2014年09月15日

柳宗悦夫妻が我孫子に来るまで

柳宗悦はなぜ、大正初期に我孫子に住むことになったのでしょうか?
 この問については、柳の叔父に当たる嘉納治五郎が我孫子に別荘を構えていた事実から、ごく自然に、嘉納が甥の柳に近くに住むことを勧めたのであろうという見方が、地元では定着しています。そうは言っても、「勧められたからといって人は簡単に住まいを移すものか?」という根源的な疑問に突き当たりました。誰に勧められようと、柳には柳なりの理由がなければなりません。
 
 柳本人は、叔父に勧められたという言葉を遺しておりません。リーチ宛の書簡には、
「近い将来、…家内と我孫子に引っ越すことになるでしょう。姉の新しい別荘があいているのです」(大正三年八月二十八日付)
という文言があります。
 妻兼子の言葉を借りると、その間の事情はこうなります(水尾比呂志氏『柳兼子夫人に聞く』)。
「義姉(あね)(宗悦の姉直枝子(すえこ))が、初縁のが亡くなりましたでざんしょ。それで、後家になりましたんで、母も後家でござんしたからね、母と二人でもって老後を過ごそうというので、土地を捜していたらしいんです。嘉納治五郎叔父があそこに土地を持っていて、別荘があったんです。ぼくのところの周りに土地があいているから、買ったらどうだというので買ったんです。そうしたら、義姉が再婚することになったでしょ。建ちっぱなしで住まなくなったんですね。それで、私たちが新婚でしたものですから、あそこに住んだらどうだと言われて、別荘番代わり家賃なしで住まわしてもらったの」
  兼子のこの言葉を真に受けて、柳は家賃なしという条件につられてやってきた、という説も根強く流布されています。兼子の言葉には、東京帝国大学を卒業後、就職もせず学究生活に入った柳が家賃にも困っていたようなニュアンスが感じられるのは確かですが、これは兼子特有のユーモアととるべきでしょう。第一、我孫子に来る前に柳夫婦が新婚所帯を営んでいた東京原宿の家は母勝子の所有になるもので、留守番代わりに住まわせてもらうならそこでもよかったはずでした。その上、我孫子の家は、若い二人が住まうには十分過ぎるほどの広さだったにも拘わらず、柳は転居早々、離れに十五畳大の凝った書斎を地元の宮大工に建てさせています。そのとき柳は、「お母さんのとこにぼくのお金がいくらか残っているから、それを使おうじゃないか」と言ったといいます(『兼子夫人に聞く』)。

 原宿の家は「赤い靴」「十五夜お月さん」などの童謡で知られる作曲家本居長世の旧宅で、母勝子が亡夫(柳の父・柳楢悦(ならよし))の麻布の五千二百坪もの大邸宅を処分して買い求めたものでした(水尾比呂志氏『評伝・柳宗悦』)。
 いずれにせよ、柳が経済的に困るようなことはなかったはずで、留守番代わり家賃なしで住まわしてくれるのが我孫子転居の動機であったとみるのは、少し無理があるようです。

 因みに柳の父・柳楢悦(ならよし)は元海軍少将、若きより和算に秀で、測量、水路、天文、水産、植物等の学術に通じ、料理、詩歌の趣味も豊かな逸材で、のちに貴族院議員にも勅任された明治偉人伝に列せられる人物でありました。中でも明治海軍の初代水路局長として、日本の沿岸測量と水路図の作成に果たした功績は特筆すべきものでした。楢悦は、御木本幸吉に真珠養殖を教えた人としても名を残しており、鳥羽のミキモト真珠島「御木本幸吉記念館」には楢悦の大きな写真とともに、彼が大日本水産会幹事長時代に幸吉のアコヤ貝増殖を懇切に助言し、出来たばかりの養殖真珠を内国勧業博覧会に出品する段取りまでしてやった経緯が記されています。幸吉は終生、柳楢悦を恩人として語り伝えたといいます。

 柳は一歳十か月で父を亡くしており、父の薫陶を受けるべくもなかったのですが、兼子も「よくまあ次から次へとよくもめっけてくる」人だったと言うように(『柳兼子夫人に聞く』)、ホイットマン、ブレイクから転じて朝鮮白磁へ、さらには木喰仏、大津絵、出雲和紙、小鹿田焼(おんたやき)へと、柳の究めようを見れば、マルチ人間であった父楢悦のDNAを受け継いでいると思われてなりません。
 余談ながら、柳宗悦が父のことを綴った『柳楢悦小傳』に、真珠に関わった話は一言も出てこないのはまことに不思議な発見でありました。
 「彼(楢悦)が特に興味を持ちしは料理なり。諸国の料理を学び自ら筆をさえとりて著書をなせり。遺本『山蔭の落栗』(明治三十九年私出版、御木本幸吉編)は其の一つなり。」と、御木本幸吉の名をあげているにも拘わらず、です。

 あらためて柳が越してきて早々に書いた「我孫子から 通信一」(『白樺』大正三年十二月号)を読むと、「茲へ来た事は自分にとってはいゝ決行だった」という書き出しで始まっています。「決行」というのは、あれこれ迷った上の決断であったことを匂わせます。
 柳を迷わせた第一の要因は、我孫子に電灯がなかったことではないでしょうか。
 事実、柳が越してきた当時(大正三年九月)は我孫子はまだランプの時代でありました。このことは、柳自身の文章にも、兼子夫人、また柳の次男宗玄氏の言葉にも残されています。念のために『我孫子市史 近現代篇 年表』を繙くと、大正四年九月の項に「野田電気(株)に対し電柱建設のための富勢村布施地先里道使用を許可。これによりはじめて電灯が据え付けられることになる」という一文が見つかりました。富勢村は柳の家から北へ四キロほどもあり、そこから電柱が逐次建てられて、柳宅に電灯のともったのは大正五年以降のことと思われます。いやしくも文筆を生業(なりわい)とする人が、電灯のある都会からランプの田舎へ越してくるには相当の抵抗があったことでしょう。

 第二の要因は、生活環境の不便性でしょう。
 兼子夫人は、「ほんとうに何もないとこで、ヤとつくものはお豆腐屋が一軒あっただけ」、肉や野菜は東京へ出たときにまとめ買いしてくると語っています。下戸で甘党、それもチョコレート好きだったという柳のハイカラな舌に適う嗜好品や、ひっきりなしに訪れる友人知人をもてなす珈琲紅茶のたぐいも、当然手に入らなかったと思われます。

出典: 葭の髄から』(楫西 雄介/著 ) 抜粋

 
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2014年08月24日

柳の唱えた「無有好醜」の考えとは

柳宗悦が生涯書きとめた約600篇の随筆より22篇を精選した本「柳宗悦随筆集」(水尾比呂志 岩波書店)があり、その読後感が次のように纏められていて楽しい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この本を読み始めると今まで味わったことないような楽しい気分になりました。ひとつは内容が僕の好きな「美しさ」について書いたエッセイを集めたものであると、もうひとつは文章が優しく、その上、「美」のエッセンスがギッシリと詰まっているからです。

前半は、昭和4年から5年、昭和27年から28年のヨーロッパ、アメリカの旅行記、昭和8年のハワイ滞在記です。

中でも昭和5年、彼がハーバード大学で「日本における美の標準」をいう講義の最後授業を終えた時の記述は感動的です。内容は以下のとおりです

僕は生徒がそんなにまで興奮した経験を日本ですら有(も)たない。僕が次の言葉をいい終わって壇を去った時、僕はたちまち興奮した生徒に取りかこまれた。

僕は驚いた。はじめは何か腹でも立てたのかと思った。ある生徒はもう口がきけなく、どもって咳き込んで何かをいうのだがよく分からない。顔を真っ赤にしてしまってこんな講義を聞いたことがないというんだ。今まで分かっているようで分かっていなかったことをみんないってくれたといって悦んで手を僕の肩から離さない。僕は僕の部屋に帰ってまで皆に囲まれた・・・・

後半は、「美しさと女性」、「食器と女」、「言葉の躾」、「民藝と雪舟」、「東洋文化の教養」、「山陽随筆」、「野口シカ刀自の手蹟」、仮名書きの不便さ」、「東西南北」、病中横断」、「時計のない暮し」、「漢薬の能書」、「赤と緑」の13篇の様々な随筆が収録されています。

どのエッセイも素晴らしいものがありますが,例えば「美しさと女性」の中に以下のような記述がありました。
美しさとは何かということはむずかしい問題かも知れませんし人々により、時代により、国々によって、その標準が違うのは、まぬがれません。しかし全体を通じて、美しさを「調和の相(すがた)」といってよいかと思います。不調和は私たちに美感を誘いません。それは人間の心をなごやかにさせず、やわらぎを与えません。音の世界に例をとれば、不調音が、吾々の耳に美しく響かないのと・・・・

民藝運動において、美を追求した柳宗悦が成しえたことは、
"In the long run , a history of art without heroes is the very one which I should like to write!"(結局、英雄のいない芸術史、民衆の美を明らかにしたいということだったのだ!)

柳宗悦は「利休以上の眼を持つ」といわれた人です。その柳宗悦が熱心に掘り起こした美とは、それまでのひ人々が気づかなかった美を丹念にすくいあげてきたことでした。

彼の思想は「名も無き民衆が美を作ろうという意識を持たずに作り上げた美の世界こそ、真の美がある」という民衆的工芸、すなわち「民芸」です。「民芸」が美しいのではなく、「民芸」は美しいものが生まれる土壌なのであると主張し、生涯を通して民芸品の「美」を追求しました。

彼の唱えた「無有好醜」の考えは、「民芸品の特徴は『醜い』ものは一点もない、たとえば富士山のような圧巻はあるが、かといって身近の野山が醜いわけではない。そういう美醜を超えた世界、醜いものが原理上存在しえない世界に『民芸』はある・・・」です。


出典HP:
http://blog.livedoor.jp/hanaichisan/archives/51302662.html
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2014年08月23日

声楽の神様と言われた人

長崎の男性のブログに柳兼子さんの紹介がありましたので、以下にご紹介します。
http://ameblo.jp/noburin28/entry-10328027752.html



筆者には、非常に強い印象を残し、感動に誘った一枚のCDの存在が忘れられない。
これは「柳兼子」というアルト歌手の歌う「現代日本歌曲選集2 日本の心を唄う」と題された一枚だ。

 これはオーディオ・ラボからLPで出て以来、長らく廃盤のままになっていたものだが2001年に彼女の再評価の機運が高まり、CDとして復刻されたものである(オーディオ・ラボ OVCA‐00003)。

 柳兼子は1892年(明治25年)生まれ。1984年に92歳の高齢で亡くなったこの日本の近代の声楽法を確立したとされる不滅のアルト歌手は、音楽における「白樺派」の代表的人物であった。旧姓を中島と言い、夫である柳宗悦の文学活動を物心両面にわたって支え続けたと言われている。我孫子での新婚生活の中、当時の日本軍部政府の韓半島の人々への抑圧や同化政策に真っ向から対立し、夫婦ともに韓半島に渡ってリサイタルを開催。当地の人々と深い親交を結んだそうである。かつては「声楽の神様」とまで呼ばれ、1928年のベルリンでのリサイタルではドイツ人を驚愕させるほどの日本最高のリート歌手であったが、軍歌を歌うことを頑なに拒否。このため戦中より活躍の場を奪われてしまった。戦後も正当な評価がなされぬままになった感があるが、本人はそんなことなどまるで意に介さないかのように歌い続け、なんと85歳まで公式のリサイタルを続け、その後もニ、三年は私的な集まりで何度となく歌っていたそうである。これは肉体そのものを楽器とする声楽家として通常は考えられないことであろう。ちなみに前述のCDは1975年、彼女が83歳の時の録音である。

 しかしなんと厳しい歌だろう。このCDの彼女の歌を聴くと、詩に対するえぐりは厳し過ぎるくらいである。彼女は詩を語りかけるように弱音主体で曲をすすめながら、曲の山に至ると凄絶なフォルテで、切ないまでの魂の叫びを響かせる。そこに感じられるのはもはや人間の声を超越してしまった何かであり、深い孤独感と憂愁が絶えず震える彼女の声の奥から響いてくる。いわゆる美しい声ではないし、磨きあげられた声でもない。それはまるですすり泣きのようであり、命懸けの訴えのようである。したがって日本歌曲の純粋なメロディの美しさに酔いたいという人にこのCDはむしろ向かないかもしれない。表面的な演奏でも通俗的な演奏でもない。それほど内容のえぐりが効いているからである。80歳を越えてなお芸術の深奥に迫ろうとする柳兼子という一人の人間の気迫を如実に伝えるそれは、まさに精神の声であり、魂の音楽と言ってよいだろう。老いのため部分部分で声が震えてしまうのは致し方ないが、少なくとも私には何の気にもならなかった。

 とりわけ感動したのは「平城山(ならやま)」「九十九里浜」「荒城の月」「母」「砂丘の歌」「浜辺の歌」「小諸なる古城のほとり」である。

 特に「九十九里浜」の強烈な魂の叫びは冒頭から私を捉えてしまった。一瞬にして太平洋の水平線につれ去られてしまうようだ。小林道夫のピアノ伴奏もまるで音楽に使える使徒のように柳兼子の歌と一つになって音楽の中に深く入り込んでいく。いわゆる外面的な美しさとは別物であり、それだけに心に奥深く突き刺さるような力を持っている。あまりにも感動的な絶唱で、聴いていて涙さえにじんでくる。

 背筋が寒くなるような感動に襲われたのは滝廉太郎の「荒城の月」である。何という憂愁! 柳兼子の歌はさながら古風な舞いを踊るようであり、聴いていて周りの時間が止まってしまう。呼吸をするのもはばかられる。音と音との間には深く暗い闇が開いているようで、深い詩心が語りかけてくる。滝廉太郎の詩の深さが悠久の時間の中を匂ってくるようであり、あたかも月夜の下で花が散っていくようだ。

 柳兼子の歌を聴くまで私は「九十九里浜」と「荒城の月」の真の魅力を知らなかった。これらの曲の本当の美しさを知らなかった。彼女の歌を聴くことで、私はこの作品に秘められた芸術性に気がつくことができたと言ってもよい。

 彼女の歌を聴くとヨーゼフ・シゲティのヴァイオリンを思い浮かべる。シゲティのヴァイオリンは技術的な問題を越えて音楽的な世界が響いてくる。少々クラシックを聴いた人間ならわかることだが、シゲティほど不器用で無骨なヴァイオリンは他にいまい。だがその独特の気迫を込めたような痛烈な音楽は、もはや技巧や楽器の音を超越して何かを伝えてしまう。このシゲティと似たような音楽性を筆者は柳兼子に感じるのだ。しかも驚くべきことは彼女は声楽家であり、自身の肉体を楽器とする演奏者であるということである。にもかかわらず肉体の衰えを乗り越えて彼女の音楽は進歩したのである。

 しかしこの歌はいったい何なのだろう。人間の声は鍛えに鍛え、ついにこのような境地にまで到達できるものなのか。彼女の「浜辺の歌」など、フレーズのあちこちに老いによる声の震えがあるはずなのに、聴いているとそんなことは少しも気にならなくなり懐かしさや優しさや詩の情景が胸に迫る。それはもはや歌手自身の人間性の発露の美しさとしか言いようがない。

 若い声楽家なら声の伸びやかさ、朗々とした美しさで歌を歌い上げることができるだろう。しかしそれらの若さと輝きをなくしたとき、声楽家は何を語りかけることができるのか。多くの歌手が年齢の限界によって舞台から去ってゆく中、ただ一人、柳兼子だけがその限界を飛び越えてしまった。その歌は、まるで歌手の声から若々しさが去ったときから真の芸術が始まるとでも言うかのようだ。

 「みなさん、年をとると歌えなくなるのではなく、歌わなくなるんでしょ」
 「この年になって、今まで出来なかったことが突然やれたり、新しい発見をすることがあるんです」(柳兼子)

 指揮者W・フルトヴェングラーは「真の芸術とは何か。技巧に走ることを必要としない能力である。」と語っているが、彼女の歌を聴いていると、技巧に走ってありあまるテクニックを駆使することが何とも底の浅い芸術に思えてきてしまう。彼女の歌の素晴らしさはいわゆる技巧とか若さとかそういったものを一切捨てたところから生まれてきたものだからだ。

 むろん筆者はここでテクニックそのものの必要性を否定しようとしている訳ではない。音楽にはテクニックが奉仕するところの最も重要なものが存在し、その表現手段としてテクニックが存在する。最も深い感動を表現するためにこそ、テクニックが存在するのであって、それ以外に技巧の存在意義などないのではないか。

 「仕事をしていれば人は年をとらない。そういうわけで、私は仕事を止めることなど夢にも考えることはできない。引退という言葉は今も将来も、私には縁がないし、私にはそんなことは思いも寄らぬ考えである。私は、私のような職業のものには引退はないと信じている。精神の続く限りは。私の仕事は私の人生である。仕事を離して人生を考えることはできない。いわば引退なるものは、私には棺桶に片足を入れることなのだ。仕事をし、倦むことのない人は決して年をとらない。仕事と価値のある事に興味を持つことが不老長寿の最高の妙薬である。日ごとに私は生まれ変わる。毎日、私は再び始めなければならない。」(パブロ・カザルス)

 私も柳兼子のように年を重ねたいと願わずにはいられない。柳兼子の歌は音楽の感動とともに、何か貴重な精神的な遺産を私たちに提供してくれる。それは人間がいかに生きるべきかという問いかけであり、自らの使命を最後の瞬間まで生き切るという彼女の不断の努力の姿勢である。
 自らの使命に生き切った人間こそが真の幸福な人間であろう。柳兼子はこのCDを聴く限り80歳を越えてなお闘っている。自分の声と闘い、声の衰えと闘いつつ、自分の限界を更に越えようとしている。そしてついにその歌声はもはや「声」であることをやめて、「詩」そのものになってしまった。聴いていて深い敬意を覚えずにはいられない。この歌手が歴史の陰に埋もれることのないよう、一人でも多くの人が彼女の歌を聴き、自分の耳でその素晴らしさに触れていただくことを筆者は希望する。
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2014年08月20日

映画『兼子』上映会@我孫子

日本の民藝の租・柳宗悦氏の夫人の柳兼子さん(1982〜1984)についてのドキュメンタリー映画を一緒にみませんか。
 
映画『兼子』上映会(80分、カラー)
参加費:無料 

●市民プラザ 第2会議室
イト-ヨ-カド-・エスパ3F
(千代田線・常磐線・成田線・我孫子駅北口より徒歩7分)

●9月15日(土) 2時〜

●お問い合わせ:04-7184-9828(ACT 柳の会)


<映画の内容>
白樺カレーのレシピを考案したとして知られるようになってきた柳兼子さんは、実は「声楽の神様」とまで言われた日本有数のアルト声楽家でした。また、明治・大正・昭和を生きた音楽活動そのものが「わが国の生きた音楽史」ともいわれています。なんと、87 歳まで現役の歌手として活躍しました。映画では、兼子さんの歌声を織り交ぜながら、夫となる柳宗悦との出会いなど、兼子の人間性に迫る作品となっています。夫の柳宗悦の白樺派の文化活動、民芸運動にも声楽家として協力、経済的にも大きく貢献しました。一方、母としても、立派に3人の子供たちの養育に力をそそぎました。兼子さんを知る20人のインタビューを中心に描き出される映像は、激動の時代を生きた一人の女性の心の軌跡です。この歌手が歴史の陰に埋もれることのないよう、一人でも多くの人が兼子さんの歌を聴き、自分の耳でその素晴らしさに触れていただくよう、第一回の上映会です。

posted by その木なんの気、柳の気 at 10:44| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月03日

柳宗悦に関する本

「歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。」というのを検索で見つけた。それには、興味深い柳宗悦研究について触れていたので紹介したい。


【本】中見真理『柳宗悦−「複合の美」の思想』(岩波新書)

2013-07-30 06:27:01 | 日記


 ボクを未知の世界へと誘ってくれた本である。今まで、民芸といい、柳宗悦といい、そういう世界があることは知ってはいたが、その世界へと足を踏み入れたことはなかった。

 今秋から、ボクは新たな歴史講座を引き受けるなかで、この浜松市にも民芸運動が存在していたことを知り、その資料を集め始めていた。そんなときに刊行されたのが、本書である。

 まず「序章」を読み、著者の立ち位置が、現代的な課題を十二分に意識しながら柳について書いていることに、大いなる安堵の感を抱いたのである。研究というものが、現代的な課題を意識せずに行われるという時代に入っていることに、ボクは慨嘆していたところであったので、本書の「まえがき」を読んで、ほっとしたことも事実である。

 さて、著者は「野に咲く多くの異なる花は野の美を傷めるであろうか。互いは互いを助けて世界を単調から複合の美に彩るのである」という柳のこの考えを中核として論じていく。この考えは、民芸に関してのみ妥当するものではなく、自然や社会、政治など、あらゆるところに敷衍することが可能となる思想である。

 柳のその思想はどこから来たものか、著者は探索を開始する。そこには、多数の思想家が顔を出す。クロポトキン、
ブレイク、大杉栄、白樺派、浅川兄弟、トルストイ、バートランド・ラッセルなど、柳が影響を与えた人々の思想が列挙される。

 ボクは、それらの文学者や思想家の思想を、ボク自身が十分に咀嚼してこなかったことを大いに恥じた。すでに遅いであろうが、ブレイクやクロポトキンについては、今から読んでみようと思う。

 さて、柳は「複合の美」という中核的な思想から、朝鮮の文化、東北の民芸、アイヌや沖縄の文化や民芸に価値を見いだし、差別される現実を、自らそういう価値に誇りを抱いて乗り越えていくことを主張する。

 同時に、「複合の美」の視点から、平和思想へと発展させていく。著者は、この平和思想こそ、現代において注目すべきではないかと主張しているようなのだ。然り、とボクは、著者の意思に賛同する。

 よい本である。柳の思想が、「大日本帝国」の思想に抗いつつ、国内外の文学者や思想家の思想を、それこそ「複合」して形成されてきたものであること、でるがゆえに普遍性をもったものとして今も存在していることを著者は明示しているようだ。


出典:http://blog.goo.ne.jp/hamanashigaku/e/ee4a77cfd6fac282010d66c3c59fd1cb
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2014年07月18日

2014年06月14日

日本の女性と音楽:柳 兼子(1892-1984) をめぐって

 柳兼子はドイツを中心にフランス、イタリア、日本語の歌で90歳まで現役を通したアルト歌手である。ベルリン (1928)、ボストン (1929)、パリ (1976) でも歌い、日本芸術院会員 (1972) にも選出された、日本の例外的女性といえる。私生活では柳宗悦 (1989-1961) の妻 (1914〜) として民芸運動をともに支え、朝鮮美術保存 (1921〜)、日本民藝館開設 (1936〜)、さらに沖縄民芸研究 (1939〜) やアイヌ工芸 (1941〜) にも関心の環を広げた夫に協力、計り知れない貢献を成した。加えて息子三人の育児と家事全般、民芸館を訪れる多数の来客の接待なども一手に引き受けており、公私にわたるこうした兼子の目覚しい働きと演奏収益なしには宗悦の業績は実現しえなかった― 長男宗里はじめそれぞれの道に大成した息子たちが異口同音に語っているところからも、これに疑いの余地はまったく無い。にもかかわらず、百科事典宗悦項目、宗悦全集、民藝館展示・売店、柳家住居などでは、兼子は不在同然の扱いで放置されているのだ。

  東京藝術大学 (旧東京音楽学校) 卒業生、国立音楽大学教授 (1954-72) としても先輩に当たるこの女性に強烈な関心をそそられた私は、最終終講義の論題に迷うことなく彼女を取り上げた。夫妻の記念碑的共同作業として建てられた日本民藝館と柳家住居がいまなお駒場にあり、都立駒場高校に通学した因縁もあらたな意味合いに感じられる。意外にも兼子は、私の身近に足跡を残していたのだ。以下、兼子の発言 (門弟松橋桂子による 『柳兼子伝』 [水曜社、1999] から引用) から取り分けインパクトの強い例をご紹介しよう。

  まずは兼子のトレード・マークである和服姿 〔珍しい洋装姿も添えておく〕 について。「帯はお相撲さんの締め込み [回し] と同じで、発声の腹式呼吸を整えるのにとてもよい」。音楽修行の原点が長唄と琴の邦楽があったのに加え、隅田川近くで育ち幼いころの小屋掛け見物から生涯の愛好者となった相撲にも重ね合わせているところが面白い。
 
 83歳時の “ハバネラ” のフランス語歌唱の映像はまさに衝撃的だったが、1926年夏、同志社大学生たちによる日本初の混声合唱団を組織して指揮棒を揮ったときも和服姿、しかも5ヶ月の身重だったという…評伝と同じ著者の編集になる詳細な 「柳兼子音楽活動年譜」 (1987,日本民藝協会) には、この類の瞠目すべき兼子のエピソードで溢れている。

  ついで、いまや神格化されているクラシックの 「巨匠」 たちに対する容赦なき批判は眞に痛快だ。「ああいうものを理解して歌ふことの出来る唄ひ手がございましょうか? メロディそのもの、ハーモニイそのものが…しみ、マア、しみでございますね」。これは恋愛中の宗悦から 「歌ってみては…」 と勧められたシェーンベルクの最新作 『心に芽生えたもの Herzgewächse』 (1911) の譜読みを終えて書き送った感想である。評伝の筆者松橋は、調性破壊に接するこうした前衛音楽をまだ兼子は理解できていなかった、と解釈しているが、私はむしろ、音楽の本義に悖る 「現代音楽」 の逸脱を、兼子が鋭く見抜いていたのだ、と捉えたい。

  ベートーヴェンに対しても一切遠慮はない。1937年、N響の前身新交響楽団の指揮者ローゼンストックから出演依頼を受けながら、それを断った理由を評論家山根銀二から尋ねられ、兼子はつぎのように答えた。「『第九』 のアルト・パートは歌っていてもちっとも面白くないから…」 ―なんという率直さであろう! N響をバックに 「第九」 を歌うという、クラシック歌手の最高の栄誉とされる機会さえ、自分の好悪を押し通して断ってしまうとは見事というほかない。

  「あんな歌、チョロイわよ…山田耕筰の歌はみんな女学生唱歌よ」。日本の作曲家として最高ランクにある山田を兼子が全面否定していたことはすでに上記8で触れた。ここに引いた発言は1944年、戦時下の慰問で例外的に歌った山田の 『兵士の妻の祈り』 に関連して吐いたもの。当時山田が妻永井郁子―兼子の音楽学校同級生にして同じペッツォルト門下、そして翻訳歌唱の提唱者としても見逃せぬ歌手だった―に暴力を揮っていた事を許せなかったという私怨が言わせたものらしいが、山田への評価の正当性を疑わせ、同時に兼子の正義感を称えたくなる一件ではないか。

  確立した権威に阿るのでなく、あくまで自らの感性を判断の拠り所とする兼子の真骨頂は、黒人歌手マリアン・アンダースンをめぐる次の発言でも示される。「とても上品で人間がよく出来た人でしたよ。黒人の声で歌われた黒人霊歌の素晴らしさに比べると 『魔王』 などの演奏は多少の破綻がある。けれども例え音が下がろうと、その奥にそれを補って余りあるものを聴く力を持たなければ駄目ですよ。去年来たトラウベルと較べてごらんなさい。大声だけ張り上げて歌う人と、アンダスンの音楽性がいかに違うかを」。1953年、来日したアンダスンとの対談を回顧して門弟に言い聞かせた一節である。ヘレン・トラウベルは音楽狂の愚父の口から聴いて10歳当時の私さえその名を知っていたアメリカの白人歌手。本稿を書くにあたって改めて彼女がワーグナー歌いだったと知り、兼子のいう 「大声だけ…」 に納得だ。

  しかし何より衝撃的なのは、1928年、念願のドイツ留学を果すべく宗悦に懇願した次の言葉である。「どうぞ、女中さんのヤブ入りみたいに、半年ばかり私におひまを下さい」。滞欧の必要資金全額を自ら賄い、留守中の生活費も調達した挙句、出立後の演奏会出演料まで夫に差し出してなお、このような物言いを強いられるとは…後を絶たぬDV、レイプ事件、就業差別、無償家事労働など、女性へのあまりに不当な扱いが世界的にさらなる悪化の気配を感じさせる21世紀。兼子の場合のような、婚家に入った女ゆえの悲痛な想いを知り、わずかでも共感する人を増やしていくことしか、解決の道筋はないのかもしれない。しかし私にはこれこそが “Think globally, Act locally” の説く教えと思われる。

出典: NPJ通信(小林緑 2009・5・28)より抜粋
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2014年06月08日

浅川伯教、朝鮮陶磁に魅せられた人

「李朝の白磁は大理石の様に透明な陰を持って居る。はち切れそうに内から壓(お)し出した曲線は気持ちよく光を辷(すべ)らす。これは全く彫刻の効果だ」(浅川伯教「壺」『白樺』1922年より)。

後漢から明にかけての中国のものも素晴らしいが、朝鮮半島のものは繊細かつユーモラス。高麗の青磁は、その透明感で、中国をしのぐ。意匠は、自在でとにかく楽しい。豊臣秀吉が、その昔、朝鮮半島から多くの陶工たちを拉致もしくは強制連行と言っていいと思う。ひとえに日本にはない、素晴らしい作品があふれていたからだろう。焼き物のすごさを教わったのは、鹿児島の苗代川、東市来の薩摩焼当主、先代の沈寿官さんやその集落の工人からだ。先々代と、もう一つ前の沈寿官の白薩摩は超絶技巧のなせる技だと思う。中国陶磁の影響を脱し、独自の美を生み出した朝鮮陶磁を通して、日本は、繊細な染付、つまり粉青を学び、吸収したのだ。

17世紀後半から18世紀前半の朝鮮官窯では、大型の白磁壺が好んで作られた。広州は朝鮮王朝の官窯が置かれた地であり、韓国陶磁研究の要となる場所です。伯教が著わした『李朝の陶磁』(座右寶行会、1956年)には、「広州郡の窯址地図」という項が設けられており、そこにはこの地が豊かな山野に恵まれ水運に適していることが、約450年もの長期間官窯として機能した理由として述べられている。

焼き物には、ほかの美術品とは違う存在感がある。例えば、土と釉薬の相性、そして窯の温度、そして、それを掌に抱き、愛でたひとの思い。そうしたものの総体が、焼き物から放出されているのだ。杯を見ていると、それに口をつけたひとの唇を想像し、花瓶であれば、活けられたであろう花や、それがしおれるさまも、思い描く。青い色、白い色と言っても、ひとつとして同じものはなく、貫入の細部、釉薬の発色も、部分部分で違っている。これを、神の御業と言わずして、何だろうか。韓国で満月壺と呼ばれて珍重される胴径と器高がほぼ一対一の均衡をとり、堂々とした造形などを、浅川伯教は、胴継成形によるシルエットの変化を人間の胴体と見なした白磁壺に抽象的な彫刻を感じていたようだ。

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2014年05月26日

なぜか、風化した我孫子の白樺派

我孫子の人は、当地が観光地だとは考えられないかもしれませんが、今時は観光される街はお洒落な散策路があったり、文学者が住んでいたとか自慢できる地域の誇りです。世界遺産との認定がされることが、社会ぬーすなのですから、少し我孫子に訪れてもらえるように仕掛けが出来ないものでしょうか!?

例えば白樺派の文人である志賀直哉をウリにしているのが、城崎町の文芸館(1977年設立)です。1階には、志賀直哉と白樺派の文人たちの作品・手紙を、2階には城崎にゆかりのある文人墨客の作品を展示。小説『城の崎にて』を当地で執筆した直哉直筆のサインが刻まれた「城の崎にて」の文学碑が建て、観光客の撮影のスポットにしています。

志賀は実父との対立から、家を離れて放浪し、広島県尾道に住み、夏目漱石の奨めにより「時任謙作」を執筆していました。1913年(大正2年)4月には東京に戻って、同年8月に里見クと芝浦へ涼みに行き、素人相撲を見て帰る途中、口論、線路の側を歩いていて山手線の電車に後からはね飛ばされ重傷を負う。暫く入院して、療養のために兵庫県にある城崎温泉(「三木屋」という旅館(現存)に宿泊)に宿泊した。その後は松江や京都など各地を点々とし、1914年(大正3年)には結婚する。

そして、いよいよの1915年(大正4年)柳宗悦の勧めで、我孫子市の手賀沼の畔に移り住む。
しばらく、筆が進まない時期があったが、1917年(大正6年)5月に、『城の崎にて』を同人誌『白樺』に発表すると、心境小説の代表的な作品となる。

『城の崎にて』は、事故に際した自らの体験と療養の記憶を 鋭い自然観察で蜂、鼠、イモリなど生き物の淋しさを感じている「自分」を通して書いた。このイモリや鼠が出てくるあたりは、我孫子での子どもたちとの生活が大きいのではないかと思われる。新たな「子ども」という生命の誕生、喪失によって自然の見方がかわってきたのではないか。簡素で無駄のない描写は無類の名文と言われるようになる、そのきっかけが城崎で療養し、その時のことを我孫子にて書いたということがあるわけです。

志賀の小説には我孫子の地名がでてくることも多く、陸軍の演習地であったことも分かります。
しかし、我孫子と白樺派など、なかなかイメージとして結びつかないのは、当時の我孫子の人には迷惑な若者たちだったからではないかなと、想像します。大正6年10月には実父との和解が成立し、『和解』を発表、この後、1920年(大正9年)、『小僧の神様』『焚火』を発表し、この題名がもじられ「小説の神様」と言われるようになる。 1921年(大正10年)、唯一の長編小説『暗夜行路』の前編を発表した。1923年(大正12年)まで我孫子に住み、京都、奈良、鎌倉、世田谷、熱海と移っている中で重要作品のほとんどが我孫子で書かれた事が検証されています。

信州白樺といわれる活動では、武者小路実篤、柳宗悦が講演に行き、青年教師たちは、しかし、青年たちは自由な思想への傾倒のために弾圧を受け、何百人も処分者がでるようになります。時代的には、柳宗悦などは日韓併合についても批判していますから、なかなか当局との折合いも難しい活動だったのでしょう

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2014年04月11日

兼子の歌声

 87才までステージに立った、アルト歌手・柳兼子ーやなぎ かねこー(1892−1984)。日本の民芸運動の祖・柳 宗悦を公私ともに支えた、夫人の兼子は、現在の東京芸大で声楽を学び、ベルリンでもリサイタルを開催した日本を代表する歌手でした。

東京都美術館で兼子が積極的に日本にも紹介し歌ったマーラーの歌曲を集めてミュージアム・コンサート 「生活と芸術 ― アーツ&クラフツ展」 記念コンサート vol.3(2009)「日本〜柳 兼子(柳 宗悦・夫人)に捧げる」、も開催されました



 「やっと八十になって、歌が歌えたなという気がいたしますからね。 長生きしてよかったなと思います。」と言う兼子・83才の、ふくよかでつややかな、表情豊かな、とても素敵な歌声にDVD「兼子」を見て魅了されました。

 柳宗理など 3人のご子息が、両親・兼子と宗悦について語るのを、興味深く聴きました。
子どもたちの自主性を生かすべく、おおきな心で、のびのびと子育てされたようです。
母への愛情が、言葉からあふれでていました。
母によって育てられた・・・と。 が、
「オヤジは 母親に対して威張ってね。暴力とか・・・。でも、オフクロは強いから・・・。」

 宗悦にも、<男は 威張っていいんだ> という カンチガイが あったのでしょうか。

 その前の週に、市民講座で、高崎宗司氏の、柳宗悦論を聴いたばかりでした。

 柳 宗悦ーやなぎ・むねよしー<1889−1962>は、白樺派の文人。
朝鮮の焼き物の美しさに出会って、’16年から、21 回も渡朝。
芸術家が作ったのではない、民衆の生活工芸品に強く惹かれ、各地を回って5000点もの民芸品を収集し、保存のために奔走しました。
その資金集めのために、<柳 兼子コンサート> が 何度も開かれました。
’20年と’21年には、京城などで10回近く行われ、西洋の音楽、女性の活躍と言う意味で、朝鮮の女性たちのこころを揺さぶったようです。
’24年にはかの地に、<朝鮮民族美術館>が 建てられ、日本にも<日本民藝館>が建てられました。

 しかし、その功績以上に宗悦は・・・・、と 高崎先生は力説しました。

 民芸品を探しに地方を回るうち、植民地化により 人々が大変苦しんでいることを知ります。
土地は取り上げられる、作った米は日本に持っていかれる、働き手は徴用に取られる・・・。
日本の植民地政策を批判しました。
’19年の三.一独立運動の時は、素手のデモ隊に武力で弾圧し、多くの死傷者を出したことに抗議し、『朝鮮の友に贈る書』を書きました。
その後の同化=文化政策、(内鮮融和と言う名の、教育・出版・皇民化政策)に対し、「自律する彼らの精神の自由を認めていない」 と批判しました。
公憤があった、のです。
’23年は関東大震災の年。 朝鮮人虐殺があった頃です。
官憲の検閲で<削除>を受けながらも、 ”日本人よ、朝鮮の人々を敬愛し、尊重せよ。朝鮮の人よ、自信と誇りを持て” と、書き続けたのです。

 宗悦の著書『朝鮮とその芸術』 は、韓国で8回も翻訳され、愛読されているとのことです。

 宗悦の、朝鮮への思い、それを伝えようとする高崎先生の思いが伝わってくる講座でした。
高崎先生の、『「反日感情」 韓国・朝鮮人と日本人』、や、『戦時下の朝鮮』(ウーン,書名、うろ覚えです。岩波新書)では、日本が朝鮮に対し、どんなにひどいことをしたか、事実の歴史を研究し、発表しておられます。


 戦後の朝鮮半島の情勢について、宗悦はどんなことを思っていたのでしょうか?
日韓条約の前に 亡くなりました。

 先の DVD では、兼子さんの朝鮮の歌は、ありませんでした。聴きたかったです。

出典:ブログ
「柳兼子の歌声」(2008.6)より抜粋
posted by その木なんの気、柳の気 at 00:00| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする