2012年05月16日

柳宗悦と浅川巧

日本民芸館の「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を観、柳宗悦の『民芸四十年』を読んで考えたことをまとめました

1 柳宗悦の朝鮮陶磁器コレクションと「安宅コレクション」
4月1日(2010年)から日本民芸館で「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を開催している。民芸館の創立者柳宗悦自身が収集した朝鮮陶磁器のベスト約270点を展示している。「当館が誇る朝鮮陶磁器コレクションの至宝展とでもいうべきもの」。
最近、李朝の白磁などに異様に惹かれている私は数ヶ月前から楽しみにしており、いよいよ明日という晩は寝付けなかったぐらい興奮していた。豊かなコレクションで圧倒してくれるだろうと期待したのだ。ところが、実際に観て、私は少しばかり失望したのだった。質量共に、それほどではなかった。陶磁器の口部分などの破損や全体的なシミなども目に付いた。
こう思ったのは「安宅コレクション」と比較したからだ。「安宅コレクション」とは安宅英一(安宅産業)の中国、朝鮮の陶磁のコレクションで、現在は大阪市の東洋陶磁美術館で観ることができる。これは専門家から「第2次大戦後も収集された東洋陶磁のコレクションとしては世界的に見てももっとも質の高いもの」「高麗・朝鮮の陶磁は私的コレクションとして世界第1といっても過言ではない」(林屋晴三)と言われる。私はこのコレクションに親しむようになり、その朝鮮の陶磁器に強く惹きつけられていた。今回の民芸館にやや失望したことで、安宅コレクションの質量がいかに高いかを思い知ったように思う。そこでは1つ1つの作品が完璧な保存状態であり、完成度や質が高い。


2 柳宗悦の『民芸四十年』の生き方

4月に柳宗悦の『民芸四十年』、鶴見俊輔の『柳宗悦』を読んだ。柳宗悦には20年以上も前から関心があり、岩波文庫から彼の著作が刊行されるたびに購入していたが、なかなか読む機会がなかった。自分の中に、そのきっかけを作れないでいた、と言った方が良い。
今回、急に矢も楯もたまらず、『民芸四十年』を読みたくなり、一気に読み終えた。それは、柳の民芸という考え方の根っこに、朝鮮の陶磁器への開眼があることがわかったからだ。柳も最初から「民芸」という観点があったわけではない。朝鮮(李朝)の陶磁器のすばらしさに目覚め、その意味を深めた結果、より普遍的な民衆の芸術、民衆の生み出す美に気づき、それを日本に当てはめた時に見えてきたのが日本の「民芸」「工芸」の姿だった。

しかし、改めて思い出すと、このことは私も前から知っていたことに気づく。私の側の問題だったのだ。最近になって、私の中に、朝鮮(李朝)の陶磁器への熱い思いが生まれていた。それが機縁となって、柳宗悦の軌跡が、私の中にストンと腑に落ちたのだ。ずいぶん長い時間がかかったものだと思う。
柳の偉さ、凄みが、まっすぐに、私の中に入ってきた。柳は単なるコレクターや美学者ではない。彼は朝鮮(李朝)陶磁の美にめざめただけではなく、その陶磁器が美しく立派なものならば、その制作者もまた立派に生きていると見極めていた。それは美の基準の変革にとどまらず、人間・民族への評価を変え、社会や歴史の見方をも変えるほどのものだった。それゆえに、柳は日韓併合の状況下で朝鮮側に立って発言することになる。それは社会的な軋轢を生み、柳はさまざまな勢力から批判や攻撃を受けることになる。そうした中で、柳はひるむことなく自分の道を最後まで歩いていった。最期に待っていたのは念仏宗であり他力道である。結果として残された柳の人生の軌跡のみごとさに、うなってしまう。


3 民芸と民衆と

「朝鮮の友に贈る書」「失われんとする一朝鮮建築のために」など、柳は当時の日本の朝鮮への植民地政策、同化・教化政策に反対したが、当時にあってそうした日本人は少数に限られていた。しかし、それは政治的な発言というよりも、朝鮮の美とそれを生みだした朝鮮文化と民族を守るための、美に生きる者としてのやむにやまれぬ行為だった。
その中で柳は2つのことに気づく(「四十年の回想」より)。1つは、朝鮮人自身が柳たちのコレクションに関心を持たなかったことだ。そこで柳は「朝鮮人に代わって美術館を京城に設置」した。これが柳が作った初めての美術館になる。しかし「朝鮮側からの思いもかけぬ反対に出会った。下賤の民が作った品々で朝鮮の美など語られるのは、誠に以て迷惑だというのである」。
一方、日本人には朝鮮の陶磁のコレクターはいるが、柳の観点とはやはり違う。柳のは民間の雑器が多かった。一番違うのは、彼らは「朝鮮の品々は好きではあるのだが、それを通して朝鮮の心を理解しようとするのではなく、まして朝鮮人のために尽くそうとするのでもなく、ただ自分の蒐集欲や知識欲を満足させているのに過ぎない」点だ。「それで私は義憤を感じて、朝鮮人の味方として立とうと意を決した」。それが「朝鮮の品物から受ける恩義に酬いる所以」だ。ここに、安宅コレクションと日本民芸館のコレクションの決定的な違いがある。
この2点の指摘からは、柳が問題にしていることは、日本と朝鮮の間で朝鮮の側に立つ、という単純な図式ではすまないことがわかる。同じ朝鮮内部でも、「下賤の民」が生んだ「美」に盲目な人々がいるのだ。もちろんそれは日本国内でも同じである。
朝鮮の陶磁の美を発見した柳は、それを生みだした朝鮮の文化と民衆を発見し、民芸を発見した柳は、民芸を制作する民衆の価値をも発見したのだ。
それは柳が誰を友とし、師としたかによく現れている。柳自身は上流階層の出身であり、学習院で学び、白樺派の同人として活躍した。しかし、そこから大きく逸脱した付き合いをしている。柳に朝鮮の陶磁・工芸の美を教えた浅川伯教、巧の兄弟との付き合いだ。


4 浅川伯教、巧兄弟

朝鮮を愛して朝鮮に暮らしていた浅川伯教、巧の兄弟。伯教は小学校の教員(後に李朝陶磁の研究者)、巧は林業試験場の下級役人である。柳はそうした二人を尊敬し、深く信頼していた。
浅川巧は朝鮮語を学び、朝鮮服を着、朝鮮人として生きようとし、朝鮮人を愛し、愛された。41歳で急逝するが、その葬儀には多数の朝鮮人が参列し、彼らがその棺を担いだ。巧は朝鮮人の共同墓地に葬られた。

巧の死後の柳の追悼文は以下だ。「私はわけても彼を人間として尊敬した。私は彼ぐらい道徳的誠実さをもった人を他に知らない」「私は彼の行為からどんなに多くを教わったことか、私は私の友だちの一人に彼を持ったことを名誉に感じる」。巧の遺児である園絵は民芸館と柳を終生支え続けた。

私が気になったのは、浅川兄弟がメソジスト派のキリスト教徒だったことだ。その信仰と彼らの生き方の関係だ。江宮隆之著『白磁の人』(浅川巧の生涯の物語)では、それを強調し、巧と朝鮮人をいたぶっていた日本の軍人が回心し、キリスト教に入信するエピソードを入れている。彼ら兄弟の信仰は柳の念仏宗への帰依に近いものだろうか。

出典:中井浩一ブログ (2010・5.2)




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2012年04月21日

コンサート「柳兼子 〜魂の歌唱〜」

下記、お知らせです。
----- Original Message -----

Sent: Monday, April 09, 2012 8:11 AM
Subject: あびこ声楽家協会の大久保です



> さて、此の度メール致しましたのは、わたしが代表をしております”あびこ声楽家協会”主催コンサートの件です。
>
> 私どもは、6月2日に我孫子けやきホールにて ”柳兼子〜魂の歌唱”というコンサートを開催(2時開場)いたします。
> ご存知のように、我孫子は、北の鎌倉と称し、白樺派の拠点となった時期がございます。
> その中、柳宗悦やバーナード・リーチも民芸運動を活発化させました。
>
> 今回は、その柳宗悦の妻である柳兼子というアルト歌手を取り上げます。
> 彼女は日本声楽界草創期の偉大なる歌い手で、夫・宗悦とともに、我孫子に移り住み、
>
> 物心両面で宗悦の民芸運動を支えました。
> 彼女の足跡は、CDでも発売されておりますし、白樺文学館においてもそのうたごえを聞くことが可能となっております。
> 今回の演奏会では、彼女が我孫子在住時にさまざまな演奏会で歌った曲を中心にプログラムいたしました。
> 協力として、
> 白樺文学館(演奏会当日、ホワイエにて関連の展示も予定)、
> 白樺派のカレー普及会(兼子が作ったというその当時のカレーを復元。演奏会当日、ご来場いただいた方
> にそのレトルトをプレゼント)、
> そして後援として我孫子市教育委員会にサポートいただくことになっております。
> 皆様のお知り合いの方に、ご紹介いただければと思い、メールいたしました。
> 是非、お越しいただきたいと思っております。
>
> ちらし添付いたします W421382校正表.pdf

> ご協力いただければ幸いです。
>
> 季節の変わり目、お体ご自愛のほど、お祈りいたします。
>
> 大久保光哉ホームページ  http://www4.hp-ez.com/hp/sv-mitsuya/;

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2012年03月21日

カレーと兼子

我孫子ゆかりの文化人(4)    4月22日    伊藤一男

「夫の民芸運動を支えた声楽家
柳兼子」

 柳兼子(1892~1984年)は東京の下町育ちながら東京音楽学校 で声楽を学び、文字通り日本声楽界の草分け的な存在となり、「明治
大正昭和の生きた声楽家」と言われた。初舞台が18歳、公式演 奏最後のリサイタルが85歳とのことであるから、演奏活動は実に70年近くにも及び、まさしく「我が国声楽界の至宝」に相応しい女性で あった。彼女は演奏活動の傍ら、夫宗悦の精力的で多様な民芸運動を 物心両面で支え続け、「朝鮮民族美術館」設立に奔走する夫に共鳴して自らもリサイタルを開催し、多くの人々と厚くて深い親交を築いた。そのうえ、3人の息子を育て上げた良妻賢母でもあった。


 柳兼子のこのような波乱に満ちた多様な活動も、我孫子から始まった といえよう。
 兼子は明治43年(1910年)、雑誌『白樺』創刊の数日前 に柳宗悦に会い、長い交際期間を経て大正3年(1914年)に結婚し、その7ヶ月後に我孫子に転居して来た。その年の暮れには、帝国劇場で山田耕筰指揮のもと80名のオーケストラをバックに歌劇『カ ルメン』のなかの「ハバネラ(恋は野の鳥)」を独唱した。その頃長男を身ごもっていた身体でもあり、自分でも決して満足のいく内容ではなかったが、彼女はそれをバネにさらに研鑽を重ねた。大正4年に長男を出産、さらに2年後に次男を出産した。ちょうどその頃、実家の鉄工場の倒産もあり、家計も大変だというのに白樺同人が「公共白樺美術館」 を設立するというので、その資金集めのために「柳兼子独唱会」を各地で開催するなど、まさに大車輪の活躍であった。

 しかし、実生活ではなかなか苦労も絶えなかった。とにかく、大正デ モクラシーの真っ直中にあった白樺同人の男性たちは、勝手気ままな亭主関白が多く、柳宗悦も例外ではなかった。仏教思想にも造詣が深く、外では朝鮮民族への愛と同情を説く夫
宗悦もうちの中では専制君主そのものであったという。兼子に対しても、一個の自立した芸術家である前に、妻であり、母であることを要求した。それに加えて、連日、自宅を訪れる白樺派の友人たちにも酒肴を振る舞わなければならなかった。


 結婚前に掲げた「理想の愛」も、現実にはままならぬことが多く、夫婦二人の間にしばしば乖離を生じた。とりわけ、夫
宗悦のなかに隠された封建的な男性気質と、自立した声楽家である妻兼子の勝ち気で激 しい性格がぶつかり合った。兼子は少女時代から、女性の身につけるべき教養と生活技術を母から厳しく仕込まれ、良妻賢母へのこだわりが強い一方で、夫には盲従せず、主張すべきは主張した。しかし、宗悦と掲げた「理想の愛」を生涯手放すことなく、その精神を具現化していったであるが、その生きる強い姿勢が我孫子時代にも端的に現れている。


ついでにこぼれ話:
 我孫子には白樺派文人に関する郷土史研究家がわんさといる。白樺文 学館という小さな博物館もあって、そこでよく講演会も開かれる。最近 ある郷土史研究家による「柳兼子カレー考証」という講演があり、大正の初期に我孫子の手賀沼湖畔に住んでいた白樺派文人たちが堪能したカレーを再現する催しがあった。柳兼子が自宅を訪れた面々に振る舞った カレーの味をよみがえらせるために、当時のレシピを研究し、試食をす る会であり、もう何回もやっているそうだ。そもそもそのカレーという のは、柳邸の敷地内に窯をもっていた陶芸家のバーナード
リーチが「カレーライスに味噌を入れたらうまいだろう」と言い出したのが発端 であり、兼子が試しに粒味噌を入れたところ、意外にも美味しいカレー ができたという。 


出典:伊藤一男HP (2006.4)
  

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2012年03月20日

映画『兼子』

『兼子』(映画)の画像

工業デザイナーの柳宗理さんのお母様であり、日本民藝館元館長で宗理さんのお父様の柳宗悦氏の夫人でもある柳兼子さんについてのドキュメンタリー映画。

以下映画の紹介文より引用します。

柳 兼子 1982(明治25年)〜1984(昭和59年)
日本有数のアルト声楽家、柳兼子のドキュメンタリー。87 歳まで現役の歌手として活躍した兼子が歌う日本歌曲を織り交ぜながら、夫となる柳宗悦との出会いなど、兼子の人間性に迫る作品。和服姿で凛と歌いあげる兼子の姿に、日本語の美しさ、力強さも改めて実感できるはず。
 
〈アルトの声楽家として18歳から87歳まで演奏活動を続け、92歳、死の2ヶ月前まで後進の指導にあたった柳兼子。明治・大正・昭和を生きた彼女の音楽活動そのものが「わが国の生きた音楽史」ともいわれています。また兼子は夫、柳宗悦の白樺派の文化活動、民芸運動にも妻として、声楽家として協力、経済的にも大きく貢献しました。そして、母として、3人の子供たちの養育にも力をそそぎました。兼子を敬愛する人々20人の、インタビューによって描き出されるのは、激動の時代を生きた一人の女性の心の軌跡です。兼子晩年の演奏は、日本歌曲の詩歌に込められた、日本の美しい言葉の復権です。兼子は言っています。「芸術は心である」とー。 

出典:映画『兼子』

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2012年03月19日

柳宗悦を支えて

京王井の頭線「駒場東大前」を降りて閑静な住宅地を歩いて行くとキラキラしたタワーが輝く東京大学先端研があります。仕事で何度か訪れたのですが、その度に入口の手前に建つ古めかしい館に興味を抱いていました。残念ながら仕事を終えその館の前を通るといつも「閉館」になってしまっているので、まだ中を覗いたことがありません。この館の名前は「日本民藝館」といいます。
 
 行楽地のおみやげ屋さんに並んでいる「民芸品」。広辞苑(第五版/岩波書店)によると民芸とは「庶民の生活の中から生れた、郷土的な工芸。実用性と素朴な美とが愛好される」とあり、続けて「大正期、柳宗悦らの造語」とあります。意外と新しい言葉ですね。

 この言葉をつくりだした「柳宗悦」は白樺派の民藝運動家で、冒頭記した日本民藝館を設立した人です。彼は"民藝=用の美"の世界を追究するべく、古市で目についた民芸品を買い漁り、朝鮮半島の陶磁器に惚れ込み、木喰仏にのめり込み、大変な蒐集家となります。蒐集品を連れての引っ越しは貨車二十数両を必要としたそうです。これはいくらなんでも多すぎますね。これらの蒐集品は民藝館に収められています。

 当時は「生活品」としてさほど値の張らないものも混じっていたとはいえ、こんなに蒐集するのにはさぞお金がかかったことだろうと想像してしまいます。そのお金はいったいどこから湧いてきたのでしょう。
 宗悦は大学で教鞭をとるなど収入はありましたが、それらはほとんど本や民芸品蒐集に費やされ、生活費を家に入れるような「一家の大黒柱」ではなかったようです。そんな彼と彼の民藝運動を支えていたのが、新刊『柳宗悦を支えて』(小池静子著/小社刊)の主人公、柳兼子です。
 
 柳兼子はただの奥様ではありません。家庭を顧みず民藝運動に情熱を注ぐ夫を影日向で支え、家計を遣り繰りし、家事を切り盛りし、三人の息子を育て上げました。それだけでも只者ではないのですが、彼女は日本を代表する女性声楽家だったのです。演奏会や教職で収入を得、それで宗悦の運動を支え、家計を支えていたのです。どれほど多忙な日々だったのか想像もつきません。

 彼女の声楽家としての実力は素晴らしいものでした。国内だけでなく、宗悦の関係で頻繁に訪れていた朝鮮をはじめ、当時日本人など見向きもされなかった声楽の本場ヨーロッパでも好評を博しています。
 ここまで一流の声楽家ならば、付き人を何人も連れて身辺の世話など全て人任せでもおかしくないくらいですが、彼女は人手にほとんど頼らず、夫や姑、息子三人の世話もこなしているのです。大勢の宗悦のお客様をもてなし、民藝館を手伝う人々を労い、生徒にお稽古をつけ、各地でステージに立ち、戦時中には畑も耕し、幾人分もの人生を一人で背負って奔り続けます。なんというか、凄まじくエネルギッシュです。

 『柳宗悦を支えて』を読んでいて不思議に思うことは、なぜこんなに我が儘な「オレ様」に尽くし続けられるのか、ということです。味噌汁をかけるわ浮気はするわ、宗悦は「明治のオトコ」で片付けられないくらい灰汁が強い方です。しぶとく宗悦を大切にし続ける兼子をすごいナーと思いつつ、そんな殿方には惚れたくないナと正直に思ってしまいます。兼子ですらつらそうだったので、私にはその妙はわかりかねます。
 愛し続ける器量の深さも天下一品。柳兼子の生涯には見習うべきところが満載です。

出典: 現代書館(2009.11)

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2012年03月18日

声楽家「永遠のアルト 柳兼子」

富国強兵、軍国主義の中にあって女性は家庭を守るものという意識が徹底して教化されていた時代です。親の許しがあって結婚しても(音楽)学校を退学せねばならず、恋愛をテーマにした歌は歌えず(歌曲の多くは恋愛歌ですよね.)、男女混声合唱をするといっただけで、教鞭を追われるという、女性にとって自立するということがいかに難しい時代であったかちょっと想像してみて下さい。

その時代の中で、兼子は主婦として母親として、白樺派の一員として、優れた一芸術家としての女性を全うしたのでした。
(当時の我孫子は電気やガス、水道などもちろんありませんでしたし、お店などもないに等しかったのですよ。これは主婦としてはひどく大変なことです。)

そればかりか、経済的な面でも柳宗悦、白樺派の活動に大いに貢献したのです。民間の国際交流を積極的に続けながら、朝鮮民族美術館設立のための資金、白樺派が構想した白樺美術館設立(実現せず)のための資金の多くも兼子がリサイタルなどを通じて獲得したものでした。

また、こんな逸話も残っています。
『兼子見ろよ、これがお金で買えるんだよぉ、ありがたいじゃないか。』
各地の雑器(民藝)を買い漁る宗悦に言われ、その気になってなけなしの財布をはたくこともままあったとか。でもなんという口説き文句でしょう。これいいですね。

戦前、自他ともに認める日本最高のアルト歌手であり、本場ドイツで絶賛された初めての日本人でもありながら、全盛時の作品は現在わかっている限り、ほとんど残っていません。また、評価といえるような評価もされていません。

兼子は柳宗悦とともに朝鮮独立を公言し、朝鮮支配を批判していたため、私服刑事に見張られ、特高にも監視されたこともありました。
戦時中も、国民の士気高揚のために軍国主義化する音楽界から身を引くような形となり、実質的な音楽活動が途絶えてしまったのです。
加えて、戦後の混乱期を抜け出てようやく現場復帰を果たしたものの、当時まだ一段低いものと見られていた日本歌曲の唱法の確立に情熱を傾けていたせいもあり、半ば忘れ去られた存在となりました。ときおり、小規模なリサイタルを各地で催していたものの、LPを出すようなレベルのものは録音されなかったようです。

現在残っているのは30代と80代のときの数枚のSPとLPのみです。
ある日、柳兼子について書いている松橋桂子さんという方が兼子のLPを持っているというので結局貰い受けたが、ただし、このLPは兼子の80代の時のものでフラストレーションはたまるばかり。
2001年1月11日白樺文学館 開館式。当日、取材に来ていたNHKの熊沢ディレクターもその会話に参加し、興奮して番組制作に没入することに・・・
2001年3月22日、柳兼子のCDを特集した小番組『声楽の母 幻の録音テープ発見』が放映され、各地で大きな反響を呼んだということです。

というようなわけで2001年4月26日にCD 《永遠のアルト 柳兼子》がグリーンドア音楽出版より発売されました。
CDのタイトルは当初、『ハバネラ』という構想だったのを松橋さんの提案で『永遠のアルト』というタイトルになりました。
これには、松橋さんの『柳兼子という人間を正当に評価し、記録を残す』という長年の情熱と執念がこもっているように思えます。


柳兼子 永遠のアルト 1957〜77年 CD3枚組み
定価 7500円 プラス消費税 (グリーンドアGD-2001〜2003)
また、NHKの小番組『声楽の母 幻の録音テープ発見』を見たい方は来館の上、お申し出下さい。録画したものがあります。(※ CD《永遠のアルト 柳兼子》は絶版につき入手できなくなっております)


楷書の絶唱 柳兼子伝
松橋桂子著 株式会社水曜社
3500円+消費税
普通の本屋さんにはあまり置いてないと思います。民藝館にもないとか・・・
白樺文学館にて税込み3500円で取り扱っております。

出典:
白樺文学館 HP より抜粋


  Youtube 柳兼子 Caro mio ben
http://www.youtube.com/watch?v=oVtqnJe6FPo
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2012年03月08日

柳兼子さんについても、もっと知りたい

柳夫妻の我孫子での活動を顕彰するには、やはり我孫子駅前に説明が必要です。

DSC01030.JPG
 

市内にもっと説明板があるといいですね。


posted by その木なんの気、柳の気 at 19:39| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月06日

『青春の柳宗悦』

 行きつけの大学図書館の新刊書棚で、丸山茂樹(プロゴルファーに非ず)著『青春の柳宗悦』という本を見つけました。柳宗悦といっても白樺派のひとりぐらいしか知識がなかった小生ですが、その本の副題に<失われんとする光化門のために>とあり、目次に“石窟庵”、“高麗と李朝”、“朝鮮人を想う”、“朝鮮民族美術館”などとあったことが、韓国世界遺産旅行をしたばかりの小生の目を引きつけました。


            
    

この本には、大正デモクラシーの真っただ中、西洋思想・西洋文学・西洋美術に没入していたが柳宗悦が、友人から贈られた李朝(李朝)白磁(上掲本の表紙にある磁器)を見て感動し、朝鮮半島の民芸品や陶磁器に傾倒していく様子が著述されていました。日韓併合(1910年)6年後に初めて韓国(当時は朝鮮)を訪問した27才の柳宗悦は、釜山から京城(現在のソウル)に向かう途上、伽耶山の海印寺や慶州の仏国寺・石窟庵を訪ねて感動、京城では日本人の間で人気抜群だった高麗青磁には目もくれず、当時誰も見向きしなかった李朝白磁や伝統民芸品の蒐集に減り込んでいきました。

その資金集めに、三浦環を凌ぐといわれたアルト歌手柳兼子が内外各地で歌いまくるも涙ぐましいが、何よりすごいのは、柳宗悦の朝鮮民芸品・工芸品・美術に対する思い入れ、特高の監視と嫌がらせの下で朝鮮の人々に対する思いやりの持論を信念をもって展開、朝鮮民族美術館設立への協力を得るため斎藤実朝鮮総督に面談し総督の心を動かした情熱。柳宗悦は大した人物だったのだといまさがながら感銘したした。

朝鮮総督府によって他の場所に移されていた景福宮の正門「
光化門」が、2010来10月には往時の姿に復元されて本来の場所に再現。

出典: ブログ・我孫子散策 (2009.11)


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2012年03月05日

我孫子に居住した白樺派の5人

明治前半期の「自由民権運動」と大正期の「大正デモクラシ−」とは、日本の自立した市民による民主的思想と実践運動の二つの輝かしい峰です。その「大正デモクラシ−」時代、文芸誌『白樺』を創刊した若き三人の闘士 ー 柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤 ー と声楽家で宗悦の妻の兼子、彼らの同伴者バ−ナ−ド・リ−チはここ我孫子に集まり、既存の道徳や思想に抵抗して新しい文学と芸術と社会思想を生み出しました。

柳宗悦

 1914年(大正3年)に叔父の嘉納治五郎(かのうじごろう)の勧めで我孫子に移り住んだ柳宗悦(やなぎむねよし 25)は、徹底して民衆の側に立つ反-国家主義の思想家であり、ブレイクとホイットマンの詩を魂とするその思想は、戦前・戦中・戦後と一貫して変わることがありませんでした。柳は、朝鮮に渡り、名も無き民間の陶工たちが、国の保護の下にある有名な陶工たちよりもはるかに優れていることを知ります。彼は民衆の手工芸に高い価値を置く自身の思想を「民芸」という造語で表現しましたが、その運動は我孫子から始まり、やがて大きな潮流(ちょうりゅう)となって全国に拡がっていきました。柳は文筆以外にも、1924年には朝鮮の京城(けいじょう)(現在のソウル)に「朝鮮民族美術館」を、1936年には駒場に「日本民芸館」を開き、初代館長に就任するなど精力的に活動しましたが、その背骨となっていたのは、法然(ほうねん)・親鸞(しんらん)・一遍(いっぺん)の欣求浄土(ごんぐじょうど)、他力本願の思想でした。今日では「民芸」という言葉は普通名詞になっています。

柳兼子

  音楽における「白樺派」を一人で代表した下町育ちの柳兼子やなぎかねこ 22.旧姓・中島)は、日本の近代声楽法を確立すると共に、夫・宗悦の精力的で多様な活動を物心両面(ぶっしんりょうめん)で支え続けました。大恋愛の末の我孫子での新婚生活の最中(さなか)、日本政府の朝鮮人抑圧・同化政策に対抗するため宗悦と共に朝鮮に渡り、連続的に音楽会を開催。多くの人々との厚く深い心交を持ち、声楽の神様とまで言われました。彼女は、ベルリンでのリサイタル(1928)でドイツ人を驚愕(きょうがく)させた日本最高のリード歌手でしたが、軍歌を歌うことを拒否したため、戦中は活躍の場を奪われました。

志賀直哉

 1915年(大正4年)、柳の勧めで我孫子にやって来た志賀直哉(しがなおや 32)は、1917年に中篇の代表作となった傑作『和解』を書き、翌年1月リ−チの装幀による『夜の光』を出版。これによって大正文学における地位を不動のものとしました。
直哉は既存の文学者の権威には一切従わず、自分自身の心を赤裸々(せきらら)に凝視(ぎょうし)し、自己の心身のリズムに完全に合致(がっち)させる文体をつくることで、古びることのない力強く魅力的な作品を産み出していきました。 
日本近代文学の中で最も優れた〈描写力〉を持つと評される志賀直哉の代表的作品の多くは我孫子時代に書かれたものです。中篇三部作のうちの二作『和解』と『或(あ)る男、其(その)姉の死』(『大津順吉』は1912年)。20世紀の日本最高の短篇と言われる『城(き)の崎にて』 『赤西蛎太(かきた)』 『小僧の神様』 『焚火(たきび)』(『范(はん)の犯罪』は1913年)。唯一の長篇『暗夜行路』の前篇と後篇の半分強、などがそうです。

武者小路実篤

 1916年(大正5年)暮、親友の志賀直哉の誘いで我孫子に移り住んだ武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ 31)は、階級や特権のない自由で平等な共同生活を創りだすための構想を練り、1918年に『新しき村についての対話』を発表。たちまち300人以上の入村希望者が集まりましたが、危険思想の温床(おんしょう)と中傷され、識者(しきしゃ)も柳と志賀を除いては皆が、夢想主義でしかなく失敗に終わると評しました。同年9月、「人類の意志を遂行するため」宮崎県日向(ひゅうが)に出発する実篤と入村者たちの盛大な送別会が我孫子の根戸(ねと)で開かれました。「村」はダム建設のため1939年に現在の埼玉県毛呂山(もろやま)町に場所を移し、苦難の末、創立40年にしてついに自活に成功し、その後も充実した活動を続けています。

バーナード・リーチ

 柳の親切な勧めで、武者小路と同時期に我孫子にやって来たバ−ナ−ド・リ−チ(29)は、柳の家に寄宿し、庭に窯(かま)をつくりました。ブレイクを最善の師とするリ−チは西洋のエッチングを日本に初めて紹介した香港(ほんこん)生まれのイギリス人ですが、「東西文化の結婚」さらには「全人類の融合」という夢のために尽力(じんりょく)します。「生活の腐敗・物質主義・偽善(ぎぜん)の生じる根源は、思想と行動、意思と行為の分離にある」というのが、彼の信条でした。不幸なことに1919年5月、柳邸に あったリ−チの作業場は全焼して貴重な資料が全て灰になってしまいます。失意のリ−チは翌年6月イギリスに帰国しますが、晩年、「私の生涯で最も充実し思い出深く楽しかったのは我孫子時代であった」 と回顧(かいこ)しています。  

 彼らの創刊した『白樺』は幾度も美術特集号を出しましたが、彼らは美術史の知識からではなく、自分の目と体に直接響くものだけを評価したのです。ゴッホを日本に初めて紹介したのは武者小路であり、また「ムンク特集」を組んだりもしました。志賀は送られてきたアメリカの雑誌で見たロダンの彫刻に魅了されます。浮世絵を送ったところ、なんとロダンからお返しに彫刻三点が届けられましたが、これが日本に渡った最初のロダンの彫刻です。当時まだ欧米でも埋もれた存在だったセザンヌを日本に紹介したのも『白樺』です。柳は1915年(26歳)に、「僕は確信をもってセザンヌを支持する」と書いています。

 彼ら我孫子「白樺村」の面々は、精神的に自立した裸の〈個人〉でした。親から疎(うと)まれ、世間から白眼視(はくがんし)されても少しもひるむことなく、大胆(だいたん)に自己を肯定して生き、日本の《人間開眼》とでも呼ぶべき新たな時代を切り開いたのです。

さあ、彼らの息吹を吸おうではありませんか。
ここは、創造の地なのです。

出典:白樺文学館のホームページ
    1999年12月22日/2000年6月改訂 
    武田康弘(白樺文学館初代館長)


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2012年03月04日

柳夫妻が我孫子が白樺同人を呼び集める

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出典:白樺文学館(開設時に作成のオリジナル・イラスト。我孫子に居住した5人の年齢に相応しい肖像)
http://www.shirakaba.gr.jp/genesis/others/rinen.htm
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2012年02月20日

柳宗悦への関心

柳宗悦に興味をもったのは『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』執筆中だった。
 近代史にさわると教科書では習わない「歴史」にぶつかる。記述中の人物がそれらに直接関わっていれば無論だが、そうでなくても物事には明と暗がある。
 たとえば、大日本帝国と中国・朝鮮との関係がそうだ。書きたくないが書かない訳にいかず、時どき筆が止まった。そんな折しも柳宗悦を知り、このような人物もいたのかと感動した。
 それにしても今日、日本のみならずアジアに広がる韓流ブームを考えると隔世の感あり、歴史の波動を感じる。

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    朝鮮万歳事件(三・一運動)

 朝鮮では併合以前から反日義兵闘争が続けられていたが、ロシア革命の成功などで在外朝鮮人の間で独立運動が広がり、パリ講和会議にも独立請願書を送った。ウィルソン大統領の民族自決宣言に鼓舞され、アメリカなど列強の援助によって独立が実現されると期待したのである。
 独立運動のデモが計画され京城・平壌などで独立宣言書が発表された。示威運動は朝鮮全土に拡大し、熱狂的に「朝鮮独立万歳」が叫ばれた。1919大正8年3月1日、200万の朝鮮人が全道618ヶ所で官庁を襲撃した。独立万歳事件(己未(きび)事件)である。日本は朝鮮での強圧的な政治姿勢を改めざるをえず、朝鮮総督武官制を台湾と同じように文武どちらからも任命できるように改正した。(中略)
 朝鮮の人々を圧迫する日本にあって、独立が彼らの理想となるのは必然の結果であろう」と朝鮮の人情を愛し同情をよせる人物がいた。柳宗悦である。
 柳は李朝朝鮮の白磁の美に感動したことから、朝鮮をさげすむ時代風潮のなかで朝鮮民族に敬愛の念を抱くようになった。柳は民芸運動創始者・宗教哲学者として知られるが、
「朝鮮人を想ふ」(読売)など時局の問題にも筆をとり、三・一独立運動などに対する日本政府の政策を批判した。   (『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より)

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  『柳宗悦と朝鮮』韓永大・明石書店)は日本が圧迫している朝鮮の芸術を敬愛し民族の力になろうとした柳宗悦その人をたどり、副題の「自由と芸術への献身」を描いて全体像に迫る。
 柳宗悦の父楢悦と勝海舟の縁は宗悦にも深く、また母の弟は講道館創設で知られる嘉納治五郎。宗悦はこの二人の先達から多く学び影響を受けた。
 著者は岩手県宮古市出身、美術史学会員。柳の愛した芸術への造詣が深く、柳が見たり触れたりした朝鮮の白磁や石窟の仏像などよく伝えている。その記述があって柳の朝鮮の芸術を愛する心が分かり、宗悦の「朝鮮民族美術館」(所蔵品はのち韓国国立博物館に)設立に至る思い、そして身命を賭して朝鮮を弁護するも信念をくみとれる。

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  ―――私は久しい間、朝鮮の芸術に対し心からの敬念と親密の情とを抱いているのである。私は貴方がたの祖先の芸術ほど、私に心を打ち明けてくれた芸術を、他に持たないのである・・・・・・思えば私が朝鮮とその民族とに、抑え得ない愛情を感じたのは、その芸術からの衝動に因るのであった。芸術の美はいつも国境をこえる。
 ―――不幸にも人々は貴方がたを朋友として信じることを忘れている。彼らはただ征服者の誇りで貴方がたを卑しんでいる・・・・・・朝鮮代々の民族が、その芸術において何を求めているかを知り得たなら、おそらく今日の態度は一変されるにちがいない。
   (『民藝四十年』柳宗悦・岩波文庫「朝鮮の友に送る書」より)

出典:けやきブログII (中井けやき)    



    

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2012年02月17日

柳宗悦と朝鮮、日本民芸館

2010年に日本民芸館で開催の「朝鮮陶磁」の展示がありました。日本民芸館の説明には下記の記述があります。

 1914年、声楽家中島兼子と結婚して千葉県我孫子へ転居。生涯の友となる濱田庄司との交友もこの地で結ばれる。同年、韓国で小学校教師をしていた浅川伯教が朝鮮陶磁器を手土産に柳を訪ねた。その美しさに魅了された柳は、1916年以降たびたび朝鮮半島へ渡り、朝鮮工芸に親しむようになった。そして、民族固有の造形美に目を開かれた柳は、それを生み出した朝鮮の人々に敬愛の心を寄せ、当時植民地だった朝鮮に対する日本政府の施策を批判した。  

 1921年、日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催。1924年にはソウルに「朝鮮民族美術館」を開設していった。関東大震災を機に、柳は京都へ転居した。盟友・河井寛次郎との親交もこの頃に始まった。そして、民間で用いられる日常品への関心は、1924年から始まった木喰仏調査の旅や、濱田が英国より持ち帰ったスリップウェア、また京都の朝市を中心に開始された下手物の蒐集などを契機として、「民藝」の思想へと結実していったのである。

出典: 日本民芸館HP

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2012年01月21日

柳宗悦・兼子夫妻、エスニックブームの向こうに

 自分のお気に入りの生活用品に囲まれて毎日を過ごそうというライフスタイルが、「エコ」や「ロハス」といっしょくたにされてメディアによって盛んに提唱されている。多国籍の雑貨で飾られたインテリアが、和モダンやアジアン・ミックスとして人気だ。アジアへ雑貨の買い物旅行にでかける人々も多くいる。

 一見同様に、柳も物の出自や世間の評価に囚われず、自分の直感に訴えかけた品を蒐集して、実際に身の回りに置いて使った。日本民藝館に展示されていた器は、柳家の食卓との間を行き来していたそうである。

「真に美しいものを選ぼうとするなら、むしろあらゆる立場を越えねばなりません。そうしてそのものを直接に見ねばなりません。立場は一種の色眼鏡なのです。」(柳宗悦『民藝とは何か』講談社学術文庫、二〇〇六年)


 柳とその仲間達は、今流行の「自分が良いと思ったものはなんでも取り入れる」という自由なライフスタイルの先駆者といえよう。しかし、その生き方の選択は思想の追求であり、当時は社会的立場や命を失う危険を伴うほどの強烈な自己表現であった。
 
確かに、気に入ったカップやリネンを使うと豊かな気分になる。物を大事にすることは毎日の生活を丁重に過ごすことであり、自分を大切に扱うことに繋がる。そして自分を愛せる人間が、隣人を思いやることができる。だが実際には、自分にとって心地よい美を与えてくれる物から、それを作った第三者へ愛を感じる可能性を伝えている雑誌やテレビは稀である。それは器の使い手に、大きな想像力と世界観を持つ努力を要求するからだ。エスニックブームなのに「民族(エスニック)」への視線が欠けているのではないか。アジアンブームのなかで、雑貨を作ったアジアの人々については語られることはない。固有の民族の姿が不在のため、多国籍というより無国籍スタイルなのである。

 現代では、ドラマや音楽などポピュラーカルチャーの面における日韓の交流も盛んで、朝鮮に対して戦前の日本人のようなネガティブな先入観を持つ人々は少なくなった。武力ではなく文化的理解によってのみ民族の融和が図れると考えた柳の考えを、現代の社会は立証しているだろう。だが、偏見が弱まることと、無知が消えることはイコールではない。隣国の文化について、私達がまだ知らないことは多すぎる。

 独自の哲学と宗教観に基づいて民芸運動を展開した柳の美学の原点となった朝鮮陶磁を、今見直すことは、一連のブームに欠けている「民族そのものの美の姿」を己に問いかける好機ではないだろう。

出典: 朝鮮陶磁−柳宗悦没後50周年記念展 (2010 冨久田純取材記事)より抜粋
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2012年01月19日

柳夫妻の人と時代

柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年3月21日 - 1961年5月3日)は、民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者。

東京府(現:東京都)生まれ。海軍少将柳楢悦の三男。学習院を経て東京帝國大学卒業。専攻はウィリアム・ブレイクやウォルト・ホイットマン等の英語圏の宗教哲学であった。
嘉納治五郎は母勝子の弟であり招かれる様に、現在の千葉・我孫子(現:我孫子市)に住んだ。さらに志賀直哉らを呼び、我孫子に文人らが集結し白樺派文学が進展するきっかけをつくった。
学習院高等科から東京帝國大学に進み、大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民藝運動を起こした。1936年(昭和11年)、東京府東京市目黒区駒場(現:東京都目黒区)に日本民藝館を設立。1957年(昭和32年)、文化功労者。
晩年はリウマチや心臓発作との闘病を余儀なくされたが、執筆活動を続けた。1961年(昭和36年)春に脳溢血により、日本民藝館で倒れ数日後逝去した。


家族

1914年(大正3年)中島兼子と結婚。柳兼子は近代日本を代表するアルトの声楽家だった。長男にインダストリアルデザイナーの柳宗理、次男に美術史家の柳宗玄、三男に園芸家の柳宗民。甥に染織家の柳悦孝、美術史家の石丸重治、法学者の今村成和がいる。



朝鮮とのゆかり

1919年(大正8年)3月1日に朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。当時、ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。1924年(大正13年)には京城(現ソウル)に朝鮮民族美術館を設立した。
朝鮮民画など朝鮮半島の美術文化にも深い理解を寄せ、京城において道路拡張のため李氏朝鮮時代の旧王宮である景福宮光化門が取り壊されそうになると、これに反対抗議する評論『失はれんとする一朝鮮建築のために』を、雑誌『改造』に寄稿した。これが多大な反響を呼び、光化門は移築保存された。
1922年(大正11年)に私家版で和装本『朝鮮の美術』や、『朝鮮とその藝術』(叢文閣)を出版した。他の主な編著・著書に『今も続く朝鮮の工藝』(日本民藝協会、1947年、限定版)や、『朝鮮とその藝術 選集第4巻』(春秋社)がある。以上は『全集第6巻.朝鮮とその藝術 ほか57篇』に所収している。

出典: 柳宗悦展、15日から (2011.9)
http://ameblo.jp/fb-weekly/theme-10032700795.html


交流、著述活動

バーナード・リーチとの交友も知られる。『バーナード・リーチ日本絵日記』(毎日新聞社 1955年/講談社学術文庫、2002年、補訂解説水尾比呂志)を訳している。またバーナード・リーチ・河井寛次郎・濱田庄司述、柳宗悦編の『焼物の本』が、日本民藝館創立50周年記念で復刻出版された(共同通信社 1985年、解説水尾比呂志)。
仏教学者・禅者の鈴木大拙は、柳の学習院高等部時代の英語教師で、生涯交流した。弔辞「柳君を憶ふ」がある。
沖縄文化を生涯にわたり紹介し、1938年〜1940年にかけ沖縄県に、4度滞在調査した。著作では『選集.第5巻 沖縄の人文』、集大成『全集. 第15巻 沖縄の傳統.ほか』がある。また編書『琉球の文化』、『琉球の陶器』(復刻 1995年 榕樹社、1997年 榕樹書林に改名)や、『沖縄と柳宗悦』(沖縄タイムス社編、1989年)を参照。
江戸時代に全国各地を廻国し造仏活動を行い、独特の「微笑仏」を残した木喰行道や妙好人の研究を行った。特に木喰研究は柳宗悦の木食仏発見が契機となったことで知られる。『選集.第9巻 木食上人』を参照。江戸前期に各国に行脚した円空仏に関する論考もあり、全集『第7巻 木食五行上人.ほか』に所収。
筑摩書房『柳宗悦全集』は、1980年(昭和55年)に始まり、完結に12年かかった。1982年(昭和57年)に20巻目までを順調に出したが、第21巻「書簡集」は1989年(平成元年)に上中下巻で、最終第22巻「資料その他」は1992年(平成4年)に上下巻で、各巻とも1万5千円前後で刊行となった。大量の書簡の収集に加え、新たに発見された未発表の原稿作品の収録、雑文資料や年譜の編集に10年以上費やしたためである。故に全巻揃いは、古書値も高価である。
機関誌「月刊民藝」は、1939年(昭和14年)4月号から1946年(昭和21年)7月号まで、戦局悪化による休刊を挟んで発行された。1955年(昭和30年)から日本民藝協会再創刊している。2008年(平成20年)に不二出版で、『復刻版 月刊民藝・民藝』が刊行された。
和装本による機関誌「工藝」は、1931年(昭和6年)から1943年(昭和18年)にかけ114号が、休刊を挟み120号を1946年(昭和21年)から1951年(昭和26年)にかけ発刊した。「工藝 目次総目録」は、熊倉功夫『民芸の発見』(角川書店)巻末に記載。

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2012年01月14日

柳宗悦の朝鮮民画蒐集

解放前、日本人が収集してきた朝鮮時代の民画名品120点が50〜80年経過して韓国に戻ってくる。朝鮮民画の故国外出は「歓迎!朝鮮民画」と題した特別展示会で2005年9月6日から10月30日までソウル歴史博物館(館長キム・ウリム)で開かれる。ソウル歴史博物館と日本民芸館の共同主催だ。

  展示品の半分以上は朝鮮民芸に凝った宗教学者柳宗悦(1889〜1931)が発掘あるいは所蔵していた作品だ。柳は1910年代から20回以上、朝鮮のあちこちを旅し、声楽家である夫人により陶磁器など工芸品と民画を収集、その美しさを日本美術界に広く知らせた。 特に当時には誰も目をくれなかった朝鮮民画の芸術的価値を認識し、初めて美術評論の対象に引き上げたという評価も受けている。この功労で柳は日本人では初めて1984年、韓国政府から文化勲章を受けた。

  美術界関係者は「韓国にある民画は滑稽と破格、土俗性という評価を受けてきた。これに比べ、柳のコレクションは形態、色感、構図などで芸術的価値が高い作品」と話している。

  今回展示される作品は「虎鵲図」「山神図」「文字図」など柳が設立した日本民芸館所蔵70点と倉敷民芸館、京都の高麗美術館、奈良の天理博物館など5つの博物館が所蔵してきた民画だ。

  日本民芸館の尾久彰三主任学芸員は「朝鮮民画は最近フランスで展示会が開かれるなど国際的にも注目されているが、柳がその基礎を整えたと思う」と話している。

  一方、国内の一部では「柳が朝鮮の美を可憐の美、哀傷の美としたため、高句麗(コグリョ)美術などに見られる力と進取的気性は無視され『韓国=恨の美学』という固定観念が形成される否定的影響を残した」と批判している。

出典:  中央日報/中央日報日本語版 2005年08月24日14時40分)
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2012年01月12日

いま改めて柳宗悦を想う

1910年の「韓国併合」をもって日本の植民地下におかれた朝鮮では1945年の日本の敗戦に至るまで様々な形での「民族自立」「独立運動」が展開されたが、その中でも最も激しく闘われたのが「三・一独立運動」だった。
朝鮮総督府は日本からの軍隊派遣を得て徹底した武力弾圧で臨み平定したが、日本国内ではメディアはもちろんのこと、知識人の圧倒的多数が植民地史観から、単なる「暴徒」といった捉え方で終始する中、ひとり柳宗悦だけは「朝鮮に就て経験あり知識ある人々の思想が殆ど何等の賢さもなく深みもなく又温みもないのを知って、余は隣邦人の為に屡(しばしば)涙ぐんだ」と、当時の『読売新聞』に「朝鮮人を想ふ」として5回にわたるエッセーを記し、日本の対朝鮮政策への徹底批判を展開したのだった。
この「朝鮮民族の自由と独立」を熱く語る柳の言説に接近することなくして、美術工芸への真の理解もまた閉ざされてしまうのではないのだろうか。
今回のソウルでの企画展を通し、美術工芸分野における日朝関係史にあらためて光を当て、これからの北東アジアにおける美術工芸の在り方を模索していく契機になることを期待したい。
最後に関連して浅川巧(1981-1931)という人物についても少し触れておきたい。
朝鮮統治下、朝鮮の山の緑化を進めながら、一方で朝鮮の工芸の美を発見し、柳宗悦に大きな示唆を与えたと言われる人だ。(彼がゐなかったら朝鮮に対する私の仕事は其半をも成し得なかった」 『工芸』31年5月号)
当時朝鮮では植民者、日本人へは怨嗟の目で見られているなかにあって浅川は貧しい学生を援助したり、達者な朝鮮語を操りながら朝鮮の伝統服チョゴリ・パジを着用するなどの同化ぶりで、ついには柳とともに「朝鮮民族美術館」を設立する。
42歳で朝鮮の地に埋葬されるときも、多くの朝鮮人に担がれ運ばれていったと言われるほどに、朝鮮人を愛し、愛された希有な日本人だった。
また巧は『朝鮮の膳』を著すなど、朝鮮の木工芸へも魅入られ研究している。
この巧の兄、伯教(のりたか)は日本統治下の朝鮮で高麗青磁の復活のために尽力し「朝鮮陶磁器の神様」といわれるほどの人物。
巧の長女園絵は柳が設立した日本民芸館に所属して柳の事業を助けた。
他国との交流、国際化などという事業も、決して大文字で書かれるようなものだけではなく、実はこうした他国、隣国への個人の思いと、身を賭した理解と研究といったことなどが深く強い絆になるのだという実証を示してくれていると言えるだろう。

出典: 工房通信 悠悠
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2012年01月09日

平和を希求した柳の思想

 「日韓文化交流と柳宗悦」と題した座談会では、李進熙(イ・ジンヒ)・和光大学名誉教授、姜尚中(カン・サンジュン)・東京大学大学院情報学環教授、水尾比呂志・日本民藝協会会長が発言した。
 李進熙さんは、「半世紀以上前になるが、1954年に神田の古本屋で柳さんの『朝鮮とその藝術』に出会い、戦前に書かれた序文『軍国主義を放棄しよう。我々は人間らしく生きよう。朝鮮の人を踏みつけたら世界の敵となるだろう』との文を読み、軍国主義の時代にこれだけの事を書いた人がいたことに衝撃を受けた。そして柳先生の思想、柳先生が見出した朝鮮の美を理解したいと思いつめた。しかし、日本民藝館に行っても、先生に声をかける勇気がなかった。先生が亡くなったと知った後、一周忌に線香をあげにいって、夫人の柳兼子さんと知り合いになった」と振り返った。そして、「柳は1916年、釜山にある新羅時代の仏像を見て、こんなすばらしい文化を作る民族を支配するのは間違いだと言った。柳は朝鮮民芸に触れる中で、朝鮮美を再発見した。『朝鮮の美は悲哀の美』と表現した文について70年代に韓国で批判が出たが、それは柳の一部分だけを見ての批判だった」と強調した。
 姜尚中さんは、「日曜美術館というNHKの番組で司会を担当しているが、女性陶芸家のルーシーリーの特集で、彼女が朝鮮白磁の大壺を愛し、大切にしていたことを知った。柳は朝鮮に対する愛を持ち続けた。柳の朝鮮文化についての論評は、韓半島の人々が自己理解を深める機会にすればいいと思う」と述べ、「韓日は消費水準も生活様式も似通っている。年間500万人近くが相互往来する関係は世界的にも稀だろう。デジタル文化の交流も行われているし、日本の現代文学は韓国で盛んに翻訳されているが、韓国の現代文学は日本であまり紹介されていない。映像文化に劣らず活字文化も多く紹介されることが、今後の交流促進の課題ではないか」と述べた。

 水尾比呂志さんは、「柳は『いいものはいい』の信念で、対立でないもの、対立を越える生き方を求めた。その思想は未来の参考になると確信する」と締めくくった。 

出典:東洋経済日報 (2010.6)


     




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2012年01月04日

謹賀新年 2012




昨年は大変お世話になりました。
今年一年が平和な安心な年になりますよう、
心よりお祈り致します。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。 

yanagi no kai

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2011年12月26日

なぜ、0・23マイクロシーベルトを基準にするのか

今回、放射能被災の重点地区と指定されたのは平均的な放射線量が1時間当たり0.23マイクロシーベルト以上の地域が対象となった。  1年間に受ける被ばく線量で、自然被ばく線量及び医療被ばくを除いたものを追加被ばく線量と言い、長期的には年間1ミリシーベルト以下にすることが国の方針で示されています。市もこの数値以下にすることを、市除染実施計画の最終目標としています。  この年間1ミリシーベルトを1時間当たりに換算すると、0.19マイクロシーベルトとなります(補足1)。そこに、自然被ばく線量のうち大地からの分0.04マイクロシーベルトを加算し、0.23マイクロシーベルトとなります(補足2)。 (補足1)   1日のうち屋外に8時間、屋内(遮へい効果(0.4倍)のある木造家屋)に16時間滞在するという生活パターンを仮定。 毎時0.19マイクロシーベルト×(8時間+0.4×16時間)×365日=年間1ミリシーベルト (補足2)  シンチレーション式(補足3)の測定器による空間線量率の測定では、事故による追加被ばく線量に加え、自然界からの放射線のうち大地からの放射線分が測定されるため、その分を毎時0.04マイクロシーベルトと国が示しています。 よって、「毎時0.19マイクロシーベルト+毎時0.04マイクロシーベルト=毎時 0.23マイクロシーベルト」が、追加被ばく線量年間1ミリシーベルトにあたります。 (補足3)  光る物質を総称して「シンチレータ」といいます。シンチレーション式は、これらの物質が放射線を受けたときに発光する性質を測定に利用します。物質の種類によって放射線を受けたときの光り方に違いがあるので、それらを使い分けることでさまざまな種類の放射線をはかることができます。  シンチレーション式では測定された放射線の個数とともに、発光信号の強さで放射線のエネルギーも同時に測定することができるものもあります。  

• 1 Sv = 1000 mSv(ミリシーベルト) = 1000000(100万)μSv(マイクロシーベルト) 一度に2 Sv(= 2,000 mSv) の放射線を全身に浴びると5%の人が死亡し、4 Sv (= 4,000 mSv) で50%、7 Sv (= 7,000 mSv) で99%の人が死亡すると言われている。 一方で、0.2 Sv (= 200 mSv = 200,000 μSv)以下の被曝では、急性の臨床的症状は認められないとされる。しかし、長期的な影響について議論があり、また低線量の被曝についても「健康被害が生じた」として訴訟が起きている なお、市川市、船橋市は指定への打診をうけたが、申請していない。 文部科学省が東京の人々について、平均的な放射線量を算出で試算数値があります。3月14日以降の約1ヶ月で通常時の平均値分を除くと、体の外からは約16マイクロシーベルトと計算されます(1日8時間屋外に居たとして)。そこに、体の中に取り込んだ放射性物質も加えて計算しますので、下記のように考えています。 そもそも、測定数値を軽微にみて、マイクロスポットを測定するようなグループが存在しないと行政主導では、細かいエリアを測定してこないので、平均的な概算は低くなっていると思われます。

さらに、放射性物質を体の中に取り込むことによって受ける放射線量は水、食べ物、呼吸の3つについて考えます。 @水道水から受ける放射線量は、1日あたり1.65リットルの水道水を飲んだとして、東京都が発表したデータを用いると約10マイクロシーベルトと計算されます。 A食べ物中の放射性物質から受ける放射線量は食事の習慣や量などで個人差が大きく、さらに難しい推定となります。ここでは仮に、1キログラム当たりのヨウ素-131、セシウム-137、セシウム-134の濃度がそれぞれ20、1、1ベクレルの牛乳、それぞれ2、1、1ベクレルの魚、それぞれ150、10、10ベクレルの野菜を約1ヶ月間、毎日食べたとします。これによる放射線量は約69マイクロシーベルトと計算されます。

B空気中の放射性物質を吸い込むことによる放射線量は、1日あたり22.2立方メートルの空気を吸ったとして、東京都が発表したちりの中の放射性物質のデータを用いると約21マイクロシーベルトと計算されます。

@ABと体の外に受けた数値を足しあわせると約1ヶ月間で約120マイクロシーベルトを受けたことになります。 この放射線量は、東京−ニューヨーク間を飛行機で往復するときに浴びる放射線量の上限よりも少なく、健康に影響を与えるレベルではありません。 参考:放射線医学総合研究所「被曝に関する基礎知識」

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2011年07月06日

福島の健康リスクアドバイザー山下俊一先生へ、辞任要求が

山下俊一教授、チェルノブイリでも働いていた。二本松で語る(5月3日) <iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/7364GahFWKI" frameborder="0" allowfullscreen></iframe> これは静かなる戦争と考える。国に与えられた指針に従ってどうするか。福島を無にしない。絶対にこの子たちが暮らせるようにするか。広島長崎は、皆さんを一生懸命助けます。 同じ坊行リスク基準値でも、一度の100ミリシーベルト以上の高度線量を浴びるのと長年にわたって低線量を100ミリシーベルトを累積的に浴び続けるのはまったく違う。二十歳すぎは発癌リスクに関わらないという確率は低くなる。 チェルノブイリ、10マイクロシーベルト/H、で5/1のメイデー行進をして、汚染食品を飲食した。 セシウム137は感度が半減期30年、カリウム47と似ていて代謝される。 いいために計れるが、 福島20マイクロシーベルト/H <iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/ZlypvPRl6AY" frameborder="0" allowfullscreen></iframe> 先生の言葉を信じて、ここにいます。先生の話が変わってきたように思う。10マイクロシーベルト、1マイクロシーベルトでは大丈夫ですよと言ってきた。20μシーベルトなら布団を干して大丈夫です。3.8マイクロシーベルトの二本松は全く大丈夫です。伝えたい根拠は現実をどう見るかです。正しい診断をするために、数年たってしまってどうなるのか、分からない。 非常時の100ミリシーベルト/Hの積算線量、リスクぎりぎり。先生、でもヨウ素6200ベクレルも出ている、指示が出されたときには、マスクをつけずに知らないでいた。内部被曝は少ないと言われても、子供は土にねっ転がったり、土埃が舞い上がるるのを吸う。20ミリシーベルで疑問になる。放射線ヨウ素の心配、目の前に放射性物質がある中で生活しなくちゃならないというのが、こういう生活で我慢するのが必要なのか。数値をさげるように国に伝えるように言って欲しい。 過去の積算がされていない、3月12日と積算の計算がされる、ようになる時にわかる。先生は20ミリシーベルと国に従うしかないというだけでなく、それを変えるようい提案してもらうことはないか。10ミリシーベルトというが、自主避難でなく、そうした際の保障をして退避が出来るように国に話してもらえないか。 非常時、数日中に手段が取られるようにとおもう。私としては整合性、をどう取るかはこれからの事だと考える。 チリ、水、空気、その総合。内部被曝を分けて計算できない、複合的な計算できる。100ミリシーベルト、先生には0.5~1%リスクが高まるというだけだが、出来るだけ安全を守るようにしてほしい。 Y:安心はひとりひとり違う、安全は誰がみても安全。基準値、3.8の行動規範。 放射能セシウム、内部被曝の結果を出しにくい。 内部と外部被曝を分けられない。いろいろな考え方があるので答えられません。 被災地区の質疑をするうちに、被災者の心情、実態にそぐわず、しばらくしてリスクアドバイザーを降りることになった。
posted by その木なんの気、柳の気 at 20:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする