2021年03月26日

What a happy happening ! 

目玉焼きを作ろうとたまごを取って、割りました。するりと二個の黄身がでてきて「あ、ふたご」と驚きました。

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ひとつで二個たべられた、ちょっと食べるのが惜しい気がしましたが、あまりもののニンジンと大根のしっぽで作ったピクルスと一緒にいただきました。

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卵の周りの猪口にあるのは、ニンジンの水栽培です、時々、つまんでスープやサラダの色どりに使ってゐます。ニンジンの香りと味わいが強いので色どりと味のアクセントになります。
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2021年01月07日

『柳宗悦と朝鮮・自由と芸術への献身』

 朝鮮工芸品への愛情、そして日本植民地下にあった朝鮮民族の自由を願った柳宗悦の生涯について、在日2世の美術研究家・韓永大氏の連載「柳宗悦と朝鮮 自由と芸術への献身」をする。これまで未発表の資料も取り入れながら、柳宗悦の全貌に迫る一大企画だ。著者の韓永大氏が、本連載の意図などを寄稿してくれた。

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 アジアとりわけ朝鮮の自由と芸術に深い理解を有していた柳宗悦(1889〜1961)について、本誌に連載することが出来ることは筆者の大きな喜びである。

 柳の朝鮮工芸品への傾倒と愛情、それへの限りない歓びと慰めの感情表現は、柳の重要な一部分である。柳は朝鮮の宗教、特に石窟庵仏教彫刻から深い宗教体験をし、「慄(りつ)然と慄(おのの)きの、霊の異常な閃きを身に感じた」と語っている。こうした点は読者と共に味わいたい大切な点である。

 柳は朝鮮民族には生来、優れた工芸品を生む能力があると指摘した最初の外国人であり、その能力が失われつつあることを「世界的損失」と表現した。

 彼はやがて植民地下にあった朝鮮民族の将来の再生を願って、あらゆる日常生活の工芸品を収集し、ついには朝鮮民族美術館まで設立(1924)したのだったが、妻子の犠牲も省みずこれを成し遂げたこの人物の理想と熱情には、深く心打たれるものがある。

 柳は1914年秋、浅川伯教(のりたか)の訪問を受けたことが縁で朝鮮陶磁への本格的関心を有したとされている。浅川はロダンの彫刻を見に行ったのだが、なぜいきなり初対面の人に数点もの朝鮮陶磁を持参したのか、疑問が残る。

 これは浅川の彫刻の師・新海(しんかい)竹太郎の介在が考えられる。柳が関係していた『白樺』のロダン特集号(1910年11月号)に、新海と柳が共に小論を寄稿するという顔見知りの間柄であり、新海はこの時すでに柳が朝鮮白磁を買う(1909)など柳の朝鮮陶磁への関心を知っており、このことを入門してきた浅川に伝えたためと推測される。

 柳はまた、実践の思想家、行動する哲学者として、「発言の自由のない朝鮮人に代って」行動したことでも知られる。1919年5月の「朝鮮人を想ふ」発表以来、朝鮮の自由と独立を一貫して主張し、時の日本当局の植民地・同化政策を公然かつ大胆に批判し続けた行動の数々は、今さら多言を要しない。『朝鮮とその芸術』序文(1922)は実践家としての柳を象徴するもので、その一文は今なお格調高く力強い。

 柳のこの行動力は叔父の嘉納(かのう)治五郎(講道館柔道で有名)の影響と共に、カントの認識論(いわゆる三批判書)によるものであろう。柳は結婚前、妻となる中島兼子に「カントの認識論に心おどらせて」おり、深い感銘を得たことを告白している。

 柳の東洋とりわけ朝鮮との平和を重視する思想の淵源が奈辺にあるかも謎のままである。筆者はこの点、柳家や嘉納家との間にある勝海舟(1823〜1899)との歴史的な人間関係を看過出来ない。嘉納治郎作(柳の母方の祖父)と海舟とはペリー来航直後の1855年からの古い関係があり、海舟は物的援助を受けている。柳の父・楢悦(ならよし)と海舟とは長崎海軍伝習所以来の師弟で、明治新政府でもその関係は続いた。柳の母・勝子の名は海舟の名に因(ちな)んでいるが、その弟の嘉納治五郎も海舟に親しく指導を受けている。

 治五郎の妻は須磨子だが、その父は竹添進一郎で、朝鮮の甲申政変(1884)の時の日本国公使であり、海舟との関係はやはり親密である。

 この甲申政変に金玉均、朴泳孝らと共に参加しているのが尹致昊(ユンチホ)(1864〜1945)で柳がこの尹致昊に対面(1920)しているところに近現代史上の重要な意味がある。
 柳には海舟の東洋和平の思想が多分に反映されていると考えている。


韓永大;1939年岩手県生まれ。在日2世。上智大学卒。著書に「朝鮮美の探求者たち」(未来社)、訳書に「朝鮮美術史」(A・エッカルト著、明石書店)。美術史学会員。本誌に「新羅・伽耶の不思議」十回連載(2000年2月〜2001年1月)。


出典:東洋経済日報(2004)
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2020年07月07日

柳宗悦の原稿、再発見

民藝研究家、柳宗悦(1889〜1961)が1922年、日本植民地下で光化門が撤去される方針に反対して東亜日報へ送った寄稿文のなかで、日本の事前検閲によって載らなかった内容が見つかった。

「仮に朝鮮が発展して日本が衰退し、日本が朝鮮に併合されて宮城(江戸城)が廃墟となり、代わりにそこへ広大な西洋風の日本総督府の建物が建てられ、あの碧の堀を越えて高い白壁がそびえる江戸城が壊されるのを想像してみよ」

国外所在文化財財団(チェ・ウンチョン理事長)は、柳が光化門撤去に反対し、1922年7月に作成した直筆原稿が、東京の日本民藝館で最近発見されたと7日、本紙に明かした。「失われんとする朝鮮建築のために」という題名のこの原稿は、1922年8月24〜28日、東亜日報1面に5回にわたって掲載され、光化門撤去反対の世論を呼び起こす決定的契機となった。

直筆原稿には、日本の事前検閲によって新聞に載らず、同年日本の雑誌「改造」9月号に載った200字原稿用紙2枚の分量の内容も含まれていた。文化財庁文化財委員長を務める成均館大学のイ・サンヘ名誉教授は「光化門の美しさを追悼するかのような悲しい描写で撤去に反対した柳の文章は、当時の韓国人の琴線に触れた。日本は光化門を壊して朝鮮の象徴を抹殺しようとしていたのをやめ、光化門は元の位置ではないが移動して命は保たれることになった」と話す。

「君(光化門)をよく知っている人は発言の自由がなく、君を生み出した民族の間でも不幸なことに発言の権利を持てないでいる。しかしながら、沈黙のなかで君を葬ってしまうことは私にはとても耐えがたい悲惨なことだ」

柳の原稿は植民地の文化財の運命と国を奪われた者たちの苦痛に深く共感する絶唱だ。柳は日本が朝鮮に併合され、江戸城が壊されるなら「間違いなく日本のすべての人がこの無謀なことに怒りを感じるだろう。しかしながら、このようなことが今京城で、強要された沈黙の中で行われようとしている」と告発した。

柳は「私は君(光化門)を生んだ民族がその堅固な花崗岩の上を深く削って祈念する永遠の彫刻のように、君の名前と姿と霊を決して消えないように刻もう」と書いた。総督府の建物の新築については「何の創造の美も持たない洋風建築が突然この神聖な地に侵攻してきた」と批判した。

朝鮮総督府は1920年代、景福宮興禮門区域を壊して総督府の建物を建てるにあたり、その前をふさぐ光化門を撤去しようとし、結局1926年、景福宮の東側の建春門の北側に移動した。イ・サンヘ教授は「光化門がなくなっていたら、原形の復元は難しかっただろう」と話す。

実際、扁額の変更は4回目だ。1度目は、1950年にはじまった朝鮮戦争で、光化門は爆撃によって焼失してしまった。2度目以降は韓国人のミス。朝鮮戦争でなくなった光化門を建て直したとき、朴元大統領が扁額の「光化門」を、漢字ではなくてハングル文字で書いた。その後、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権のときに「朴正煕が書いた字を外そう」「違和感がある」といった声が上がって、この扁額は降ろされた。3度目の変更は2010年で、そのときは漢字で「光化門」と書いたが、2カ月で大きなひびが入ってしまった。このときは「手抜き工事だったのでは?」と問題になった。さらに「扁額の色がおかしい」という指摘がされる。掲げていた扁額は「白地に黒文字」になっていたが、本来は「黒地に金色の文字では?」という声が上がってきた。韓国文化財庁は、「白地に黒の文字で合っている」と説明していたが、後日談で、文化財庁が「やっぱりこの色じゃなかった。黒地に金色の文字でした。」と認め4回目の変更となった・・・という具合だった。


それでも、国外所在文化財財団は2014、15年に日本民藝館所蔵の韓国の文化財を調査し、その後、東京芸術大学の関連研究を支援してきたおかげで、今回の調査に参加した日本民藝館の杉山享司学芸部長が「日本民藝館の学芸員たちも(柳の直筆)原稿の存在は知っていたが、検閲された部分を把握し、その意味を考察し、確認したのは初めて」と説明した。これに先立って財団は最近、東亜日報に当時の資料(柳の原稿)が存在するのかを問い合わせていた。

(2020年6月8日付東亜日報 チョ・ジョンヨプ記者)

(翻訳・成川彩)


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2018年07月08日

NHKニュース(2001)、兼子さんの歌声発見される

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2018年05月13日

雨の日の出来事@我孫子駅前

 まるで、「我孫子から」を書いた柳宗悦のように、目にした光景を書き留めておきたい気持ちになった。

 母の日、娘は孫を連れてやってきた。この間はまだ、靴を履いてもおぼつかない歩き方だったのに、おっとととなるが随分と上手にあちこち家の中を探検してまわって、ご機嫌に引き出しや棚のモノを手にしては、次々に床にほおり出していく。にこにことご機嫌な笑顔だから、怒るわけにもいかない、小台風がとおりさったかのようだが、他愛無い。皆こんなふうに大きくなるのだ。

 94歳になる母のいる「ゆめみ野」の家にも、曾孫を連れていくという、相変わらず優しい子だと思う。ピアノを弾いたり、日本画を描いたり、海外スケッチ旅行をしたり、90才まで車の免許を更新すると言い張っていた、さすがに自粛したけれど。行けるところが限られて、さすがに生きているのに辛いとも言う時期があったが、それも自粛して、言われた通りのこさず食事・おやつを食べて、時折のデイサービスに出かける。車いすを押して貰うまでになっていないが、手押し車を押してゆっくり歩く。そして、「時間が無駄だからお見舞いなんかに来なくていいよ、でもありがとう、来てくれて、気を付けて帰りなさい」という。もう、会話はいつも同じになってしまう。でも、曾孫を連れてくる新米ママは来月から、職場復帰するという。時代は変わった、男女の関係も、社会の女性へ期待する目も変わってきた。
夫の影を踏まずに歩くなどの意味ももう解釈できる人は、孫を持つ世代でしかわからないだろうし、そんな事をする必要がどこにあったのかわからないだろう。

 しかし、駅前で見た光景は、人の優しさは変わらないのだなと思わせるものだった。

 雨の駅前を傘をさして、窓をおんぶして荷物を山盛り持つ娘を駅の改札まで見送った。そして、道を渡ろうと左右を見極めていると、スーパーの角の段差に気づかず転倒した高齢者がいた。荷物をたくさん持って傘をさしていたから、足を滑らせたようだ。すぐに立ち上がることも出来ない様子を見て、手を貸そうとそちら方向に体が向かうと同時に、高齢者のそば近い所にいた若者がおじいさんに手を貸して体を起こしてあげた。すると私と同時にそれぞれ おじいさんの転倒した姿を認めた人たちが、その人たちの傘の幾つかが動き出して、5、6つ程の傘がおじいさんの周りに輪のように次々に集まってきて、手を貸したり、荷物をおこしたり、「大丈夫ですか」「ありがとう」の言葉が飛び交った。おじいさんがすっかり荷物を手にしたころには、自然に傘が何事もなく、もとの場所に散っていった。我孫子だから、今どきも若者も男性も女性も思いやりの行動を起こす、そうした光景を目に出来る街なんだと、ここに住んでいることに、小雨のお蔭で気づかされたと思ってしまった。

 きっと、柳宗悦は我孫子の家で待つ、新妻・兼子に、車中での微笑ましい光景を話したに違いない。なぜなら、私も娘を送る車を運転してきた夫に、傘が輪のように集まった光景を話したからだ。捨てたものじゃない、世の中に人の優しさが続く限りは・・・。




















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2018年02月19日

日本人は歴史を知らなすぎ、事の正否を自ら判断するメディアリテラシーが必要

関東大震災の折に、朝鮮人に対するあらぬ疑いによって各地で殺傷事件が多発する事態もおきたと言われる。この事件を記録したものは、なかなか表出されないので研究も進まないが、流山市でこの事件の詳細を調べている辻野さんのことを知った。我孫子市でも、辻野さんの知り合いの方から、同様の殺傷事件がおきて処罰されたのだということだ。忘れてはいけない史実であり、災害時ではあっても、偏見と誤解でこのようなことは二度と起きてはならない。

     *   *   *

隈本ゼミ(江戸川大学)では、福田村事件についての著書を2013年に出された辻野弥生さん(千葉県流山市在住)に直接お話を伺った内容をHPで紹介していた。


長年にわたって関係者以外にはほとんど知られていなかったこの事件について、いま改めて書籍にした理由はなんだったのか、インタビューでお伺いしてみた。(2015年1月13日)

――そもそも福田村事件を調べようと思った最初のきっかけはなんだったので

すか?

辻野さん:それはですね、私が所属している「流山市立博物館友の会」という文化団体があるのですが、そこから毎年1回「東葛流山研究」という研究誌を出しているんですね。その研究誌の編集長から関東大震災後に起きた流山市での朝鮮人虐殺事件について書いてくれと言われたことがきっかけです。詳しいことを誰かが書かなければ証言者がいなくなるということで、編集長から私に依頼がありました。私には荷が重かったんですけどね。

それで書こうとしたときに、野田市にお住まいの知り合いの方が「野田市でも別の事件があった」と教えてくださったんです。その方は「野田の人間には書けない話なので、流山のあなたがしっかり書いてほしい」と言って、福田村事件の資料を持ってきてくださったんです。そういういきさつで、私はそこで初めてこの事件のことを知ったのです。

――その流山の研究誌の編集長の方がご存知だったということですか?

辻野さん:いえ、編集長も福田村事件のことはご存知なかったようです。その時点ですでに知られていた流山での(朝鮮人虐殺)事件を知る方がだんだん亡くなっていくので、証言者が生きていらっしゃるうちに早く書かないと、ということだったんですけど、それがきっかけで福田村事件という思わぬものが出てきたんです。

――ではその野田在住の方はどこで知ったんでしょうね?

辻野さん:その方は地元出身の方で、学校教育に携わっていた方なので、聞き伝えでご存知だったのだと思います。

――そうですか。そうすると、あまり語られない地域の歴史ではあるものの、その方はご存知だったということなんですね。

辻野さん:そうですね。だから、この事件は「地元でも知っている人は知っている」という事件だったんですよね。


――なるほど。ということで、そうやって地元の方から資料が持ち込まれたところから取材が始まったわけですね。どのような取材をしていったのですか?

辻野さん:取材は、まず『いわれなく殺された人びと』という本を出された「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の方たちとの交流から始めました。そしてこの事件を掘り起こされた香川県の郷土史研究家、石井雍大先生とも知り合ったんです。


難航した地元での聞き取り調査

――(現在慰霊碑のある)圓福寺のご住職の方にインタビューしたことが本に書いてありますね。

辻野さん:はい、私がお訪ねをしてご住職に「福田村事件について詳しいことが聞きたいのですが」と言ったら急に厳しい顔つきになられました。「それはいけません」と言われて。何度も「お帰りください」って言われました。ですが、ここで下がったら証言は一つも取れないと思いまして「ご迷惑になることはしませんから」と食い下がりました。すると「じゃあ奥の方へ」と言われて、やっとお話を聞けたんです。そこで圓福寺では犠牲になった9人の方の供養しておられることを知りました。その時まで私は、このご住職と石井雍大先生との関係を知らなかったんです。あとで石井先生に聞いたら、石井先生がご住職にお願いして、供養されることになったらしいです。

――やっぱりご住職は、本当は事件について聞いてほしくなかったという感じがあったんですか?

辻野さん:当然でしょうね。最初にお話を伺った時の様子が未だに忘れられないです。ですが、その後は、お手紙をくださったり、のちに「ぜひまたいらっしゃい」とか言ってくださったりしたんですよ。


――ご住職の方はこの事件についてどのように考えてらっしゃったんですか?

辻野さん:「お祭りの時のような、やっちゃえやっちゃえといった感覚で人を殺すのはよくない、宗教者の務めとして、地域住民のプライバシーを守りながら、二度とこのような暴力的な事件を起こさない方向に心を導くことです」と語られました。とても思慮深く進歩的な方でした。


――だから協力もしてくださったんですね。他にはどんな証言者の方とお会いになったのですか?
辻野さん:そうですね。実はいろんな人に片っ端からお電話したんですけど、ほとんどの人が何も話してくれませんでした。

――そうですか。事件からもうこんなに時間が経っていても?

辻野さん:ええ、電話では対応してもらえないので、お手紙を書いたりしたんですが、記事に採用できるような内容は得られませんでした。例えば、「あの人なら証言をしてもらえるはずですよ」と紹介してもらっても、電話してみると、「何言っているんだ!」という感じで怒鳴られたりしました。お会いする約束をしていながら、直前に連絡が途絶えた人もいました。やっぱりいざ活字にされちゃうと思うとみんな黙っちゃうんですよね。

――野田市に住んでいて、ある一定年齢以上の人は、目撃したり親から聞いたことがある話なんでしょうか?

辻野さん:それは、すごくまちまちですね。ご高齢の方といっても、例えば85歳の方にお電話したら、この事件について知ったのはほんの15年前だと。つまり知っていた人もいれば、知らない人も沢山いた。あまりにもおぞましい事件なので、たとえ知っていても、しゃべってはいけないという空気があって伝わらなかったのでしょうね。

――野田市役所の対応もたいへん消極的で、それがあの慰霊碑の問題にもつながっていくわけですね?

辻野さん:ええ。そうなんですよね。香川県側の「千葉福田村事件真相調査会」や、野田市側の「福田村事件を心に刻む会」が協力して慰霊碑はなんとか出来上がったんですが。

――慰霊碑の裏には、9人の方が亡くなった「理由」が書かれていないんですよね?

辻野さん:ええ。石井雍大先生たちが「この人たちは、いわれなくして殺されました」ということをちゃんと書いてほしいと要望したんですけどね。結局いまは慰霊碑のその部分は空白になってるんですよね。いつか書いてほしいと私は思うんですけどね。

山田昭次先生(※)も国家責任の問題があるのに、国として謝ったりもしないし調査もしないと常に憤っていらっしゃるんですよ。だからこの朝鮮人虐殺は国としては今でも未解決のままなんですよね。

(中略)

――また、当時のメディア(新聞・雑誌)も、それまで朝鮮での暴動とか反日運動とかは報道してましたから、当時のメディアに接している国民も漠然たる不安感というものはあったと思いますよね。

辻野さん:そうですよね。当時のメディアも今ほど発達もしてなければ情報公開もない時代ですのでね。みんながデマを信じちゃっても仕方ないかなと思います。

――この事件は、関東大震災の後2.3年の間は新聞などにも掲載されたのですね?

辻野さん:そうですよね。私も地元では個別の証言がなかなか取れないので、千葉の県立図書館に何日も通って当時の新聞を一つ一つ調べました。そこの図書館は、筆記用具持ち込みは禁止なので弁当を持って通い、そこからこの情報を拾い出したんです。


――当時の新聞が、図書館にはあったのですか?

辻野さん:ありました。マイクロフィルムになっています。少しずつ紙面を繰りながら、ここだと思ったところで止めればコピーが出来るようになっています。そして、コピーしたのをもとにこの本をまとめたのです。証言してくださる方が少ないので、結局ほとんど新聞から拾いました。調べたのは東京日日新聞です。いまの毎日新聞にあたります。

――こうして誰かが記録しないと忘れられてしまいますよね。地元にとってあまり都合のいい話ではないですからね。

辻野さん:そうですね。でも起こったことをなかったことにはできませんから。野田の方で、この本は読みたくもないって言う人もいました。


今の日本人は歴史を知らなすぎる

――この本を書こうとしたきっかけは?

辻野さん:ある在日韓国人のミュージシャンの歌を聴いて、その歌と演奏があまりにも素晴らしかったので、こちらの地元にお呼びして3回くらいコンサートをやったんですね。そのコンサートでは、そのミュージシャンが、日本でものすごくいじめられていたことを話すんです。友達が自殺したとか、すごい話を歌の合間に何度も話すんです。そしたらコンサートを聞きに来た人の中に「なんであの人は日本の悪口を言うんだろうね」「そんなに嫌なら自分の国に帰ればいいのに」と言っているのを聞いたんです。私はそれを聞いてびっくりしました。「ああ今の日本人は歴史を知らないんだな」と思い、やはり本を書かなければと思いました。

――いまの日本人には、在日韓国・朝鮮人の人たちへのヘイトスピーチに走るひともいますね。

辻野さん:そうですね。嫌韓・嫌中などといった書籍も目立ちますね。戦時中、旧満州での暮らしを体験した山田洋次監督は「植民地の収奪の上に僕らの豊かな暮らしが成り立っていた。日本人がどれほど中国人を侮辱していたかを肌感覚として覚えている…」と、毎日新聞紙上で語られていました。

――辻野さんはもともと取材をするお仕事をされていたんですか?

辻野さん:ええ。地域の下請けリポーターとして、タウン誌や千葉日報に100人あまりものインタビュー記事を書きました。

――そういうお仕事を引き受けるきっかけというのがあるんですか?

辻野さん:そうですね。まず、流山市立博物館友の会と出会い、編集長に「文章がうまいね」と、ほめていただき、色々なチャンスを与えていただきました。野田や柏のタウン誌をきっかけに、どんどん広がっていきました。

――昔からジャーナリストになりたかったとか?

辻野さん:そうではないですけど、書くのは好きで、10年間くらいレポーターをやりました。柏二番街のホームページの記事を担当したりもしました。

ちなみに元毎日新聞記者だった弟は、自分の本の売り上げすべてを、昔日本が迷惑をかけたことへのせめてもの償いとして中国に全額寄付しました。退職後も中国と交流を続け、歴史や平和についての講演を行ったりしています。


――本を出したことの反響はありました?

辻野さん:そうですね。色々な感想がたくさん来ましたけど、ある人からは「よくぞ書いてくれた」と言われました。また「よくこんな本を出しましたね」とも言われました。「こんな本」といわれてしまう理由はやはり、被差別部落のことに踏み込んだことと、地元でタブーとされていたことを掘り起こしたことでしょうね。でも褒めてくれる人もたくさんいました。私はいろんな方の資料を駆使して書かせていただいたのですが、やっぱり香川の石井先生や真相調査会の中嶋忠勇さんには、言葉につくせないほどお世話になりました。

――「よくぞ書いてくれた」という一方で「よくこんな本を・・」って言われる意味はなんとなく分かりますね。普通の常識からいえば、まず手を出さない方が身のためと思う人が多いでしょうから。

辻野さん:そうですね。一冊の本になるとは誰も思ってなかったでしょうから。だから出版できた時には大勢の人に祝ってもらいました。

――本の表紙に使われている慰霊碑の写真は、刻まれたお名前の名字の部分をぼかしてありますね。

辻野さん:そうです。表紙をどうするか迷っていたら、崙書房の編集長が、これがいいんじゃないかと言ってくださいました。加害者も被差別部落の被害者も、本の中ではすべて仮名としました。でも慰霊碑には本名が書いてあります。香川の地元では被害者の方もほとんど亡くなられ、子孫の方なども散り散りでお話も聞けませんでした。


――あの時は集団心理が働いたんですかね?お祭り騒ぎのような。

辻野さん:いちおう朝鮮人と間違えて殺したということになっていますが、念仏を唱えたり、国歌を歌ったりして日本人であることを訴えたわけですから、もしかして日本人とわかったのに、行商人に対する差別意識などが働いて、やっちゃえということになったとも考えられます。やはり人を差別する意識があったのでしょう。それが殺人にまで至るとはねえ。でも人を差別する心理は誰にでもある気がします。それが大きくゆがんだときにこのような恐ろしいことが起こるんですね。

例えばヘイトスピーチをやっている人たちも、優越感みたいなものを持っていますよね。それも小さな差別の根っこだと思います。その根っこは誰しも持っていると思うので、行動を間違わないためにやはり学習しないといけないと思います。私はあの慰霊碑の前でそういう人権学習をしてほしかったです。野田市の人たちがこの慰霊碑を素材に人権を学ぶ取組をしてほしかったです。でもそこまで行っていませんね。

――ヘイトスピーチをやっている人たちも、正義の実現のためと思っていて自分たちは悪くないと思ってやっているという感じがしますね。辻野さんは、野田市に対して、この慰霊碑を使って人権について学んでほしいと言ったのですか。

辻野さん:はい、野田市も何年か前に比べると丁寧に対応してくれるようになりました。でも、有名な映画監督の森達也さんが、この事件をテレビで報道してほしいと企画書を持ち込んだらしいのですが、部落問題が絡んでいるからか放送されなかったそうです。被害者が被差別部落の人ということでマスコミも足踏みしたのだと思います。地元の香川でもあまり報道されなかったようで、そこでも差別を感じさせます。

――やっぱりこのような問題をメディアもしっかり見つめないといけないですね。

辻野さん:そうですね。

――私たちはこう考えています。もし当時、今みたいにメディアが発達していたらこのような震災後の流言飛語による虐殺は起きなかったかもしれない。一方で、関東大震災の前に当時のメディアが繰り返し伝えていたのが、朝鮮半島で起きている抗日運動など朝鮮人への恐怖を煽るような報道でした。だからこの事件を考えることは、メディアの持っている良い面、悪い面両方の勉強の材料になるかと思うのです。

辻野さん:やっぱり情報を鵜呑みにしない心が常にないとね。


――メディア・リテラシーですよね。今回は真実を地道に掘り起こしていく人の努力について生の声を聞かせていただいて大変感謝しています。どうもありがとうございました。
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2018年01月31日

スプリング・フォーラム:我孫子から世界へ

先日の『リーチ先生』の原田マハ氏の講演会は、定員の3倍もの申し込みとなったそうで、参加できなかった方のほうが多いということです。そこでリーチの事にも触れながら、100年前の我孫子での芸術家の活動に思いを馳せて、2020へと誘うべく、下記のご案内をいたします。

日時 2 月18 日(日) 午後2 時〜3 時半
         (開場は10 分前から)
場所 市民プラザ 第1 会議室
    我孫子ショッピングプラザ( 旧エスパ) 3 階
      問い合わせ: 我孫子カルチャー&トーク
           Tel:04-7184−9828(海津にいな)

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我孫子から世界へ
バーナード・リーチと柳宗悦・兼子夫妻、嘉納治五郎、志賀直哉ら白樺の文人たちが、手賀沼をみながら暮らした時代を振り返って画像を中心にお話ししていきます。我孫子の春の予感になるように、来場の皆様と”笑顔”になる座談会にしたいと思います。

入場は無料、どうぞお誘い合わせでいらしてください。 (#^.^#)

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2017年02月09日

英国陶芸の父、バーナード・リーチ





Edmund de Waal, British ceramic artist and Professor of Ceramics at the University of Westminster,2011 Order of the British Empire (OBE) for Service to the Arts,worked on a monograph of Leach, researching Leach’s papers and journals in the archive room of the Japanese Folk Crafts Museum,his book ” Bernard Leach” was published in 1998. ”Rethinking Bernard Leach”: Studio Pottery and Contemporary Ceramics, with Kenji Kaneko was Published in 2007. De Waal noted that Leach did not speak Japanese and had looked at only a narrow range of Japanese ceramics、but it was not true. He did not know about years in Abiko artists colony leading Yanagi Muneyoshi.

Attracted by the Prussian philosopher and art scholar Dr. Alfred Westharp, who at the time was living in Peking, Leach moved to Peking in 1915. There he took on the Name 李奇聞 (for "Leach"), but returned the following year to Japan. – It was the year 1919, when young Hamada Shoji visited Leach for the first time. Leach received a kiln from Kenzan and built it up in Yanai's garden and called it Tomon-gama. Now established as a potter, he decided to move to England.

In 1920, before leaving, he had an exhibition in Osaka, where he met the potter Kawai Kanjiro. In Tokyo, a farewell exhibition was organised

Leach was instrumental in organising the only International Conference of Potters and Weavers in July 1952 at Dartington Hall, where he had been working and teaching. It included exhibitions of British pottery and textiles since 1920, Mexican folk art, and works by conference participants, among them Shoji Hamada and US-based Bauhaus potter Marguerite Wildenhain. Another important contributor was Japanese aesthetician Soetsu Yanagi, author of The Unknown Craftsman. According to Brent Johnson, "The most important outcome of the conference was that it helped organize the modern studio pottery movement by giving a voice to the people who became its leaders…it gave them [Leach, Hamada and Yanagi] celebrity status…[while] Marguerite Wildenhain emerged from Dartinghall Hall as the most important craft potter in America."


But in fact the people he was spending time with, and talking to, were very few, highly educated, often Western educated Japanese people, who in themselves had no particular contact with rural, unlettered Japan of peasant craftsmen".

Writings (selected)
•1940: A Potter's Book. London: Faber & Faber
•New edition, with introductions by Soyetsu Yanagi and Michael Cardew. London: Faber & Faber, 1976, ISBN 978-0-571-10973-9
•1985: Beyond East and West: Memoirs, Portraits and Essays. New edition, London: Faber & Faber (September 1985), ISBN 978-0-571-11692-8

Honours
•Japan Foundation Cultural Award, 1974.
•Companion of Honour, 1973 (UK).
•Order of the Sacred Treasure, 1966 (Japan).
•Commander of the Order of the British Empire, 1962.


Souce ;https://alchetron.com/Bernard-Leach-1273834-W
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2016年11月18日

On the beginnings of Mingei at Abiko

YANAGI SOETSU WAS IMPRESSED BY THE WARM, dignified and majestic ceramics of the Joseon Dynasty. His encounter with Joseon crafts became the prologue for the Mingei movement. In Japan, indeed in the world, when talking about Joseon ceramics and crafts, the names of the Asakawa brothers, Noritaka and Takumi, and Yanagi Soetsu cannot be excluded. This is because, until these three met, the general view was that the only Korean crafts deserving recognition, including ceramics, were the Goryeo celadon ware and also some bowls revered by Japanese tea masters that were attributed to the Goryeo period but actually came from the Joseon period.

This view was proven incorrect by the exhibition Art of the Korean People held at the Ryuitsuso Gallery in Kanda, Tokyo, from May 7th-15th, 1921. This exhibition was organised under the auspices of the Korean Folk Art Museum. That little-known museum is the reason why the names of the Asakawa brothers and Yanagi Soetsu cannot be excluded when talking about Joseon ceramics and crafts. The story of how the Korean Folk Art Museum became the crystallisation of the wisdom of the Asakawa brothers and Yanagi Soetsu, is the subject of this article.

In September 1914, Asakawa Noritaka, a schoolteacher in Korea, visited the Yanagi residence in Abiko Chiba Prefecture Japan, for the purpose of viewing a sculpture by Rodin, which had been presented to the Shirakaba group of which Yanagi was a member. Asakawa's present of several pieces of Joseon ceramics introduced Yanagi to Korean pottery.





Gazing at the gift of Korean pottery Asakawa had brought him, Yanagi said "I had never dreamed of discovering in cold pottery such warm, dignified and majestic feelings. As far as I know, the people (1) with the most developed awareness of form must be the ancient Korean people." Two years later in August 1916, Yanagi visited the Korean Peninsula for the first time, to investigate the true beauty of Korean crafts.

Asakawa Noritaka travelled down to Pusan to meet Yanagi and brought him back to Seoul, then known as Keijo. Asakawa wrote in his book Reminiscences of Korea: "In his zeal for Korean crafts, Yanagi has already bought a ferric-oxide decorated vase in Pusan and mailed it back to Japan. Despite the heat here (in Seoul), Yanagi has been doing the rounds of the antique shops and hunting through them every day."

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Yanagi was fascinated by the beauty of form in Korean design and while in Seoul bought many Korean craft objects. But perhaps one of the most valuable things Yanagi was able to obtain on that trip to Korea was his acquaintance and subsequent friendship with Asakawa Noritaka's younger brother, Takumi.

Asakawa Takumi joined his brother Noritaka, who was seven years older, one year following Noritaka's move to Korea in 1914. Resigning from his job with the Akita Prefectural Forestry Office, Takumi found work with the Korean governmental Forestry Office. A devout Christian, as was his brother Noritaka, Takumi followed the missionaries in learning the Korean language and generally assimilating himself in the Korean way of life.

Yanagi enjoyed staying as a guest in Takumi's house. Observing the Korean craft objects which Takumi had acquired while setting up house with his wife, Yanagi experienced astonishment and inspiration in the true beauty of the Korean crafts.

On March 1, 1919, the Mansei Demonstrations or March First Movement (2) (in Japanese Banzai Jiken) occurred. In what he later refers to as "the first thing that I wrote about Korea after realising that there was no one speaking publicly in their defence" Yanagi hastily wrote Chosenjin o Omou (Sympathy Towards the Koreans). This lead to a series of articles being published in the Yomiuri newspaper from May 10 to May 24 that year. Through that series of articles Yanagi was able to express his sincere affection for the Korean people.





In 1920 accompanied by his wife Kaneko, a professional alto singer, Yanagi made his second visit to the Korean Peninsula. With the co-operation of Asakawa Takumi, Yanagi held lectures and Kaneko gave concerts, with the purpose of showing support for the Korean people's situation. The Yanagi's humanitarian acts made a great impression on Korean intellectuals and were received favourably. These positive results prompted Yanagi to consider with Takumi, the proposal of setting up an art museum, to further show support for the Korean people. In the January 1922 edition, Volume 13, Number 1 issue of the Shirakaba magazine, Yanagi announced the official proposal for the museum. The following is an excerpt from that article: "When trying to understand the humanity of any nation, I always think the easiest way is to examine that country's art. I believe it to be even more necessary now, when relations between Japan and Korea are in a pressing situation. If art could be used as a means of understanding, then I am confident that Japan could always remain the warm friend of Korea. I wish for all objects in my possession to belong to everyone. When the heart is consumed with beauty, there can be no thoughts of conflict. I have no doubt in my mind that the day when those excellent works of art of the Korean people will intersect and blend in our hearts, is not far off. I also have no doubt that the creators of those excellent works of art will become our heartfelt friends. To fulfil this hope and conviction, I propose the establishment of the Korean Folk Art Museum. First I intend to amass a collection which is representative of the unique characteristics of Korean folk art. Through this collection in the museum, I hope to convey the beauty of Korea which in turn represents the feelings of the people. It is also my wish that this will serve as a stimulus to promote the continuity and also the revival of the Korean ethnic art. "

Through the success of this exhibition, Yanagi and the Asakawas became confident in their mission and in October of the following year, 1922, were able to have the world's first Joseon Dynasty ceramic exhibition at the Kizoku Kai Kan (Aristocrats' Hall) in Seoul, the first event held under the name of the Korean Folk Art Museum. Finally, in April 1924, the Korean Folk Art Museum was officially opened at Chipkyongdang in the Gyeongbokgung, the main royal palace of the Joseon dynasty, located in Seoul. In the process of establishing the new museum, Yanagi and the Asakawas were repeatedly requested by the Japanese colonial government of Korea to remove the word minzoku, meaning folk or ethnic, from the name of the museum. However, they refused to comply with the request to compromise on this important word in the museum's name. The reason for that is, as Yanagi had stated in his proposal for the establishment of the museum: "It is also my wish that this will serve as a stimulus to promote the continuity and also revival of the Korean ethnic art."

With this important point as a premise in its establishment, the Korean Folk Art Museum was established when Yanagi Soetsu was 35, Asakawa Noritaka 40 and Takumi 33 years old. It is because of this noble ambition, that even though the museum was destined to vanish after fulfilling its historical mission, their achievements are still spoken of with respect and their names have been immortalised.

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Yanagi Soetsu's approach to craft, in particular folk craft or Mingei, was influenced by his experiences during his sojourn in Korea. Through his experience with Korean crafts, especially the beauty of Joseon crafts, Yanagi and the two Asakawa brothers were able to support the Korean people who were forced to endure the oppression of the Japanese rule after Korea's annexation by Japan in 1910.

It was the intention of the Asakawa brothers, Noritaka and Takumi, and Yanagi Soetsu to evoke a sense of pride in the Korean people, by exhibiting the excellent craft articles of the Joseon Dynasty. This intention was realised in the exhibition at the Ryuitsuso Gallery in Kanda, Tokyo, Japan.

REFERENCES:

(1.) 'Abiko kara: Tsushin 1' Shirakaba magazine, vol 5, issue 12, 1914.

(2.) The March First Movement was one of the earliest displays of Korean independence move ments during the Jap anese occupation of Korea. Massive crowds assembled in the Pagoda Park to hear a student, Chung Jaeyong, read the Korean Declaration of Independence.

Victoria Oyama is an Australian potter who spent many years in Mashiko, Japan. This article is written by Shinzo Ogyu and translated by Victoria Oyama. Photography courtesy Nihon Mingeikan.


COPYRIGHT 2008 Ceramic Art
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Resouce:https://www.thefreelibrary.com/The+beauty+of+Joseon+Dynasty+crafts%3A+Victoria+Oyama+has+translated...-a0216897164
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2016年05月23日

昔の手賀沼

宝永のころの地図です

手賀沼 宝永図.gif
posted by その木なんの気、柳の気 at 08:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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