者と志賀は毎日のように柳を訪れ、リーチを交えて文学論、芸術談義に興じます。武者は「新しき村」発足のため僅か一年九か月で、リーチは窯の焼失により二年六か月で我孫子を去りますが、この時代、柳の言う「吾々のコロニー」が我孫子に誕生したのでした。
 連日連夜交わされる知的会話の中で、四人はそれぞれ刺激を受けて創作活動を高めていきます。柳は宗教哲学論を立て続けに発表し、白樺美術館建設を企て、東洋美術への関心を深めます。リーチは陶芸に没頭し、訪ねてきた浜田庄司を識って啓発されます。武者は「新しき村」の構想を固めて入村者の募集をはじめます。

 最も効果の著しかったのが志賀で、『児を盗む話』以来、三年余のブランクを経て『城の崎にて』を『白樺』(大正六年五月号)に発表し、以後、『赤西蠣太』『和解』『暗夜行路』などの代表作をものすることになるのです。

 我孫子を去るにあたって『白樺』(大正十年四月号)に寄稿した「我孫子から」の中で、柳は、手賀沼の自然を讃えたあとで再びこう記します。
 「然し自然のみではない。ここに来てから友達とも離れられない間柄になった。一時は我孫子は吾々のコロニーになった。自分が来てから一年の後、志賀がここに移り、又一年して武者、リーチが加わり、それから木村(荘太)、清宮、その他の画かきや創作家が度々ここへ住んだ。吾々は殆ど顔を合わせない時がなかった。吾々はよく一緒に食事をとった。」

 実際は、吾々のコロニーに「なった」わけではない……柳が吾々のコロニーを「つくった」のです。そのおかげで、我孫子は近代文学史、あるいは近代陶芸史に名を残す土地になったのでした。柳宗悦は、コロニーをつくったばかりでなく、我孫子にいまなお近隣市町村から羨ましがられる「クール」をも残してくれたのです。

出典: 『蘆の髄より』(楫西 雄介/著 )より抜粋
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2012年11月05日

混沌の現在を維新前後から読み直す トークセミナー


混沌の現在を維新前後から読み直そう 
〜東葛から未来への発信〜


日時:12月9日(日) 2〜3時  (開場1時半より)
場所:けやきプラザ(8F)第1会議室
期日前投票所となったため、会場を変更となりました。
   詳細は、お問い合わせください。


講師:徳川文武
‐プロフィール‐  松戸徳川家3代目当主。
            最後の将軍徳川慶喜の弟で水戸藩主の昭武の曾孫。
            早稲田大学理工学部、スタンフォード大学工学部修士。
            長年、米国シリコンバレーにてエンジニアとして勤務。
     松戸国際交流協会名誉顧問など歴任。 


東葛地域には、松戸に徳川家にゆかりの戸定邸(徳川昭武公の別邸)があります。お屋敷は、戦後に松戸市に寄贈、国・重要文化財となっています。昭武公は幕末にパリ万博の使節団として渡仏し、日本の美術工芸品はジャポニズムの機運を起こす人気を得ました。随行者には、渋沢栄一などの若者たちが抜擢され、後に大活躍しました。
ふたたび「維新」がキーワードにされるこの頃、歴史や社会を読み直す機会にしようと、松戸徳川3代目当主を講師にお招きし、トークセミナーを開催いたします。
是非、お誘いにてご参加ください(無料)。

定員 20名   お申込み:Tel/Fax 7184-9828(海津) 

*布佐・井上邸(国・登録有形文化財)の市への寄贈が決まったこの時期、希望者はセミナー後にご一緒に見学も予定。 なお、この際の交通費、井上邸入館料は自費となります。
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2012年11月03日

柳兼子、ドキュメンタリー映画の上映会

日本の民藝の租・柳宗悦氏の夫人の柳兼子さん(1982〜1984)についてのドキュメンタリー映画を一緒にみませんか。ドキュメンタリー映画を見た感想も語りあいたいと思います。12月1と2日の2日間は、市民活動フェスタという市内の市民活動グループが一同に会して活動の紹介、会員募集をしています。どうぞ、お気軽においで下さい。

 
映画『兼子』上映会(80分、カラー)
●参加費:無料 
●アビスタ ミニホール
● 12月1日(土) 10:30 ー12:00
  12月2日(日) 12:30−14 : 00

●お問い合わせ:04-7184-9828(ACT 柳の会)


<映画の内容>
白樺カレーのレシピを考案したとして知られるようになってきた柳兼子さんは、「声楽の神様」とまで言われた日本有数のアルト声楽家でした。また、明治・大正・昭和を生きた音楽活動そのものが「わが国の生きた音楽史」ともいわれています。
どこからの要請であっても軍歌は一切歌わなかった、自分の意にそわない歌は歌わないと徹していたので、舞台に立たない時期もあったが、代りに庭に花を植えていたといいます。当時は、花を植えるなども非国民と言われた時代で、庭の垣根沿いに見えないところに植えていところたら、若くして出征する兵隊が仲間に声をかけて、「おい、いい匂いがする花が咲いているよ」と喜んでいる声が垣根ごしに聞こえたとのエピソードも語っています。「戦時中にした、いいことと言ったら花を植えたことかしら」という柳兼子さんの生き方、なんと、87 歳まで現役の歌手として活躍しました。
映画では、兼子さんの歌声を織り交ぜながら、夫となる柳宗悦との出会いなど、兼子の人間性に迫る作品となっています。夫の柳宗悦の白樺派の文化活動、民芸運動にも声楽家として協力、経済的にも大きく貢献しました。一方、母としても、立派に3人の子供たちの養育に力をそそぎました。兼子さんを知る20人のインタビューを中心に描き出される映像は、激動の時代を生きた一人の女性の心の軌跡です。この歌手が歴史の陰に埋もれることのないよう、一人でも多くの人が兼子さんの歌を聴き、自分の耳でその素晴らしさに触れていただくよう、第一回の上映会です。

*柳宗悦と兼子さんについて、色々な人がブログに書いていたものの総集編をつくりました。
我孫子と柳夫妻のことが一杯です、検索してみてください。      http://testxmobile.seesaa.net/index-2.html
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2012年10月12日

白磁の人 映画評

ストリー
http://hakujinohito.com/story.html

http://hakujinohito.com/images/sub/cc1.png

ペ・スビンさん(チョンリム):
脚本を読んで、衝激的な実話だと知り、やならくてはいけない映画であると感じた。沢山の人に見てほしい映画です。」

日本と韓国を真剣に考えさせられました。韓国伝統文化へ敬意を表して作られた映画でもありました。
非常に感動しました。 中曽根康弘(本内閣総理大臣)

胸に響く映画でした。日韓がもっと友好になることを願っています。(43歳 女性)

実話とは信じられない。感動しました。
主演の二人の演技が素晴らしい。(35歳 男性)

浅川巧は「わたくし」のない人。
普段から朝鮮服を身につけ、光線料理を食べて、朝鮮語をマスターし、朝鮮の人から慕われた人
民族の壁を越えた友情。
緑化運動に成果を上げるかたわら半島各地を歩き、民衆のにち城を使って道具に健康な美を発見します。
白磁のような澄んだ心になれます。素晴らしいヒューマンストーリーに感謝致します。
浜美枝 (女優・ライフコーディネーター)



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2012年08月24日

『回想の柳宗悦』

「(前人がつけた)道を歩かなかった人。歩いたあとが道になる人。これが柳」 河井寛次郎 

http://morisu-ssg.org/%E6%9F%B3%E5%AE%97%E6%82%A6/

受験生の中で柳宗悦の名前を知っている人が、どれくらいいるだろうか。恥ずかしながら、僕自身は知らなかった。しかし五千円札になって初めて有名になった新渡戸稲造同様、もっと日本人が知るべきインターナショナリストだと思う。 欧米人に劣等感や被圧迫感を持たず、朝鮮人に対して優越感や支配者意識を持たない、戦前戦後の日本人珍しい人物だった。

 民芸運動としたが、宗教哲学者でもある。
 しかし柳は、西洋文明を否定していたのではない。それどころかわずか26歳で『ヰリアム・ブレーク』という英文学研究史上に残る作品を書き上げている。柳が朝鮮人に対して差別意識を持たなかったのは、朝鮮の工芸を美しいと感じ、それを産み出す人々を敬愛したからであった。特に三・一独立運動(万歳事件)(1919)について新聞に連載した『朝鮮人を想う』を見ても、柳が常に自分を朝鮮人の立場に置き換えて、日本の植民地政策に憤りを感じていたことが分かる。

 この姿勢は、アイヌ文化や沖縄文化に対しても貫かれている。満州事変(1931)が勃発すると、沖縄やアイヌの人々に対する「ヤマト化政策」が強化されていった。柳は「他府県では行われない標準語奨励の運動を、なぜ沖縄でのみ行うのか。何か沖縄の言語を野蛮視しているのではないか。」とこれを批判し、日本国内の異質なものを尊重せよと主張した。
 柳は東洋と西洋、中央と地方(方言の価値を含む)を対等に見ていた。『朝鮮人を想う』の連載の最後に、彼はこう結んでいる。

「 朝鮮の人々よ、よし余の国の識者の凡てが御身等を罵り又御身等を苦める事があっても、彼等の中に此一文を草した者のゐる事を知ってほしい。否、余のみならず、余の愛する凡ての余の知友は同じ愛情を御身等に感じてゐる事を知ってほしい。かくて吾々の国が正しい人道を踏んでゐないと云ふ明らかな反省が吾々の間にある事を知ってほしい」

 戦後になってからでもいい。この言葉と認識を、もっと多くの日本人がはっきりと持ち、口にしていたなら、21世紀の今になってなお、日韓の高校生の間にまで溝を残さずに済んだように思う。  
posted by その木なんの気、柳の気 at 03:49| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月09日

大原孫三郎と柳宗悦

民芸への着目・蒐集という点では大正半ばから始まっていたのだが、大正15年、柳宗悦、河井ェ次郎、濱田庄司等とともに日本民藝美術館設立計画に参画。1928(昭和3)年、御大礼記念国産振興博覧会会場に民藝運動の同人と諮(はか)り「民藝館」を落成される。これは都市に住む中産階級に新しいライフスタイルを提示するためのモデルルームで、その什器には同人作家の品や日本各地で作られた民藝品が選ばれた。また、この頃柳は再建中の東京帝室博物館に対して、蒐集した民藝品の寄贈と展示室の設置を申し入れている。しかし、この提案はあえなく断られて、これを機に、官に頼らない美術館設立の決心を固めることとなった。なお、1929年に訪れたスウェーデンの北方博物館も、柳の美術館構想 に大きな影響を与えていった。

博覧会終了後、民藝運動の支援者であった実業家の山本為三郎がこの建物や什器を買い上げ、大阪・三国の山本為三郎邸内に移築して「三国荘」とした。以後この三国荘は、東京駒場に民藝館が建設されるまで、民藝運動活動の拠点としての役割を果たした。そして、大原孫三郎との出会いから2 年後、日本民藝協会−柳が会長に就任−が1934年に設立された。そのさらに2 年後、日本各地から蒐集した民芸を展示する日本民藝館を大原孫三郎をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、1936年(昭和11)、自邸隣に日本民藝館を開設した。

もっとも、柳の美術館設立の夢は、早くは1917年に発表された白樺美術館建設計画であり、柳は『白樺』同人としてこの活動の中心メンバーとなり活動。施設の完成までには及ばなかったが、私設美術館の先駆けとなった。

柳が日本民藝館設立の構想計画を初めて実際に語ったのは、1926(大正15)年に河井寛次郎、濱田庄司と出かけた高野山の山寺でのことでした。柳は、それより2 年前に淺川巧と共同して韓国のソウルに李朝の民芸品を展示する「朝鮮民族美術館」(現ソウル)を1924年設立していた。「朝鮮民族美術館」は朝鮮王朝の王宮であった景福宮内に開設した。これは主として朝鮮時代に作られた無名の職人の手になる民衆の日常品の美を紹介するための小規模な美術館で、当時、価値が全く認められていなかった李朝の白磁や民画などの価値を見出した柳には、日本民藝館の原点ともいえる存在である。

このような希望を抱いてから民藝館が実際に出来上がるまでの経緯について、柳は次のように回顧している。「吾々が發願して此の仕事の端緒についたのは大正十五年のことでした。趣意書を印刷し吾々の目的を公開しました。早くも多くの既知未知の友から好意ある援助を受けたのです。かくして諸國に蒐集の旅を重ね、先づ展覧會を介して其の結果を世に問ひました。又文筆の道で吾々の見解を述べ、圖録を通して民藝が何であるかを語りました。月刊『工藝』も同じ要求から生れ、逐次號を重ねて行つたのです。かくして凡そ十ヵ年餘りの準備時代が過ぎました。遂に民藝館設立が具體化されたのは昭和十年の秋十月でした。之は全く大原孫三郎翁の好誼によるものであることを銘記せねばなりません」、「館が遂に建つに至つたのは、社會事業に熱意を持たれた故大原孫三郎翁から、金拾萬圓の寄贈を受けたことによります。・・・當時、この金額は實に敷地を購ひ、建物を設け、調度を整へるのに足りるものでありました。・・・是等のことに關し一切の自由を私共に與へられた大原翁の寛容に深く感謝せねばなりません」との見解を柳は示している。また、「何たる幸なことであらうか。それは昭和十年五月十二日のことであつた。その頃漸く建て終つた私の家を見にこられた。それは野州地方でのみ發達した石屋根の建物で、もと長屋門として用ゐられてゐたのを移したのである。その折共に集つたのは山本為三郎、武内潔眞、濱田庄司、バーナード・リーチの諸兄であつたと記憶する。卓を圍んで談が偶々民藝のことに及んだ時、大原氏から次の様な意味のことを話し出された。『十萬圓程度上げるから、貴方がたの仕事に使つて頂きたいと思ふが、凡そその半額を美術館の建設に當て、殘りの半分で物品圖書などを購入せられてはどうか』。その折の大原氏の慇懃な言葉と、盡きない好誼とに對して、私達は充分な辭さへなかつた。私達が永らく希願して止まなかつた一つの仕事が、これによつて實現せられるに至つたのではないか」というように、柳はその時の状況を詳細に描写もしている。

大原美術館に入ると「受胎告知」や教科書で見た事のある作品や柳宗悦に「もう教える事はない。」と言わしめた棟方志功の「釈迦十大弟子」がある。また、大山崎山荘美術館は、移り平成に入り、天王山麓の大規模開発が計画され、付近の環境破壊が懸念された。天王山周辺地域の景観を保全したいという地域の方々の熱意に応え、京都府が大山崎町、アサヒビールの協力を得て加賀正三郎の山荘を保存することとした。山本為三郎が日常の暮らしにもって親しく愛用したもの(山本コレクション)の多くは、こうした作家との交流の中から蒐集したもの、また柳宗悦の優れた審美眼をもって、朝鮮の民族文化に対する深い理解者であった浅川伯教・巧兄弟が山本の支援により調査中蒐集した古陶磁である。

*山本為三郎は、朝日ビールの初代社長。


出典;
大原孫三郎の民芸支援
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28555/19/Honbun-4336_17.pdf
日本民芸館HP
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2012年06月01日

柳宗悦、朝鮮美を見出した人

 柳宗悦(1889〜1961)は日本民芸運動の創始者、日本民藝館の開設者である。20歳の時、神田の骨董店ではじめて朝鮮白磁を見て、その芸術の優秀さ、美に魅せられ、72歳でこの世を去るまでの生涯を、朝鮮を愛しつづけた日本の良心を代表する数少ない知識人の一人である。

 陶磁器をはじめ朝鮮の芸術品を愛した彼はその作者である朝鮮人、朝鮮民族を尊敬し、朝鮮を限りなく愛した。幾度となく夫人を伴って朝鮮を訪問した彼は「朝鮮に住みたい」とまで講演会で述べている。

 柳はただ朝鮮をこよなく愛しただけではなく、多くの著作と芸術品収集等の活動によって朝鮮と日本の関係史に多くの業績をのこした。その業績を4つに大別して述べてみたい。

 第一に、柳は日本の朝鮮支配、植民地化は不当であると反対し、正義の言論を行なった。そして朝鮮民族を抹殺する同化政策を徹頭徹尾批判したことである。

 1919年、朝鮮全土で朝鮮人民の3・1独立運動が起きた。「独立万歳」を叫ぶ平和的なデモであったが、日本は軍隊まで動員して苛酷な弾圧をおこなった。日本の侵略と暴虐行為にたいし、日本の一般大衆はもちろん、知識人も沈黙していた。「黙している事が私には一つの罪と思えた」という柳は、当時の「読売新聞」に論文『朝鮮人を想う』を発表して、日本の罪行を告発した。

「先ず彼等から奪ったものは軍隊であり、我々から送ったものは彼等のでない我々の軍隊であった。我々は先ず永遠の独立を彼等に不可能ならしめる固定した方法をとった。」

 「日本は不幸にも刃を加え罵りを与えた。之が果たして相互の理解を生み、協力を果たし、結合を可能にするだろうか。否、朝鮮の全民が骨身に感じる所は限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。独立が彼等の理想となるのは必然な結果であろう。」

 柳はその後の論文「朝鮮とその芸術」で朝鮮は独立すべきであり、日本の同化政策は間違いであると次のように批判した。

 「2つの国にある不自然な関係が正される日のくることを切にねがっている。正に日本にとっての兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも日本にとっての恥辱の恥辱である。」

 「朝鮮固有の美や心の自由は他のものによって犯されてはならぬ。否、永遠に犯されるものではない真の一致は同化から来るものではない。個性と個性との相互の尊敬に於いてのみ結ばれる一があるのみである…」

 柳のこのような発言は日本の官憲から睨まれることになり、私服刑事が家の周辺をうろつき、つねに監視された。

 第二に朝鮮の芸術品の美を発見して、その優秀さを賞賛するだけでなく、ひろく内外に紹介した。

 当時、多くの日本の知識人は朝鮮の芸術は中国の模倣であるといった。それにたいして柳は言う、

 「朝鮮の美は固有であり独特であって、決してそれを犯す事は出来ぬ。疑いもなく何人の模倣をも又は追随をもゆるさぬ自律の美である。只朝鮮の内なる心を経由してのみあり得る美である。私は朝鮮の名誉の為にもこれ等のことを明晰にしたい。」(『朝鮮の友に贈る書』)

 「日本が国宝として世界に誇り…国宝の国宝とよばれねばならぬもの殆ど凡ては、実に朝鮮の民族によって作られたのではないか…正等に言えば朝鮮の国宝とこそよばれねばならぬ。」(『朝鮮の美術』)

 彼はそのあかしとして法隆寺の「百済観音」、「玉虫厨子」、広隆寺の「弥勒菩薩」をあげ、奈良正倉院に伝蔵されている古作品の「大部分は恐らく朝鮮から伝来したものであろう。」推古の黄金時代の日本は「朝鮮の美で飾られていた」といい、朝鮮の芸術は「世界の最高の栄冠を戴く」と賞賛もしている。

 第三に光化門を総督府の破壊から守り、散逸していた朝鮮の美術品を募集して「朝鮮民族美術館」を開設して、これを保存した。

 柳は景福宮の前に立つ歴史的建造物である光化門を総督府が破壊する計画を知り、抗議文「失われんとする一朝鮮建築のために」を書いて内外に訴えた。これが功を奏して、光化門は破壊を免れ、移転保存されることになった。

 柳はまた、陶磁器、仏像、木工品、民画、民芸品等の貴重な芸術品が朝鮮から散逸していることに心を痛め、私財を投じてこれ等の芸術品を集め、当時朝鮮林業試験所に技師として勤めていた淺川巧の協力を受けて、1924年ソウルに「朝鮮民族美術館」を開設した。総督府は「朝鮮」という文字を看板から抜くように迫ったが、柳は最後まで抵抗して、「朝鮮」を守った。柳が集めた芸術品は現在、韓国国立博物館に保管されている。また、柳はこの経験を生かして、日本に民芸運動をおこし、12年後の1936年東京に日本民藝館を開設した。一室には朝鮮の芸術品が常時陳列されている。

 第四に21回にわたり朝鮮を訪問し、多数の朝鮮人と接触して文化交流、心の交流を行なった。

 朝鮮人に対する日本人の蔑視、偏見、差別意識が社会全体をおおっていた1920年代、柳は自宅に常に4、5人の朝鮮人留学生を下宿させていた。兼子夫人はソプラノ歌手で何回か朝鮮の地で独唱会を開き、収益金を柳の芸術品募集に当てた。1921年5月5日の東亜日報は次のように伝えている。

 「朝鮮人を本当の心で愛する人は東洋大学教授の柳宗悦である。また豊かな、円熟した技芸を持つ…柳兼子氏はその夫人である。…朝鮮の友である彼らは、朝鮮を愛し、朝鮮の美術を愛するので…民族の命が流れる古代美術品が朝鮮から流失することを誰よりも惜しく思って、朝鮮民族美術館をたてた。」

 柳の朝鮮観にはもちろん、「独立のために革命をしてはならない」等の思想的な限界もみられる。しかし、当時、植民地となった朝鮮民族にとってはまさに暗黒の時代であった。「民族」を否定され、日本帝国主義の暴虐に訴えることもできなかった朝鮮人にかわって、柳が勇気ある正義の発言をしたことや、朝鮮の芸術品の優秀さ、美を発見し、世界に紹介したこと、朝鮮人と心からの交流をしたことなどは、彼の思想的限界をはるかに超える立派な行動とし、高く評価されるべきであろう。

 韓国の詩人崔夏林は柳のヒュ−マニズムは「1920年代の朝鮮人にとってそうした悲しさを慰めてくれた存在であったが、独立国家の主人となった今日のわれわれにとってはもはや必要もない。」と批判した。はたしてそうであろうか?在日朝鮮人の私としては肯定しがたい。

 在日同胞が蔑視、偏見、差別がいまだ残っている日本の中で朝鮮人としての誇りと自覚をもって生きるためには、民族文化を理解し、朝鮮人に敬念と情愛をもって接してくれた柳のような日本人は植民地時代だけでなく、依然として今日も貴重な存在である。

 2002年の朝・日首脳会談後、マスメディアによる北朝鮮たたきが執拗にくりかえされ、とどまるところを知らない。日本国民のなかに蔑視、不信、嫌悪感といった反朝鮮感情が増幅されている。また、大物政治家による植民地支配を正当化する妄言がくりかえされ、朝鮮民族の尊厳を傷つける発言まで公然と行われている。多くの良心ある日本の知識人は沈黙している。

 このような時こそ、1920年代の厳しい状況下で朝鮮を愛し、朝鮮民族の尊厳を守るために体を張って行動した柳宗悦の人間的な器の大きさが改めて認識されるのである。

鄭 晋 和 (歴史地理学部 五期生)元 歴史地理学部教授

*本稿は『丹青』第二号所収の論文「柳宗悦の朝鮮観の考察」を鄭晋和先生によって大幅に集約し掲載したものである。
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2012年05月31日

映画「道 〜白磁の人〜」 

我孫子文化講演会
 映画「道 〜白磁の人〜」 の歩みと想い

 http://hakujinohito.com/index_kr.html
   ↑クリックすると映画が動画で紹介が見られます


講演の講師:李 春浩
     映画「道〜白磁の人〜」上映をすすめる会副代表
     元カメラマン

日 時 7月29日(日)16:00〜
場 所 我孫子アビスタ 1階 ホール
資料代 500円

6月封切の日韓合作映画「道〜白磁の人〜」は日韓友好に人生を捧げた浅川巧を描いたこの映画の完成として、大きな反響を呼んでいます。
我孫子ゆかりの柳宗悦と浅川巧は、互いに朝鮮の陶磁器の魅力にほれ込んで、生涯かけて協力しながら韓国の工芸を再評価しました。それを知った松本市在住の李春浩氏も情熱と努力を傾けて、その豊かな人脈によって映画の製作に協力して、完成に漕ぎつけたものです。
映画完成に至る間の日韓の理解を進める道のりも簡単ではなかったということですが、柳宗悦が惚れこんだ朝鮮の美、当時の時代などについても語って頂きます。

お問い合わせ:04-7184-9828 

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2012年05月23日

柳宗悦、『朝鮮を 想う』

『日本民藝館創設70周年記念特別展 柳宗悦と朝鮮民画』を観てきたのですが、まず日本民藝館のたたずまいとその内部が素晴らしく、関連する本を何冊か眺めているうちに、肝心の展覧会が終わってしまい記事にできなかったというわけです^^;

柳宗悦(やなぎ・むねよし 1889〜1961)については「日本民芸運動の祖」程度の知識しかなかったのですが、「その源流に、朝鮮の民芸の美との出会いがあった」(高崎宗司)ことを知りました。

柳 宗悦『朝鮮を想う』(高崎 宗司編・筑摩叢書293/1984)を図書館から借りて、例によって“ぱらぱら読み”をしました。

高崎さんの解説から ―

浅川伯教(のりたか)は、1913年、朝鮮の美術に魅かれて朝鮮に渡り、小学校の先生をしながら朝鮮陶磁器の研究に志していた。その浅川伯教が1914年秋に、李朝染付秋草面取壺を手みやげに柳を訪ねたことが、1916年8月の柳の初めての朝鮮・中国旅行につながった。

そして、その旅が伯教の弟・巧(たくみ)と知り合い終生の友となる契機となった。朝鮮を愛し、朝鮮の民芸を愛した浅川巧の「家に泊めてもらった時から朝鮮の民芸の美へ大きく目を開いた」ことは、柳にとって幸運な朝鮮との出会いであったといわねばならない。

注目すべきは、当時はまさに朝鮮は日本の支配下にあったという時代背景です。「柳には、もっぱら朝鮮の芸術の素晴らしさについて書いた文章、換言すれば、朝鮮の政治的・社会的現実には直接触れていない文章と、「朝鮮人を想う」のようないくつかの時務的な文章」とがあって、柳自身がそのことについて、「第一には朝鮮問題に対する公憤と、第二にはその芸術に対する思慕」があったと記しています。

このため柳の書いた文章のなかには、「当局」から睨まれ大量の伏せ字を余儀なくされるものもありました。それでも、「柳は、東京から釜山(プサン)まで行くのに二日もかかった1920年代に、現在確認されているだけでも14回、朝鮮を訪れ」ます。そして ―
柳宗悦は二つの計画を立てた。一つは朝鮮芸術史を書くことであり、もう一つは朝鮮民族美術館を設立することである。

柳は、1921年1月号の『白樺』に、「『朝鮮民族美術館』の設立に就いて」を発表し、朝鮮民族美術館を東京にではなく京城の地に設立する計画を明らかにした。「特にその民族とその自然とに、密接な関係を持つ朝鮮の作品は、永く朝鮮の人びとの間に置かれねばならぬと思う。その地に生まれ出たものは、その地に帰るのが自然であろう」と考えたためである。

そして、1924年4月9日、朝鮮民族美術館は京城の旧王宮・景福宮内の小建築物・緝(シュウ)慶堂内に開設された。

(1945年の日本の敗戦=朝鮮の独立に伴い、朝鮮民族美術館は、韓国国立民族博物館に吸収され、その後、国立中央博物館に再吸収された。)

引用文中の「京城」とはソウルのことで、Wikipedia によると ―

「京城」(日本語読みで「けいじょう」(歴史的仮名遣では「けいじやう」)、朝鮮語(韓国語)読みで「キョンソン」。)は日本統治時代(1910年 - 1945年)に使われた名称。1910年9月30日に施行された朝鮮総督府地方官官制に基づいてそれまでの「漢城府」から「京城府」となった(「府」は日本内地でいうところの「市」に相当)。実際には 1945年以降も数年間使われている。このことから現在の韓国では、日本によって強制的に変えさせられたとの認識が一般的で有り、差別用語と主張されることもある。一方で、一部の商店や企業名など(京城紡績、現在の京紡)には今なお「キョンソン」の名称が残っている。

そして「景福宮」はご存知『らぶきょん〜LOVE in 景福宮』、【宮(クン)】の舞台でもあります^^
 
幾重にも歴史が折り畳まれています。

出典:
 お楽しみはこれからだブログ(2006年12月)

posted by その木なんの気、柳の気 at 09:42| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする