2015年04月19日

Yanagi Muneyoshi and Two bothers met in Abiko, in the early 20C.


Noritaka Asakawa (浅川 伯教 Asakawa Noritaka?, August 4, 1884 – January 14, 1964) and Takumi Asakawa (浅川 巧 Asakawa Takumi?, January 15, 1891 – April 2, 1931) are two brothers who pioneered the study of Korean ceramics, and who worked to preserve and promote indigenous Korean culture. The two brothers were born in Yamanashi Prefecture, Japan, but would move to the Korean peninsula by early adulthood. Noritaka introduced Soetsu Yanagi to Joseon ceramics, and he alongside his brother greatly influenced Yanagi who later stated, "My encounter with Yi (Joseon) Dynasty everyday utensils was a critical one in that it determined the course of my whole life."

During Japan's occupation of Korea, Noritaka was stationed as a Japanese elementary school teacher in present-day Seoul with Takumi being sent there a year later as a forest engineer.The Asakawa brothers alongside Yanagi were critical of the Japanization of Korea during Japan's occupation, and stressed the value and importance in maintaining Korea's native culture. In 1924 the three founded the National Folk Museum of Korea, in Seoul, displaying examples of Korean culture as well as their own research.

Noritaka devoted the remainder of his life to searching for and studying Joseon ceramics. During his lifetime he surveyed 700 sites of old kilns, recovering and classifying enormous quantities of pieces and remnants. A member of the Society for the Appreciation of Korean Arts and Crafts, the essays he wrote appeared in such periodicals as the Shirakaba, the leading literary magazine in his time, and would harbinger appreciation of Joseon ware outside of Korea.Noritaka's body of work continues to receive academic praise to this day. Additionally, Noritaka produced paintings that were often inspired by the Korean artifacts he observed.His brother Takumi would ultimately publish "Survey of Korean Ceramics," an enormously important reference volume that remains in print today, detailing and describing various aspects of Korean ceramics.

Takumi lived as a Korean, and died at the age of 40 after delivering his final words "bury my bones in the land of Joseon." Beloved by the locals he was given a funerary procession, and would posthumously become well known for his work promoting Korean culture, being depicted in the novel "The Man of White Porcelain", by Emiya Takayuki, which is due to be released as a film in 2012. In 2011, Chiba City Art Museum held a special exhibition titled "Asakawa Noritaka & Takumi Brothers: Their Souls and Their Visions" to commemorate the 120th anniversary of Takumi's birth.

Re:
Wikipedia
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2015年03月18日

上野は維新後の時代に最先端をいった

桜の名所として有名な場所といえば、上野公園だろう。江戸時代より、上野の山全域において東叡山寛永寺の造営が始まり境内が公開されると、上野の山は花見の名所として、不忍池は蓮の名所として賑わいを見せた。 しかし、上野の寛永寺は戊辰戦争で全焼し、荒れ果てていた。東京都の管理下に置かれたが、木を切り倒して茶畑や桑畑にしたり、不忍池を埋めて水田にしようという案があるほどだった。そこで文部省がここに医学校と病院を建てる計画を決めた。 ちょうどその頃、上野を訪れる機会のあったオランダの医師ボードインが、まだ十分に残っていた上野の山の自然を見て、いくら学校や病院のためとはいえ、これだけ見事な自然を損なうのはもったいない、これは将来のためにも公園として残すべきだと進言して、すでに始まっていた病院の基礎工事は中止されることになった。上野の山は、維新政府太政官布達により日本で最初の公園のひとつになった。 ボードインがいなければ現在の上野公園はなく、大噴水池の横には、上野公園の生みの親ともいうべきボードインの像が建っている。
国内初の公園に指定されると、荒れた山も整備され、天皇も出席して盛大な開園式が行われた。1876年、日本の西洋料理の草分けである精養軒が築地より移転して、公園開設時より営業する。明治10年(1877)年には日本で最初の博覧会である第1回内国勧業博覧会が開かれ、国内から工芸品八万四千点が展示される。それまでにない博覧会というものに人々は新鮮な衝撃をうけ、五ヶ月で45万人の人出でにぎわう。その後にはお雇い外故国人建築家の設計によって日本で最初の博物館、動物園が開設、国内最大級の文化施設が集積する今日の上野公園を形づくるようになってきた。博物館(現在の東京国立博物館。煉瓦造りジョサイア・コンドルの設計)の開館。初の動物園の開館には、当時91種の動物がいた。東京藝術大学の前身、東京美術学校と東京音楽学校が開校し、多くの芸術家を育てる。
 後に柳宗悦の妻となる、中島兼子も前途有望な音楽学校の学生となった。当然、帝大生だった宗悦は、兼子に会いたさに、何食わぬ顔をして待ち伏せまでしたとのことだ。バーナード・リーチも奇しくも音楽学校に近い桜木町に家を建てて住んでおり、兼子も時々リーチの姿をみていた。
 1883年の上野駅開業後には、上野駅が東北本線の始発駅となったことから、東京の北の玄関口の役割を担うようになり、街も発展した。
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2014年12月24日

柳宗悦はなぜ我孫子に来ることになったのか、『白樺』の中に探る

「我孫子から 通信一」『白樺』大正三年十二月号

「此土地は凡ての無益な喧騒から自分を隔離さして、新しい温情を自分に贈っている。自己の性情を育む上に自然はその最上の風調を示してくれた。今は水も丘も自分の為に静かに横たわっている。家は手賀沼を臨んで木に囲まれた丘の上に建っている。朝日は特に美わしい光と熱とを茲に送る事を愛している。その第一の光線が東の空から破れ出る時山も木も家も凡て甦って見える。又東方一帯の汀が落陽の光華を浴びる時、自然は更に複雑な相を自分に示してくれる。雲の姿も新しい心を含めて大空に漂っている。特に自分の心に日々の黙示を与えているのは東西四里に亘って前に横たわる手賀の沼の水だ。その静穏は限りない深さを示現している。自然は水の静寂にその底知れない偉大な平和を示している。レオナルドーは此深さを愛し、それを芸術に表現した画家だった。茲の自然はレオナルドーが愛したその自然だ。」

 
「我孫子から 通信第二」『白樺』大正四年九月号

 「多くの人は此沼が秋から冬にかけて富岳の姿を映す事を知らないでいる。凡て沼の特質はそれが限りない静穏を示す時に見出されると思う。その時は囲繞(いにょう)する凡ての事物が、その有の儘な心を映している、木々も丘も亦走る雲も凡て此水鏡の静さから洩れる事はない。」 


「我孫子から」『白樺』大正十年四月号

 「一見して平凡に見えるここの自然には年と共に離れられないような気持ちを加えた。…思い出してもここへ来て自然とどれだけ親しい間柄になったかを感謝せずにはいられない。静かな音もない沼の景色は自分の心をはぐくんでくれた。沼の上に永く降り続く雨も、時としては自然の美しい、なくてはならぬ諧調に思えた。月の沼も又となく美しい。私は床に就く時間を幾度か延ばした。…ここは地上の美しい場所の一つだと自分はよく思った。…思想の暗示やその発展に、自分はどれだけ此我孫子の自然や生活に負うた事であろう。静かなもの寂しい沼の景色は、自分の東洋の血に適い、又東洋の思想を育てるに応わしかったと自分は思う。」 

                        ・・・・・・・・・・・・・
 水尾比呂志氏によれば(『評伝・柳宗悦』)、柳に自然の美しさを教えたのは学習院中等学科二年のときに学級担任となった服部他之助(たのすけ)で、夏休みには赤城や尾瀬に連れ出して「自然の浄(きよ)さ」を生徒たちに説いたといいます。最も感化を受けたのが柳で、のちに「浄(きよ)いものの尊さを私の心に知らせて下さった最初の方は先生でした」(「恩師服部先生」)と回顧します。柳はその後も学習院と縁のある猪谷旅館が建つ赤城山を度々訪れており、先の「我孫子から 通信第二」にも、「自分が自然を愛する心を学んだのは年々遊んだあの赤城山に於てだった」と記します。

 その赤城山には大沼があり、「水」というキーワードで手賀沼とつながります。白樺文学館副館長の渡辺貞夫氏は、柳はラフカディオ・ハーンに憧れており、ハーンの愛した松江にも宍道湖の水がある、と指摘をします。渡辺氏は、論語の「子曰、知者樂水、仁者樂山」という一節をひいて、柳は知者ゆえに水を楽しんだ、というのです。

 柳が我孫子を選んだもう一つの大きな理由は東京に近いということを、忘れてはいけないと思っています。それは、柳が自らこう書いていることからも明らかです。
 「手賀沼は東京に最も近い湖水である。夕べ夕べに西一帯の空が赤らむのを見ても、都がどれだけ近いかが知れる。……我孫子への汽車は上野を発して一時間と十五分で来る。直通の列車は僅か四十分を出ない。」(前出「我孫子から 通信第二」)
 いかに自然が美しくとも、深い静穏を示現する沼があろうとも、それが赤城山のように東京から遠い土地であったなら、柳は移ってこなかったでしょう。

出典: 『蘆の髄より』(2005年 楫西 雄介/著)より 抜粋
posted by その木なんの気、柳の気 at 14:07| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月01日

中見真理『柳宗悦』の本、韓国訳

翻訳をされた金順姫氏の思いが、「韓日の狭間におかれた者の思念──中見真理著『柳宗悦 時代と思想』の翻訳を終えて」(「UP」5月号より転載)としてご本人のブログ(2006年5月17日)に掲載があったので、参考になった。是非、そのエピソードをご紹介したい



2003年初夏のこと,日頃親しくしている出版社の社長から電話があり,大学からの帰りに立ち寄った.彼は少々興奮し,まるで宝物を見せるかのような表情で,1冊の本を私に差し出した.中見真理著『柳宗悦 時代と思想』(東京大学出版会,2003)との出会いである.

東京ブックフェアで見つけたと得意げに話しながら「先生,翻訳出版しましょう」と意気込んでいる.表紙からして重みが感じられる本,一瞬たじろいで目次を見てドキリとした.これは筆者がイメージしていた「柳宗悦」ではない.彼に関しては「民藝」と「茶」に関する知識のみの筆者は,あとずさりせずにはいられなかった.

ためらっている筆者に社長は次のように述べて詰め寄った.「金先生から日頃,『柳宗悦を語らずして韓日の関係について語ることは出来ない』と言われていたので,それがすっかり頭に焼きついていました.ブックフェアで一番に目に付いたのがこの本だったのです」.さらに浅川巧の生涯を著述した高崎宗司著『朝鮮の土となった日本人』(増補新版,草風館,1998)と共に,2冊を同時出版したいと言う.難解そうだという不安と内容に対する期待が交錯する中,清水の舞台から飛び降りる心境がこのようなものかと思いつつ,厳粛な思いで翻訳を引き受けることにした.



韓国で柳宗悦が話題に上る時,まず,直面するのはその呼び方である.「やなぎむねよし」と話を始めると,相手は怪訝な顔をする.話の内容から少し納得できたのか,「ああ,ユジョンヨルのことですね」と反応が返ってくる.すると今度はこちらが当惑する羽目になる.「ユジョンヨル」は韓国式の字音読みであるが,何度経験しても未だに慣れない事の一つである.韓国には「ユ(柳)」という姓があり,そう呼びたくなるのはよく理解できるのだが,姓名を重視する韓国人が外国人の名前だと適当に呼んですましてしまうのはどうかと思われる.世間話ではなく,「柳宗悦」に関する話をしているのだから,名前を正しく呼ぶよう注意を喚起したいと思うが,うまく伝わらない.その後の話の流れで「悲哀の美」が出てくると,きまって韓国と日本という両極に分かれた展開となっていくので,かなり微妙な感情が入ることとなる.日本で生まれ育った韓国人である筆者は,柳宗悦の思想をしっかりと把握していなかったこともあって,自ずと慎重な言葉選びとなり,充分に自分の意見を話しきれず,いきおい名前の呼び方についてはいつもそのままにしてしまった.

筆者が初めて柳宗悦を知ったのは中学生の時,国語の教科書を通してであった.光化門を撤去してはならないと主張する彼の「ああ,光化門」は,韓国人である筆者に大きな感動を与えてくれた.その後,大学生になり文学を学びながら柳宗悦の美意識,特に,暮らしの中の実用品に美しさを見つけ,民藝運動を展開した1人の良心的な日本人の生き方に深い関心を持つようになった.韓国に帰国してからも折に触れ,彼について話し,書き続けてきたが,『柳宗悦 時代と思想』の翻訳は筆者の能力を越えた仕事と思われた.今までに何冊もの本を翻訳してきたし,いつもかなり丁寧に読みこんだ上で翻訳に臨んでいたのだが,正直言って翻訳前にこれほど読み返したのは初めての経験である.

しかし,読めば読むほど難しく感じられた.筆者が柳宗悦に関してそれなりに知っていると自負していたのは彼のほんの一部分であり,しかも柳思想の底を流れている核心を知らなかったということに気づいた.「悲哀の美」についても,いろいろな意見,さまざまな批評に接していて,筆者なりの考えも持っていたが,この『柳宗悦 時代と思想』は,柳宗悦の一面に偏っていた狭い考えを一新させてくれたのである.そしてこれからは「悲哀の美」に関しても,今までとは違った話し方が出来るだろうという自信もわいてきた.

こうして,韓国の人々にこの本を読んでほしいという思いが,日に日に強くなっていった.そのためには,より正確なわかりやすい翻訳をしなければならない.著者の平和への思いが,17年間にわたる柳宗悦の思想の形成過程を追う研究へと結びついたこと,そして「複合の美の平和思想」を柳思想の核心と見なしたその高見に敬意を表する意味でも,著者の意図から外れた翻訳であってはならないと心に誓った.

文学を専攻した筆者にとって,思想史的な内容が大部分であるこの本の翻訳は大変難解な仕事であった.柳の思想形成史を辿る中で,近代思想史に関して門外漢の筆者は,多忙な著者を質問攻めにして迷惑をかけてしまった.著者の精密でかつ誠意のある説明と助言がなければその翻訳を完成する事が出来なかったと思う.


韓国人の柳宗悦に対する評価,批判は,古くは『開闢』(1922・9)誌上で朴鐘鴻が「悲哀の美」について批判したことに始まるが,その場合,主な対象となっていたのは柳宗悦の著書『朝鮮とその芸術』(叢文閣,1922)であった.『朝鮮とその芸術』は,今までに7種類翻訳出版されているとのことであるが(加藤利枝の調査による),最近の韓国人が読んでいるのは,李大源が翻訳した『韓国とその芸術』(知識産業社,1974)ではなかろうか.10数年前に『柳宗悦 茶道論集』(岩波文庫,1987)を翻訳した際,内容に対してかなり好意的な評価は得られたと記憶している.だが朴鐘鴻の批判から80年余りという歳月が過ぎた現在でも,やはり柳宗悦といえば「悲哀の美」という固定観念から抜け出せない感がある.その意味で,『民藝』誌2001年4月号で藤岡泰介が述べている「過去の日本との関係がそうさせるためか,韓くに人の柳宗悦批評,批判は,どれも,folkの視点ではなくnationの視点で柳を取り上げている感がある」という指摘は的を射ている.『柳宗悦 時代と思想』はそうした固定観念を打破し,韓国における柳宗悦像を再構築させるきっかけになるのではないかと翻訳をしながら,心の中で大きな期待を寄せていた.


『柳宗悦 時代と思想』は2005年11月30日に『柳宗悦評伝 美学的アナキスト』(Hyohyug Publishing, 2005)と題して発売された.そして12月1日に『連合ニュース』,2日には『朝鮮日報』,『ソウル新聞』,『韓国日報』,5日には『京郷新聞』,『釜山日報』,9日には『ハンギョレ新聞』に書評が掲載された.

それらの書評が「悲哀の美」だけでなく,「複合の美」をも同等に取り上げていることに,筆者は何よりも感動させられた.

『ソウル新聞』の書評では,あらゆる武力行使を否定する「絶対平和思想」について述べながら,「それは,世界の平和は一色によって得られるのではなく,すべての民族がそれぞれ個性を発揮すべきだとする柳思想の核心としての『複合の美』に繋がる.しかし,そのような論理が韓国でどれほどの説得力を持つかはいずれにしても疑わしい」と疑問を投げかけている.一方,『京郷新聞』は「グローバリゼーションという名の下に文化の多様性の意味さえ廃れてしまっているこの時代に,多様な文化の価値を強調し,守ろうとした彼の生涯は,韓日関係を改めて考え直すきっかけを私たちに投げかけてくれる」と述べている.『韓国日報』の書評は「朝鮮の美に陶酔した2人の日本人」と題して,「ヨン様に熱狂する中年女性が日本に出現する70─80年も前に,朝鮮の美に魅了された2人の人物がいた.その評伝がこのたび同時出版された意義は大きい.(中略)日本植民地下の韓国の文化に魅せられた浅川巧と柳宗悦.彼らの思想に対する両国民の正しい理解と受容が,21世紀の新しい韓日関係を解決していく端緒になり得るのではなかろうか」と述べている.

上記の七社の中でも『ハンギョレ新聞』は韓国の知識人の声を最も良く反映する新聞社として知られている.『ハンギョレ新聞』の書評の要約をここで紹介したい.

「朝鮮の美」,または朝鮮民藝論,韓国学などについて論じる時,必ず登場する日本人柳宗(1889─1961).「朝鮮人よりも朝鮮を愛した」という修飾語と共に,「悲哀の美」で代表される彼の初期朝鮮美学観に対する是非が,今も続いている.『柳宗悦評伝 美学的アナキスト』は,この柳の思想的軌跡,特に,彼の平和思想を集大成した本である.国際関係思想史研究の専門家で,戦争と平和の問題に関心を寄せ続けている日本の清泉女子大学教授(文学部文化史学科)の中見真理氏が,17年間の長期間にわたって柳を研究し続けた結実である.柳が西力東漸の潮流のなかで,日本文化の個性確立を重視しながら,自民族中心主義には陥らずに,朝鮮と台湾,沖縄文化を尊重した民藝運動を繰り広げることができた背景の一つとして,著者は,「世界を一色にすることで平和を得ようとしても無理であろう」という彼の「複合の美思想」をあげている.柳の朝鮮美学を眺める視野を一層幅広く深くしてくれる.

『朝鮮日報』の書評のなかで,「著者が17年間の歳月をかけて書いた,その苦労の大変さと同じくらいに,その内容も奥深く重みがあって容易く読めるものではない」という指摘があるが,書店の店頭にいつまでも並べられていることから推察して,地味ながらも読者は増えつづけていると思われる.1人でも多くの韓国人に『柳宗悦評伝 美学的アナキスト』が読まれることによって,間違いなく柳宗悦に対する韓国人の受けとめ方が変わっていくであろうと信じている.

『柳宗悦 時代と思想』の翻訳は,今まで経験した難行中の難行であった.本全体にあふれている著者の誠意,広範囲にわたる内容と精密な論理の展開.一語も疎かに出来ないと祈る思いで翻訳を続けた.そしてこの本は筆者の生活までも変えてしまったような気がする.生みの親である韓国と,育ての親としての日本の狭間で苦しんできた筆者が,柳宗悦の平和思想を学んだことにより遅蒔きながら今後の生き方をしっかりと掴んだのである.朝鮮の美が,柳宗悦にとって「民藝」を生み出す起点となったのならば,「民藝」を通して日韓両国は平和な関係を作りあげることが出来ると信じる.

願わくは,日本の「民藝」を韓国に伝え,韓国の「民藝」を日本に伝える仕事を続けることが出来れば,筆者の人生は意味あるものとなるのであろう.

(きむ・すんひ 日本中古文学)

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コメント ≫
韓国と日本の関係を考える上で、柳宗悦はひとつのバロメーターになると思われます。中見氏の長年の研究成果が本としてまとめられ、そのうえ、早速韓国で翻訳され、高い評価を受けていることを金氏の文章から知ることができました。ありがとうございます。

コメント by 立花秀治 − 2006年5月28日 @ 0:38

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2014年11月03日

菊池寛が讃えた、志賀直哉

志賀直哉氏の作品

菊池寛


 自分は現代の作家の中で、一番志賀氏を尊敬している。尊敬しているばかりでなく、氏の作品が、一番好きである。自分の信念の通りに言えば、志賀氏は現在の日本の文壇では、最も傑出した作家の一人だと思っている。
 自分は、「白樺」の創刊時代から志賀氏の作品を愛していた。それから六、七年になる。その間に自分はかつて愛読していた他の多くの作家(日本と外国とを合せて)に、幻滅を感じたり愛想を尽かしたりした。が、志賀氏の作品に対する自分の心持だけは変っていない。これからも変るまいと思う。
 自分が志賀氏に対する尊敬や、好愛は殆ど絶対的なもので従って自分はこの文章においても志賀氏の作品を批評する積つもりはないのである。志賀氏の作品に就いて自分の感じている事を、述べて見たいだけである。

 志賀氏は、その小説の手法においても、その人生の見方においても、根柢においてリアリストである。この事は、充分確信を以て言ってもいいと思う。が、氏のリアリズムは、文壇における自然派系統の老少幾多の作家の持っているリアリズムとは、似ても似つかぬように自分に思われる。先ず手法の点から言って見よう。リアリズムを標榜ひょうぼうする多くの作家が、描かんとする人生の凡すべての些末事を、ゴテゴテと何らの撰択もなく並べ立てるに比して、志賀氏の表現には厳粛な手堅い撰択が行われている。志賀氏は惜しみ過ぎると思われるくらい、その筆を惜しむ。一措も忽ゆるがせにしないような表現の厳粛さがある。氏は描かんとする事象の中、真に描かねばならぬ事しか描いていない。或事象の急所をグイグイと書くだけである。本当に描かねばならぬ事しか描いていないという事は、氏の表現を飽くまでも、力強いものにしている。氏の表現に現われている力強さは簡素の力である。厳粛な表現の撰択からくる正確の力強さである。こうした氏の表現は、氏の作品の随所に見られるが、試みに「好人物の夫婦」の書出しの数行を抜いて見よう。

「深い秋の静かな晩だつた。沼の上を雁が啼ないて通る。細君は食卓の上の洋燈を端の方に引き寄せて其その下で針仕事をして居る。良人は其傍に長々と仰向けに寝ころんでぼんやりと天井を眺めて居た。二人は長い間黙つて居た。」

 何という冴えた表現であろうと、自分はこの数行を読む度に感嘆する。普通の作家なれば、数十行乃至数百行を費しても、こうした情景は浮ばないだろう。いわゆるリアリズムの作家にこうした洗練された立派な表現があるだろうか。志賀氏のリアリズムが、氏独特のものであるという事は、こうした点からでも言い得ると思う。氏は、この数行において、多くを描いていない。しかも、この数行において、淋しい湖畔における夫婦者の静寂な生活が、如何いかにも溌剌として描き出されている。何という簡潔な力強い表現であろう。こうした立派な表現は、氏の作品を探せば何処にでもあるが、もう一つ「城の崎にて」から例を引いて見よう。

「自分は別にいもりを狙はなかつた。ねらつても迚とても当らない程、ねらつて投げる事の下手な自分はそれが当る事などは全く考へなかつた。石はコツといつてから流れに落ちた。石の音と共に同時にいもりは四寸程横へ飛んだやうに見えた。いもりは尻尾を反そらして高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思つて居た。最初石が当つたとは思はなかつた。いもりの反らした尾が自然に静かに下りて来た。するとひぢを張つたやうに、傾斜にたへて前へついてゐた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめつてしまつた。尾は全く石へついた。もう動かない。いもりは死んで了しまつた。自分は飛んだ事をしたと思つた。虫を殺す事をよくする自分であるが、その気が全くないのに殺して了つたのは自分に妙ないやな気をさした。」

 殺されたいもりと、いもりを殺した心持とが、完璧と言っても偽ではない程本当に表現されている。客観と主観とが、少しも混乱しないで、両方とも、何処までも本当に表現されている。何の文句一つも抜いてはならない。また如何なる文句を加えても蛇足になるような完全した表現である。この表現を見ても分る事だが、志賀氏の物の観照は、如何にも正確で、澄み切っていると思う。この澄み切った観照は志賀氏が真のリアリストである一つの有力な証拠だが、氏はこの観照を如何なる悲しみの時にも、欣よろこびの時にも、必死の場合にも、眩くらまされはしないようである。これは誰かが言ったように記憶するが、「和解」の中、和解の場面で、
「『えゝ』と自分は首肯うなづいた。それを見ると母は急に起上つて来て自分の手を堅く握りしめて、泣きながら『ありがたう。順吉、ありがたう』と云つて自分の胸の所で幾度か頭を下げた。自分は仕方がなかつたから其頭の上でお辞儀をすると丁度頭を上げた母の束髪へ口をぶつけた。」と描いてある所など、氏が如何なる場合にも、そのリアリストとしての観照を曇らせない事を充分に語っている。

 志賀氏の観照は飽くまでもリアリスチックであり、その手法も根柢においてリアリズムである事は、前述した通りだが、それならば全然リアリズムの作家であろうか。自分は決してそうは思わない。普通のリアリストと烈しく相違している点は、氏が人生に対する態度であり、氏が人間に対する態度である。普通のリアリストの人生に対する態度人間に対する態度が冷静で過酷で、無関心であるに反して、ヒューマニスチックな温味を持っている。氏の作品が常に自分に、清純な快さを与えるのは、実にこの温味のためである。氏の表現も観照も飽くまでリアリスチックである。がその二つを総括している氏の奥底の心は、飽くまでヒューマニスチックである。氏の作品の表面には人道主義などというものは、おくびにも出ていない。が、本当に氏の作品を味読みどくする者にとって、氏の作品の奥深く鼓動する人道主義的な温味を感ぜずにはいられないだろう。世の中には、作品の表面には、人道主義の合言葉や旗印が山の如く積まれてありながら、少しく奥を探ると、醜いエゴイズムが蠢動しゅんどうしているような作品も決して少くはない。が、志賀氏は、その創作の上において決して愛を説かないが氏は愛を説かずしてただ黙々と愛を描いている。自分は志賀氏の作品を読んだ時程、人間の愛すべきことを知ったことはない。
 氏の作品がリアリスチックでありながら、しかも普通のリアリズムと違っている点を説くのには氏の短篇なる「老人」を考えて見るといい。
 これは、もう七十に近い老人が、老後の淋しさを紛まぎらすために芸者を受け出して妾に置く。芸者は、若い者に受け出されるよりも老先の短い七十の老人に受け出される方が、自由になる期が早いといったような心持で、老人の妾になる。最初の三年の契約が切れても老人はその妾と離れられない。女も情夫があったが、この老人と約束通りに別れる事が残酷のように思われて、一年延ばす事を承諾する。一年が経つ。そのうちに女は情夫の子を産む。今度は女の方から一年の延期を言い出す。そして又一年経つ裡うちに女は情夫の第二の子を産む。そして今度は老人の方から延期を申出す。そしてその一年の終に老人は病死して妾に少からぬ遺産を残す。そして作品は次のような文句で終る。

「四月の後、嘗かつて老人の坐つた座蒲団には公然と子供等の父なる若者が坐るやうになつた。其背後の半間の間には羽織袴でキチンと坐つた老人の四つ切りの写真が額に入つて立つて居る……」

 この題材は、もし自然派系の作家が扱ったならば、どんなに皮肉に描き出しただろう。老人がどんなにいたましく嘲笑されただろう。が、志賀氏はかかる皮肉な題材を描きながら、老人に対しても妾に対しても充分な愛撫を与えている。「老人」を読んだ人は老人にも同情し、妾をも尤もっともだと思い、その中の何人にも人間らしい親しみを感ぜずにはいられないだろう。情夫の子を、老人の子として、老人の遺産で養って行こうとする妾にも、我等は何らの不快も感じない。もし、自然派系の作家が扱ったならば、この題材はむしろ読者に必ずある不快な人生の一角を示したであろう。が、志賀氏の「老人」の世界は、何処までも人間的な世界である。そして、我々は老後の淋しさにも、妾の心持にも限りなく引付けられるのである。氏の作品の根柢に横たわるヒューマニスチックな温味は「和解」にも「清兵衛と瓢箪」にも「出来事」にも「大津順吉」などにもある。他の心理を描いた作品にも充分見出されると思う。

 氏の作品が、普通のリアリズムの作品と違って一種の温かみを有している事は、前に述べたが、氏の作品の背景はただそれだけであろうか。自分は、それだけとは思わない。氏の作品の頼もしさ力強さは、氏の作品を裏付けている志賀直哉氏の道徳ではないかと思う。
 自分は耽美主義の作品、或は心理小説、単なるリアリズムの作品にある種の物足らなさを感ずるのは、その作品に道徳性の欠乏しているためではないかと思う。ある通俗小説を書く人が「通俗小説には道徳が無ければならない」と言ったという事を耳にしたが、凡すべての小説はある種の道徳を要求しているのではないか。志賀氏の作品の力強さは志賀氏の作品の底に流れている氏の道徳のためではないかと思う。

 氏の懐いている道徳は「人間性ヒューマニティの道徳」だと自分は解している。が、その内で氏の作品の中で、最も目に着くものは正義に対する愛(Love of justice)ではないかと思う。義ただしさである。人間的な「義しさ」である。「大津順吉」や「和解」の場合にはそれが最も著いちじるしいと思う。「和解」は或る意味において「義しさ」を愛する事と、子としての愛との恐るべき争闘とその融合である。が、「和解」を除いた他の作品の場合にも、人間的な義しさを愛する心が、随所に現われているように思われる。
 が、前に言った人道主義的な温味があるというのも、今言った「義しさ」に対する愛があるという事ももっと端的に言えば、志賀氏の作品の背後には、志賀氏の人格があると言った方が一番よく判るかも知れない。そして作品に在る温味も力強さも、この人格の所産であると言った方が一番よく判るかも知れないと思う。
 志賀氏の作品は、大体において、二つに別わかつ事が出来る。それは氏が特種な心理や感覚を扱った「剃刀」「児を盗む話」「范の犯罪」「正義派」などと、氏自身の実生活により多く交渉を持つらしい「母の死と新しい母」「憶ひ出した事」「好人物の夫婦」「和解」などとの二種である。志賀氏の人格的背景は後者において濃厚である。が前者も、その芸術的価値においては決して、後者に劣らないと思う。氏は、その手法と観照において、今の文壇の如何なるリアリストよりも、もっとリアリスチックであり、その本当の心において、今の文壇の如何なる人道主義者よりも、もっと人道主義的であるように思われる。これは少くとも自分の信念である。

 志賀氏は、実にうまい短篇を書くと思う。仏蘭西のメリメあたりの短篇、露国のチェホフや独逸のリルケやウィードなどに劣らない程の短篇を描くと思う。これは決して自分の過賞かしょうではない。自分は鴎外博士の訳した外国の短篇集の『十人十話』などを読んでも、志賀氏のものより拙いものは沢山あるように思う。日本の文壇は外国の物だと無条件でいい物としているが、そんな馬鹿な話はないと思う。志賀氏の短篇などは、充分世界的なレヴェルまで行っていると思う。志賀氏の作品から受くるくらいの感銘は、そう横文字の作家からでも容易には得られないように自分は思う。短篇の中でも「老人」は原稿紙なら七八枚のものらしいが、実にいい。説明ばかりだが実にいい(説明はダメ飽くまで描写で行かねばならぬなどと言う人は一度是非読む必要がある)。「出来事」もいい。何でもない事を描いているのだがいい。「清兵衛と瓢箪」もいいと思う。
 志賀氏の作品の中では「赤西蠣太」とか「正義派」などが少し落ちはしないかと思う。
 色々まだ言いたい事があるが、ここで止めておこう。ともかく、自分の同時代の人として志賀氏がいるという事は、如何にも頼もしくかつ欣よろこばしい事だと自分は思う。
 最後にちょっと言っておくが、自分はこの文章を、志賀氏の作品に対する敬愛の意を表するためにのみ書いたのである。

(一九一八年十一月)

底本:「半自叙伝」講談社学術文庫、講談社
参考HP:http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1388_17405.html
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2014年10月30日

世界のミンゲイ

一年前になるが、民芸が世界的な関心を持たれてきていることを示す記事なので、
概略を訳してご紹介。

マーサ ・ w ・ Longenecker のアートで生涯のキャリアは多面的だった。彼女は陶芸家で、San Diego 州立大学で美術の教授 35 年間、彼女は 2005 年までの民芸 インターナショナル博物館の初代館長としても働いた。

Longenecker アートで生涯のキャリアは多面的、セラミックス、教育者、館長、アーティスト職人としての仕事を取囲みます。ミンゲイ インターナショナル博物館造語用語民芸 (人々 の芸術)
柳宗悦を尊敬し、20 世紀に生きた日本の学者の教えを受けたのは、 1952 年夏、ロサンゼルスでの出会い柳が米国など世界各地セミナーを開催しての折だった。 1 週間を通して博士柳、日本人陶工濱田庄司とバーナードリーチの-世界ツアー-の一部として講義し、地域の職人が陶芸を示した。そして、陶芸の伝統的手ほどきをうけるようにと日本に訪れるよう話し、 10 年後彼らの招待を受け入れることができた。日本では、濱田庄司・島岡達三の窯で仕事をして 4 ヶ月の滞在の間に浜田の主に見習いをしていた。浜田は、陶芸家として人間国宝に選ばれました。Longeneckerは、日本への訪問は柳京都陶工である河井寛治郎、染色家 芹沢けいすけ、木版画家の棟方志功とも知り合った。

これらのことに触発されて、 2005 年に彼女の退職の時に、1978 年 5 月にミンゲイ インターナショナル美術館を設立。140 ヶ国からの 17,000 以上のオブジェクトのコレクションを収容し、毎年以上 10 万の訪問者を提供国際的な評判の博物館に成長していた。

「マーサはすべての時代や文化、世界の理解と民芸の感謝を共有する彼女の人生を捧げた広大なビジョンと情熱の人」キャロリン シート オーウェン-トウル(博物館の理事会の議長)は言っている。等しい部品のインスピレーションと決意を持って彼女ミンゲイ インターナショナル博物館の確立し、27 年以上の開発をはるかに超えて San Diego 地域の人々 に毎日の使用のオブジェクトを作る人間の文化の最高のアートを提示してきた。

2013 年 10 月 30 日 - サンディエゴ、カリフォルニア-93、死去。
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2014年10月14日

バーナード・リーチと尾形乾山

ニューヨークに、メトロポリタン美術館があり、世界の美術品が展示される。その中には尾形光琳の『八橋図』、六曲屏風二隻、『波涛図』、二曲屏風一隻も収められている。

その尾形光琳の弟がバーナード・リーチの陶芸の師となる六代目の祖先・尾形乾山(1851-1923 )である。
日本で最初の人間国宝の認定を受け、文化勲章をうけた富本憲吉とともに六世乾山に師事し、七世乾山の皆伝目録を受けたバーナード・リーチだ。

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尾形光琳は、後代に「琳派」と呼ばれる装飾的大画面を得意とした画派を生み出した始祖であり、江戸時代中期を代表する画家のひとりである。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。フェノロサはそんな光琳を「世界最大の装飾画家」とまで呼んだ。

初代・尾形乾山(1663-1743)は江戸大奥や東福門院などの御用を勤めた京都第一流の呉服商雁金屋尾形宗謙の次男で、その弟・乾山によれば光琳は絵にこそ自分の天分があるといつも言っていたという。兄は何を描いてもそれが即模様になっているところが並の絵師とは違っていて、京焼の代表的名工,画家・野野村仁清と光琳が自分の師であると書き残している。

当時のファッションの先端だった呉服商に生まれた光琳は当然のようにそこからデザインの影響を大きく受けており、少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しんだこともよく知られている。絵はもともとは趣味として狩野派の流れをくむ山本素軒に師事したとされるが、その時期等はくわしくわかっていない。

そこで、尾形光琳と乾山について、江戸のころの時代へと歴史を辿ってみたいと思う。
尾形道柏(光琳の曽祖父)の代に染色業を始めたという。道柏の夫人は本阿弥光悦の姉であり、光悦と光琳は遠い姻戚関係にあることになる。道柏の子・宗柏は光悦流の書をよくする風流人であった。呉服商雁金屋は慶長年間には高台院、淀殿、徳川家康、徳川秀忠および同夫人江など当代一流の人物を顧客としていたが、宗柏の時代には東福門院(徳川秀忠娘、後水尾天皇中宮)の用を務めるようになった。

光琳は公家、大名、役人など、多くのパトロンをもっていた。五摂家のひとつ、二条家の当主で摂政・関白を務めた二条綱平の屋敷にはたびたび出入りしていることが記録からわかり、前述の法橋位が与えられたのも、綱平の推挙によるところが大きかったと推測されている。また、京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助 (1669–1730) とも親交があり、光琳は内蔵助の肖像画(現存、大和文華館収蔵)を描いている。光琳は中村内蔵助の娘を引き取って数年間養育し、その娘は後に光琳の息子と結婚するなど、光琳と内蔵助の関係は単なるパトロン、援助者という以上のものがあったようである。(紅白梅図屏風の性的な解釈で有名な小林太市郎は、「光琳と乾山」(『世界の人間像』第7巻、角川書店)の中で、「内蔵助が光琳の愛人たることは毫もうたがう余地がない」と断定的に推測した。)

兄が継いだ呉服商雁金屋が経営状態がわるくなると、光琳は江戸詰となった中村内蔵助を頼り、宝永元年(1704) 頃、江戸へ下った。つまり、光琳は経済的には貧窮していたようである。江戸では姫路藩主酒井家から扶持を得、また、津軽家や豪商の三井家、住友家、冬木家(江戸深川の豪商)などともつながりがあったため、作品を納めるツテが出来たようである。

弟・乾山も江戸に出て陶芸で仕事を行なうようにとなっていた。作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、オランダのデルフト焼きの影響を受けて成ったと言う作品を含めて、現存する作品で認定されるものは僅かとされる。

乾山は裕福な家に生まれはしたものの、内省的で書物を愛し隠遁を好み、霊海・逃禅などと号して地味な生活を送った。元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、乾山は早くから光悦の孫の光甫や楽一入から手ほどきを受けていたこともあり、仁清から本格的に陶芸を学んだようだ。

37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えた為ここに窯を開く。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号し、出来上がった作品に記した。正徳2年(1712年)50歳のとき京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、多くの作品を手がけた。乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多い。

享保16年(1731年)69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住んだ。元文2年(1737年)9月から初冬にかけて下野国佐野で陶芸の指導を行う。その後江戸に戻り、81歳で没した。

乾山の名は2代、3代と受け継がれていった。6代乾山(1851-1923年)はバーナード・リーチの師ということになる。さらに、この乾山との縁により、後に再来日を果たしたリーチは「佐野乾山贋作事件」に巻き込まれることになるが、詳細については、大島一洋の「芸術とスキャンダルの間 (第5章)」、大宮知信『スキャンダル戦後美術史』、(2006年発行)に譲ることにする。

参照:Wikipedia
posted by その木なんの気、柳の気 at 12:33| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月13日

勝海舟の父・小吉の自伝、『夢酔独言』

 勝海舟の父である小吉自身が書き残したとされる自伝、『夢酔独言』(むすいどくげん)は、子孫にけして同じ轍は踏むなと本人が自戒の書ところの人生だが、この書が21世紀の今日に至るまで伝わるとは思ってもみなかっただろうが、それをどう読むか、この秋の課題にして、本を探してみてはどうでしょう。 かの坂口安吾までもが、『夢酔独言』を読みたくて必死に探したが、読むことができなかったとの逸話も残されているほど面白く、当時の話し言葉も判り、また当時の国内の状況も知ることができます。

 勝海舟は、我孫子ゆかりの加納治五郎の父そしてまた柳宗悦の父とは海軍伝習所で一緒に働いた共通点があると言われます。その勝海舟の父は、勝小吉があまりに破天荒な人生を送ったため、小吉が自分のような大馬鹿を子孫が真似をしないように戒めとして、書き残したとしされています。

 さらに、文章も破天荒な人生を送った小吉らしく、話し言葉で書いてあるので、現代文のように読み易い。口語訳もあるそうで、日本人なら一度は読んで損はないと言われます。

 思い切り端折(はしょ)ると、小吉は家に帰り旗本の地位に戻ります。そして男気と腕っ節で、当時の江戸の町を仕切る顔役になります。それからは痛快娯楽時代劇を地で行く生活が始まります。
その間、兄に座敷牢に閉じ込められ改心するように迫られたり、密教の修行をして富くじ(宝くじ)の番号を何度も当てたり、大阪に旅をしたときには、自分の首を入れる首桶を持参して、切腹すると一芝居打ち大金を工面したり、記録に残っている当時の有名な剣術家たちと戦って、余裕で勝ったりします。
事実は小説より奇なりをこれでもかとばかりに地でいっています。

 つまり、この書を読んで、勝海舟の幕末・維新における柔軟な発想や行動は、この「生涯一不良」のような父に育てられたからであろうとも考えつく。すると、小吉に「何、言ってやんでい!」と大笑いされるに違いないと、ハッとする。
posted by その木なんの気、柳の気 at 01:30| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月27日

日本の技が影響した、アーツアンドクラフツ

19世紀後半、万国博覧会などを通じて欧米にもたらされた型紙は、産業革命以降低迷していたイギリスの装飾芸術や産業芸術に時代に即した新たな造形表現を求めていた欧米で積極的に収集され、多くの芸術家やデザイナーに影響を与えました。

欧米にわたった型紙は、さまざまな博物館、コレクターに収集されて大切に保管されてきた。

工業デザイナーの先駆けとして知られるクリストファー・ドレッサーが、1876−77年に日本を視察して型紙染めの技法を著作中で報告したことを契機に、80年代以降、リバティー百貨店では型紙が販売され、シルヴァー・スタジオをはじめとするイギリスの産業芸術に美的インスピレーションを与えました。1884年には、表面装飾のためのステンシル用にイギリスのリバティ百貨店で実際に型紙が販売された実績もある。

イギリスのアーツ・アンド・クラフツ、フランスのアール・ヌーヴォー、そしてドイツのユーゲントシュティールなどの運動に確実に影響を与えたことは間違いなく、展覧会の中では、アルフォンス・ミュシャやルイス・コンフォート・ティファニー、ウォルター・クレイン、ルネ・ラリックらの作品の中でも、特に象徴的なものが紹介されている。また、イギリスのブリントンズ・カーペット社やリバティ商会など、影響を受けた企業のコレクションも見逃せません。スコットランドでは、チャールズ・レニー・マッキントッシュが型紙を平面装飾に応用しています。

一方、アメリカでは、1876年のフィラデルフィア万博から型紙への関心が高まり、ルイス・コンフォート・ティファニーなどにより、型紙の影響が顕著な作品が多数制作されました。

ドイツは1871年に統一、19世紀半ば以降自国産業の発展促進のために、数多くの工芸博物館とそれに附属する学校が設立されました。当時なおハプスブルク帝国の威容を誇っていたオーストリアを含むドイツ語圏では、型紙の受容にこの工芸博物館・学校が大きな役割を果たしました。型紙は幅広い地域で収集され、各地の工芸改革運動やユーゲントシュティールと呼ばれる新しい芸術潮流と密接に連動し、時代に見合う新たな造形を模索していた人々の手本とされたのです。本章では、ドイツにおける型紙の受容とその展開に加え、ドイツ北西部ルール地方と経済的に密接な関係をもつオランダ、そしてウィーン工房を中心とするオーストリアでの型紙の影響がみられます。

フランスでは19世紀末に印象派が絵画革命を起こし、その後アール・ヌーヴォーの花開く。早くから日本の文物への関心が高く、ジャポニスムと呼ばれる造形運動が起こりました。絵画ではナビ派が日本の平面デザインを画中に応用し、工芸デザインではナンシー派が型紙のコレクションを活用した作品を制作しました。テキスタイルの産地であったミュルーズ、リヨンでも型紙が収蔵され、さかんに日本風文様がデザインされました。  
アール・ヌーヴォーのもうひとつの揺籃の地となったベルギーの首都ブリュッセルでも、実際に型紙を所有していたアンリ・ヴァン・ド・ヴェルドや建築家ヴィクトール・オルタが、型紙を参考にして曲線デザインをつくりあげました。

これらの手工芸を見直す運動は、世界におきていたが、日本に民藝運動が起きたのは、そもそもこうした技術があったわけであり、柳宗悦は各地の手工芸を発掘して全国を歩いたのであった。
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2014年09月26日

嘉納治五郎と勝海舟

勝海舟は、その人物が凡人であるか非凡であるかを見分けるのに、次のようなものさしで見ていた。「職責を超える仕事ができるかできないか。また、求められたら、そういう職責を超える仕事をやる勇気があるのか、ないか」

身分は幕府の無役である。
また、長崎の海軍伝習所にいた時、学生監督程度の身分で、薩摩藩主島津斉彬と会っている。斉彬は、勝を友人待遇にし、自分でもしばしば手紙を書いた。いわば、幕府の外交官のような立場で、斉彬と堂々と対していたということだ。神戸に海軍操練所を作り、幕府や各藩の子弟を預かって教育した時、別に私塾を設け、ここに坂本龍馬以下、資格のない若者を全部放り込んで教育した。明らかに職責を超えている。

姑息な幕臣だったら、後生大事に幕府が作った海軍大学の経営と教育に邁進し、私塾を作ってまで、資格のない者を教育するということはしなかったろう。

役所や、銀行や、学校などの堅いと言われる職業を持つ人の中で出世するのは、自分の職分を超える人との付き合いや、異業種の会合や勉強会への参加を怖れないことだ。その組織内での、古くからのしきたりや上下の力関係を飛び越える、実力なりパワーを持っているから、枠をはみ出すことができる。失敗を恐れ、余計なことは一切やらないという、守りに入った人間は、変化の激しい現代では生き残るのは難しい。柔らかな心を持ち、チャレンジを怖れず、職責を超える仕事ができる人に期待できそうだ。

参考:
童門冬二『勝海舟の人生訓』PHP文庫

posted by その木なんの気、柳の気 at 14:09| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする