関東大震災の折に、朝鮮人に対するあらぬ疑いによって各地で殺傷事件が多発する事態もおきたと言われる。この事件を記録したものは、なかなか表出されないので研究も進まないが、流山市でこの事件の詳細を調べている辻野さんのことを知った。我孫子市でも、辻野さんの知り合いの方から、同様の殺傷事件がおきて処罰されたのだということだ。忘れてはいけない史実であり、災害時ではあっても、偏見と誤解でこのようなことは二度と起きてはならない。
* * *
隈本ゼミ(江戸川大学)では、福田村事件についての著書を2013年に出された辻野弥生さん(千葉県流山市在住)に直接お話を伺った内容をHPで紹介していた。
長年にわたって関係者以外にはほとんど知られていなかったこの事件について、いま改めて書籍にした理由はなんだったのか、インタビューでお伺いしてみた。(2015年1月13日)
――そもそも福田村事件を調べようと思った最初のきっかけはなんだったので
すか?
辻野さん:それはですね、私が所属している「流山市立博物館友の会」という文化団体があるのですが、そこから毎年1回「東葛流山研究」という研究誌を出しているんですね。その研究誌の編集長から関東大震災後に起きた流山市での朝鮮人虐殺事件について書いてくれと言われたことがきっかけです。詳しいことを誰かが書かなければ証言者がいなくなるということで、編集長から私に依頼がありました。私には荷が重かったんですけどね。
それで書こうとしたときに、野田市にお住まいの知り合いの方が「野田市でも別の事件があった」と教えてくださったんです。その方は「野田の人間には書けない話なので、流山のあなたがしっかり書いてほしい」と言って、福田村事件の資料を持ってきてくださったんです。そういういきさつで、私はそこで初めてこの事件のことを知ったのです。
――その流山の研究誌の編集長の方がご存知だったということですか?
辻野さん:いえ、編集長も福田村事件のことはご存知なかったようです。その時点ですでに知られていた流山での(朝鮮人虐殺)事件を知る方がだんだん亡くなっていくので、証言者が生きていらっしゃるうちに早く書かないと、ということだったんですけど、それがきっかけで福田村事件という思わぬものが出てきたんです。
――ではその野田在住の方はどこで知ったんでしょうね?
辻野さん:その方は地元出身の方で、学校教育に携わっていた方なので、聞き伝えでご存知だったのだと思います。
――そうですか。そうすると、あまり語られない地域の歴史ではあるものの、その方はご存知だったということなんですね。
辻野さん:そうですね。だから、この事件は「地元でも知っている人は知っている」という事件だったんですよね。
――なるほど。ということで、そうやって地元の方から資料が持ち込まれたところから取材が始まったわけですね。どのような取材をしていったのですか?
辻野さん:取材は、まず『いわれなく殺された人びと』という本を出された「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の方たちとの交流から始めました。そしてこの事件を掘り起こされた香川県の郷土史研究家、石井雍大先生とも知り合ったんです。
難航した地元での聞き取り調査
――(現在慰霊碑のある)圓福寺のご住職の方にインタビューしたことが本に書いてありますね。
辻野さん:はい、私がお訪ねをしてご住職に「福田村事件について詳しいことが聞きたいのですが」と言ったら急に厳しい顔つきになられました。「それはいけません」と言われて。何度も「お帰りください」って言われました。ですが、ここで下がったら証言は一つも取れないと思いまして「ご迷惑になることはしませんから」と食い下がりました。すると「じゃあ奥の方へ」と言われて、やっとお話を聞けたんです。そこで圓福寺では犠牲になった9人の方の供養しておられることを知りました。その時まで私は、このご住職と石井雍大先生との関係を知らなかったんです。あとで石井先生に聞いたら、石井先生がご住職にお願いして、供養されることになったらしいです。
――やっぱりご住職は、本当は事件について聞いてほしくなかったという感じがあったんですか?
辻野さん:当然でしょうね。最初にお話を伺った時の様子が未だに忘れられないです。ですが、その後は、お手紙をくださったり、のちに「ぜひまたいらっしゃい」とか言ってくださったりしたんですよ。
――ご住職の方はこの事件についてどのように考えてらっしゃったんですか?
辻野さん:「お祭りの時のような、やっちゃえやっちゃえといった感覚で人を殺すのはよくない、宗教者の務めとして、地域住民のプライバシーを守りながら、二度とこのような暴力的な事件を起こさない方向に心を導くことです」と語られました。とても思慮深く進歩的な方でした。
――だから協力もしてくださったんですね。他にはどんな証言者の方とお会いになったのですか?
辻野さん:そうですね。実はいろんな人に片っ端からお電話したんですけど、ほとんどの人が何も話してくれませんでした。
――そうですか。事件からもうこんなに時間が経っていても?
辻野さん:ええ、電話では対応してもらえないので、お手紙を書いたりしたんですが、記事に採用できるような内容は得られませんでした。例えば、「あの人なら証言をしてもらえるはずですよ」と紹介してもらっても、電話してみると、「何言っているんだ!」という感じで怒鳴られたりしました。お会いする約束をしていながら、直前に連絡が途絶えた人もいました。やっぱりいざ活字にされちゃうと思うとみんな黙っちゃうんですよね。
――野田市に住んでいて、ある一定年齢以上の人は、目撃したり親から聞いたことがある話なんでしょうか?
辻野さん:それは、すごくまちまちですね。ご高齢の方といっても、例えば85歳の方にお電話したら、この事件について知ったのはほんの15年前だと。つまり知っていた人もいれば、知らない人も沢山いた。あまりにもおぞましい事件なので、たとえ知っていても、しゃべってはいけないという空気があって伝わらなかったのでしょうね。
――野田市役所の対応もたいへん消極的で、それがあの慰霊碑の問題にもつながっていくわけですね?
辻野さん:ええ。そうなんですよね。香川県側の「千葉福田村事件真相調査会」や、野田市側の「福田村事件を心に刻む会」が協力して慰霊碑はなんとか出来上がったんですが。
――慰霊碑の裏には、9人の方が亡くなった「理由」が書かれていないんですよね?
辻野さん:ええ。石井雍大先生たちが「この人たちは、いわれなくして殺されました」ということをちゃんと書いてほしいと要望したんですけどね。結局いまは慰霊碑のその部分は空白になってるんですよね。いつか書いてほしいと私は思うんですけどね。
山田昭次先生(※)も国家責任の問題があるのに、国として謝ったりもしないし調査もしないと常に憤っていらっしゃるんですよ。だからこの朝鮮人虐殺は国としては今でも未解決のままなんですよね。
(中略)
――また、当時のメディア(新聞・雑誌)も、それまで朝鮮での暴動とか反日運動とかは報道してましたから、当時のメディアに接している国民も漠然たる不安感というものはあったと思いますよね。
辻野さん:そうですよね。当時のメディアも今ほど発達もしてなければ情報公開もない時代ですのでね。みんながデマを信じちゃっても仕方ないかなと思います。
――この事件は、関東大震災の後2.3年の間は新聞などにも掲載されたのですね?
辻野さん:そうですよね。私も地元では個別の証言がなかなか取れないので、千葉の県立図書館に何日も通って当時の新聞を一つ一つ調べました。そこの図書館は、筆記用具持ち込みは禁止なので弁当を持って通い、そこからこの情報を拾い出したんです。
――当時の新聞が、図書館にはあったのですか?
辻野さん:ありました。マイクロフィルムになっています。少しずつ紙面を繰りながら、ここだと思ったところで止めればコピーが出来るようになっています。そして、コピーしたのをもとにこの本をまとめたのです。証言してくださる方が少ないので、結局ほとんど新聞から拾いました。調べたのは東京日日新聞です。いまの毎日新聞にあたります。
――こうして誰かが記録しないと忘れられてしまいますよね。地元にとってあまり都合のいい話ではないですからね。
辻野さん:そうですね。でも起こったことをなかったことにはできませんから。野田の方で、この本は読みたくもないって言う人もいました。
今の日本人は歴史を知らなすぎる
――この本を書こうとしたきっかけは?
辻野さん:ある在日韓国人のミュージシャンの歌を聴いて、その歌と演奏があまりにも素晴らしかったので、こちらの地元にお呼びして3回くらいコンサートをやったんですね。そのコンサートでは、そのミュージシャンが、日本でものすごくいじめられていたことを話すんです。友達が自殺したとか、すごい話を歌の合間に何度も話すんです。そしたらコンサートを聞きに来た人の中に「なんであの人は日本の悪口を言うんだろうね」「そんなに嫌なら自分の国に帰ればいいのに」と言っているのを聞いたんです。私はそれを聞いてびっくりしました。「ああ今の日本人は歴史を知らないんだな」と思い、やはり本を書かなければと思いました。
――いまの日本人には、在日韓国・朝鮮人の人たちへのヘイトスピーチに走るひともいますね。
辻野さん:そうですね。嫌韓・嫌中などといった書籍も目立ちますね。戦時中、旧満州での暮らしを体験した山田洋次監督は「植民地の収奪の上に僕らの豊かな暮らしが成り立っていた。日本人がどれほど中国人を侮辱していたかを肌感覚として覚えている…」と、毎日新聞紙上で語られていました。
――辻野さんはもともと取材をするお仕事をされていたんですか?
辻野さん:ええ。地域の下請けリポーターとして、タウン誌や千葉日報に100人あまりものインタビュー記事を書きました。
――そういうお仕事を引き受けるきっかけというのがあるんですか?
辻野さん:そうですね。まず、流山市立博物館友の会と出会い、編集長に「文章がうまいね」と、ほめていただき、色々なチャンスを与えていただきました。野田や柏のタウン誌をきっかけに、どんどん広がっていきました。
――昔からジャーナリストになりたかったとか?
辻野さん:そうではないですけど、書くのは好きで、10年間くらいレポーターをやりました。柏二番街のホームページの記事を担当したりもしました。
ちなみに元毎日新聞記者だった弟は、自分の本の売り上げすべてを、昔日本が迷惑をかけたことへのせめてもの償いとして中国に全額寄付しました。退職後も中国と交流を続け、歴史や平和についての講演を行ったりしています。
――本を出したことの反響はありました?
辻野さん:そうですね。色々な感想がたくさん来ましたけど、ある人からは「よくぞ書いてくれた」と言われました。また「よくこんな本を出しましたね」とも言われました。「こんな本」といわれてしまう理由はやはり、被差別部落のことに踏み込んだことと、地元でタブーとされていたことを掘り起こしたことでしょうね。でも褒めてくれる人もたくさんいました。私はいろんな方の資料を駆使して書かせていただいたのですが、やっぱり香川の石井先生や真相調査会の中嶋忠勇さんには、言葉につくせないほどお世話になりました。
――「よくぞ書いてくれた」という一方で「よくこんな本を・・」って言われる意味はなんとなく分かりますね。普通の常識からいえば、まず手を出さない方が身のためと思う人が多いでしょうから。
辻野さん:そうですね。一冊の本になるとは誰も思ってなかったでしょうから。だから出版できた時には大勢の人に祝ってもらいました。
――本の表紙に使われている慰霊碑の写真は、刻まれたお名前の名字の部分をぼかしてありますね。
辻野さん:そうです。表紙をどうするか迷っていたら、崙書房の編集長が、これがいいんじゃないかと言ってくださいました。加害者も被差別部落の被害者も、本の中ではすべて仮名としました。でも慰霊碑には本名が書いてあります。香川の地元では被害者の方もほとんど亡くなられ、子孫の方なども散り散りでお話も聞けませんでした。
――あの時は集団心理が働いたんですかね?お祭り騒ぎのような。
辻野さん:いちおう朝鮮人と間違えて殺したということになっていますが、念仏を唱えたり、国歌を歌ったりして日本人であることを訴えたわけですから、もしかして日本人とわかったのに、行商人に対する差別意識などが働いて、やっちゃえということになったとも考えられます。やはり人を差別する意識があったのでしょう。それが殺人にまで至るとはねえ。でも人を差別する心理は誰にでもある気がします。それが大きくゆがんだときにこのような恐ろしいことが起こるんですね。
例えばヘイトスピーチをやっている人たちも、優越感みたいなものを持っていますよね。それも小さな差別の根っこだと思います。その根っこは誰しも持っていると思うので、行動を間違わないためにやはり学習しないといけないと思います。私はあの慰霊碑の前でそういう人権学習をしてほしかったです。野田市の人たちがこの慰霊碑を素材に人権を学ぶ取組をしてほしかったです。でもそこまで行っていませんね。
――ヘイトスピーチをやっている人たちも、正義の実現のためと思っていて自分たちは悪くないと思ってやっているという感じがしますね。辻野さんは、野田市に対して、この慰霊碑を使って人権について学んでほしいと言ったのですか。
辻野さん:はい、野田市も何年か前に比べると丁寧に対応してくれるようになりました。でも、有名な映画監督の森達也さんが、この事件をテレビで報道してほしいと企画書を持ち込んだらしいのですが、部落問題が絡んでいるからか放送されなかったそうです。被害者が被差別部落の人ということでマスコミも足踏みしたのだと思います。地元の香川でもあまり報道されなかったようで、そこでも差別を感じさせます。
――やっぱりこのような問題をメディアもしっかり見つめないといけないですね。
辻野さん:そうですね。
――私たちはこう考えています。もし当時、今みたいにメディアが発達していたらこのような震災後の流言飛語による虐殺は起きなかったかもしれない。一方で、関東大震災の前に当時のメディアが繰り返し伝えていたのが、朝鮮半島で起きている抗日運動など朝鮮人への恐怖を煽るような報道でした。だからこの事件を考えることは、メディアの持っている良い面、悪い面両方の勉強の材料になるかと思うのです。
辻野さん:やっぱり情報を鵜呑みにしない心が常にないとね。
――メディア・リテラシーですよね。今回は真実を地道に掘り起こしていく人の努力について生の声を聞かせていただいて大変感謝しています。どうもありがとうございました。