2014年04月10日

柳兼子の音楽室

兼子さんは、日本の戦争政策に反対し軍歌を歌うことを拒否したために、第二次大戦中は活躍の場を奪われたのでした。歌い手としての全盛期のブランクは大きく、ようやく戦争が終わった後には兼子さんの存在は忘れられていました。

白樺文学館がオープンした直後・2001年に、我孫子での様々なご縁によってCD化の話が持ち上がりました。CD化した際に艶やかで美しい音で再生し、多くの方に兼子さんの魅力、その前例のない深い歌声=歌の意味を掘り下げて曲のイデアに迫った芸術を知ってもらいたいと、館内にはオーディオ装置づくり(予算は500万円)・音楽室の設計・テーブルとソファーのデザイン・椅子の選定等に取り組んだのです。兼子さんのための音楽室ですから、オーディオ装置とその調音も「兼子チューン」なのです。

それから9年が過ぎた2010年4月10日、駒場の『日本民藝館』(西館)に『柳兼子記念室』がオープンしました。我孫子の白樺文学では、兼子さんを白樺同人の数少ない女性芸術家のひとりとしてとらえ、開館当初より、その歌声も聞いていただけるようにしつらえました。

参考:
思索の日記(武田康弘)

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2014年04月09日

声楽の神様、柳兼子

 かつては「声楽の神様」とまで称され、数々のドイツ・リートを歌い85歳まで公式のリサイタルを続け、その後も数年間は私的な集まりで歌い続け、92歳で亡くなる2ヶ月前まで後進の指導にあたっていた「わが国の生きた音楽史」ともいわれたアルトの声楽家のCDがこの1月に発売された。「かなでることば〜兼子のうたのこころを聴く/VIG-8001」である。アルトの声楽家として18歳から87歳まで演奏活動を続けた柳兼子が、引退1年前の84歳の時(1976年6月11日神奈川県民会館小ホールでの独唱会)に録音した音源が見つかりCD化されたのが本作。“うた”の何たるかを体現した貴重な一枚だと思う。

 その歌声はエスプレッシーヴォで淡々と語りかける様、歌い上げる所は己の全人性を懸けるといった感。其所に無尽蔵の表現力が実感できる。「声楽リサイタル/OVCA-00002」に録音されたシューベルトの魔王では声に迫力があり素晴らしいヴォーカルだ。

 Track1のMeyerbeer(マイアベーア)の予言者より「あわれ我が子よ」は、歌もピアノも心をえぐる感でcantabile(カンタービレ/歌うように)もrecitativo(チタティーボ/語り掛けるような)も素晴らしく、高い変ロ(♭)も見事に歌い上げている。Track2はBizet(ジョルジュ・ビゼー)のカルメンより「ハバネラ」、マリオ小林のピアノ伴奏共々表情豊かな曲を聴かせてくれる。Track3のLuzzi(ルッツィ)作アヴェ・マリアではサンタ マリア(聖マリア)と歌う真情などの表現と声は感動モノ。Track4はTostiのセレナータ、Track5 Giordaniのカロ・ミオ・ベン迄が原語で歌われている。日本語で歌うBeethovenのいずこ行くか、Bishopの埴生の宿や W.S.Haysの故郷の廃家は何とも美しい響き。特に故郷の廃家では兼子の声が心に訴えてくる。寂しさでテンポを落とす辺りが絶妙。
 
 後半は日本歌曲の詩歌に込められ、長唄の要素がとり込まれているといわれる日本の美しい言葉で語られている。「芸術は心である」と語る兼子の真髄が聴ける。十八番中の十八番、清瀬保二の少年の日では自信が溢れたスケール感や悲しい心の込め方など、語りかけるような歌い方は聞くものの心に染み入る。Track16、大中寅二の「椰子の実」は兼子の代表曲、語りの要素が多く枯れきっている。フレーズは短いも実に美しい声。

 柳兼子(やなぎかねこ、1892年(明治25年)5月18日 − 1984年(昭和59年)6月1日)アルトの声楽家として18歳から87歳まで演奏活動を続け、92歳、死の2ヶ月前まで後進の指導にあたった。明治・大正・昭和を生きた彼女の音楽活動そのものが「わが国の生きた音楽史」ともいわれている。1910年東京音楽学校声楽科卒業。1914年柳宗悦と結婚。

 柳宗悦は同人雑誌グループ白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え民芸運動を起こした思想家である。朝鮮の陶磁器をはじめとした民具と、その作り手である朝鮮の人々を愛し、そのすばらしさを類まれな審美眼をもって日本に知らしめている。また兼子は夫の白樺派の文化活動、民芸運動にも妻として、声楽家として協力、経済的にも大きく貢献している。

 1927年にはグスタフ・マーラーの歌曲集「亡き子をしのぶ歌」「リュッケルトの詩による5つの歌」及び「子どもの魔法の角笛」の中の“死せる鼓手”“少年鼓手”を日本初演している(近衛秀麿指揮、新交響楽団の定期演奏会)。1928年ドイツに留学、ベルリンでのリサイタルではドイツ人を驚愕させるほどの日本最高のリート歌手であったが、軍歌を歌うことを頑なに拒否。日本政府の朝鮮半島への同化政策に反発し、夫婦ともに朝鮮半島に渡りリサイタルを開催。当地の人々と深い親交を結んでもいる。兼子は柳宗悦とともに朝鮮独立を公言し、朝鮮支配を批判していたため、私服刑事に見張られ、特高にも監視されていたようだ。国民の士気高揚のために軍国主義化する音楽界から身を引くような形となり、実質的な音楽活動が途絶えてしまう。戦後の混乱期を抜け出てようやく現場復帰を果たしたものの、当時まだ一段低いものと見られていた日本歌曲の唱法の確立に情熱を傾けていたせいもあり、半ば忘れ去られた存在となってしまう。

 戦前、自他ともに認める日本最高のアルト歌手であり、本場ドイツで絶賛された初めての日本人でもありながら、全盛時の作品は現在わかっている限り、ほとんど残っていない。2001年、柳兼子再評価の機運が高まり、オーディオ・ラボのレーベルで長らく廃盤になっていたいくつかの音源が復刻された。また他にもアートユニオン、グリーンドア音楽出版のレーベルからもCDが出されている。
 2001年3月22日、柳兼子のCDを特集した小番組「声楽の母 幻の録音テープ発見」が放映され、各地で大きな反響を呼び4月26日にCD 「永遠のアルト 柳兼子」がグリーンドア音楽出版より発売された。以下が入手可能なCDと思うが「魔王 柳兼子」はまだ入手出来ていない。

●「柳兼子 現代日本歌曲選集」オーディオ・ラボ OVCA-00001
●「柳兼子 声楽リサイタル」オーディオ・ラボ OVCA-00002
●「柳兼子 現代日本歌曲選集2」オーディオ・ラボ OVCA-00003
●「永遠のアルト 柳兼子」グリーンドア音楽出版 GD-2001~2003
●「魔王 柳兼子」グリーンドア音楽出版 GD-2004

 2003年には佐藤隆司企画・原案、渋谷昶子脚本・演出によるドキュメンタリー映画「兼子-Kaneko」(全農映)が制作され、その後、日本各地で上映される。また英語版も翌年に制作され、すでに海外でも上映がされている。
 また小池静子「柳兼子の生涯 歌に生きて」、渡部信順「柳兼子の歌」、宇野功芳「名演奏のクラシック」、多胡吉郎著「わたしの歌を、あなたに 柳兼子、絶唱の朝鮮」など数多くの書籍が発行されている。なかでも柳兼子の芸術と生きた時代を活写した評伝、松橋桂子の「楷書の絶唱 柳兼子」は是非読んでみたい一冊である。「わが国の生きた音楽史」「声楽の神様」とまで称された柳兼子の“うた”の何たるかを是非聴いて欲しい。

出典:竹内賢治コラム(2009/6/15)より
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2014年01月10日

三樹荘にあったロダンの彫刻のゆくえ

武者小路実篤は、大原美術館に送ってきた手紙が残っています。それによると、
「白樺美術館をつくろうとしてあつめた寄付が未完成すぎた結果、柳宗悦、志賀直哉達の申し出があり、白樺美術館の完成はものにならない事がわかっていたので、我々が相談してこの美術館に委託したものです。…誰からも反対されなかったと思います。幸いこの美術館からも喜んでいただけ、私達の骨折も無駄にならなかった事を喜んでいるわけです。…ロダンからもらったブロンズ三つと共に美術館におさまっている事になり、私達は喜んでいる事になりました。(原文のまま)」と述べています。

白樺同人が「白樺美術館」の建設を目的に皆でお金を出しあって美術館の建設を夢見て、セザンヌの絵も購入したましたが、美術館の設立が長らく実現せず、柳宗悦の家にかかっていました。セザンヌ好きだった大原總一郎が柳宗悦に懇望して、しばらく寄託というかたちで大原美術館にて展示をしていました。

しかし、いよいよ白樺美術館の設立は困難であるとして、昭和43年9月8日、白樺美術館企画人を代表して、武者小路実篤、志賀直哉の両人が、これらの作品を永久に大原美術館に委託するという正式な申し入れをしました。その後、館では
「…以上の作品は白樺美術館設立の企図の下に蒐集されたものでありますが、遂にその設立を見ずして歳月を経ましたので、当館に於いては柳先生の希望に則り白樺美術館当初の御意図に副うよう努めて参りました。…(中略)…この際双方の意図を文書の上に遺し、白樺美術館同人は左記作品4点を永久に大原美術館に委託し、…(中略)…永くその意図に副いたいと存じます。」
と書かれてあります。

 そのとき、セザンヌ「風景」のほかにロダンのブロンズの小作品3点も一緒に寄託されました。

参考;大原美実館HP http://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C3a14.html

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2014年01月07日

白樺派ゆかりの地、我孫子

当時、手賀沼の周囲にきちんとした道はなく、水がひたひたと、志賀邸の石段の下まで寄せていたそうです。そんなわけで、土地の人にとって、手賀沼のほとりを行き来するには、なまじの山道より、舟を使った方が速くてスムーズ。そこで武者小路も、小舟で竿さし、スィ〜〜と岸に寄せては、お〜い、志賀、いるか〜......。こんな風に下から声をかけていたそうです。

 そういうお話を聞くにつけ、私の空想は、谷内六郎の世界とか、マーク・トゥエインとか、「未来少年コナン」(古!)に出てきた樹の上の隠れ家とか、といった方面に広がってゆくのです。ここ我孫子は、ずいぶん不便で、湿気も多く、住みづらい土地でもあったようですが、それでも彼らがしばらく居たのは、そんな日常の不自由な生活そのものに、彼らの感性のワクワク部分を刺激する〈遊び〉の面が含まれていたからではないでしょうか?住居跡の地形を見ると、そんな風に思えて来ます。家族持ちとはいえ、皆、三十代前半頃(柳宗悦は二十代後半)。まだ心はオジサンになるには早すぎて…という事だったかも知れません。

 雨なので手賀沼周遊は出来ませんでしたが、文学館には素敵なオーディオルームもあり、柳兼子さんの熱唱などを聴かせていただきました。珍しい〈手紙展〉も開催中でした(〜12/23)。白樺文学館の皆様、色々なお話をお聞かせ下さり、ありがとうございました!

* * * * * * * *

 ところで、後からふと気がつき、あの地の近くには園池公致も住んでいたはず…と、あれこれ資料をめくっていましたら、ありました、「僕が我孫子にいた時、志賀直哉は園池と二人で気らくに同人雑誌のようなものをつくっていた」(武者小路「園池公致兄」・『心』昭和49年3月号)。「和解」第九章に「自分はある親しい友と毎土曜日二人だけで回覧雑誌を作る事にした」とある、その“親しい友”が園池です。二人きりの、ささやかな回覧雑誌だったようですが、しかしそれは、ある意味で、志賀が創作活動に復帰する第一歩ともなった大事な交流。こういう面から考えると、〈我孫子と白樺派〉の関わりも、またあらたに広がって見える気がします。

出典:風のたより 

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2013年10月11日

岩波新書:中見真理『柳宗悦──「複合の美」の思想』

 柳宗悦のプロフィールについては今さら説明の必要もないかもしれない。『白樺』派の一人で宗教哲学の研究者として出発、独自の探求のうちに民芸運動へと乗り出し、帝国日本の枠組みにおいて周縁化された植民地、とりわけ朝鮮文化へ愛着を示したことでも知られている。

 彼の思想の特徴は、文化的多元性とお互いの敬意に基づく「複合の美」を求める姿勢にあったと言えるだろう。それは宗教的心情や美的感覚にとどまらず、社会観・世界観に至るまで彼の中で一貫している。著者の専門は国際関係思想史であるが、そうした「複合の美」に着目しながら柳の生涯と思想を描き出し、そこから非暴力的な平和主義を汲み取ろうとするところに本書の眼目が置かれている。

 明治以降の近代化の過程で西欧への模倣に努めてきた日本のあり方に柳は批判的であった。東洋と西洋、それぞれが自らの独自性を示して相互の敬意を図っていく必要がある。では、西洋ではない、日本に独自のものとは何か? このような問いそのものは近代日本思想史を通観すれば頻出するもので、特に珍しいわけではない。ただ、柳の場合に目を引くのは、日本文化の美なるものを探ろうとしても、見当たるのは中国や朝鮮の模倣ばかりという困惑である。そうした懊悩の末に彼が見出したのが木喰仏であり、民芸であった。日常生活の中で普通に用いる器具にこそ、民族の心がじかに表われる。無名の工人が無心に作り続けた工芸には日常生活に根ざした信仰心が込められていると考え、「信」と「美」の一致を見出そうとしたのが柳の直観であった。

 彼が「民芸」として「発見」した日本の民族文化に独特な美があるとすれば、日本以外の民族にもそれぞれの美があるはずである。日本の美が西欧文化の圧倒的な影響力で消えてしまわないように願うならば、同時に日本が植民地支配を行っている地域の文化も尊重しなければならない。そうした思いから柳は、沖縄、アイヌ、朝鮮、台湾など日本による同化政策の圧力にさらされている地域の文化の行く末に危機感を抱いていた。

 神の意志という表現を用いるかどうかは別として、この世に存在するあらゆるものにはそれぞれの意義がある。『相互扶助論』を著したクロポトキン、「一切のものの肯定」を説いたホイットマン、「一枝の花、一粒の砂」にも「底知れない不思議さ」を見出したウィリアム・ブレイク、こうした思想家たちから強い影響を受けた柳の発想の根底には、あらゆる存在が相互に協力し合う中で自らのテンペラメントを開花させていくという考え方があった。グローバリズムが地球上の多様な文化を単一の色に染め上げて画一化してしまうことであるとするならば、そのような無味乾燥さは柳にとって最も耐え難いことである。

 どんな民族も、どんな個人も、それぞれがかけがえのない有意味な存在としてこの世界が構成されているという確信が柳の「複合の美」の前提となっている。そうした着想は、例えばハンナ・アレントの次の指摘を想起させる。


「…世界は複数の観点(パースペクティヴズ)が存在するときに限って出現するのだ。つまり世界は、いついかなる時でも、こんな風にもあんな風にも見られる場合に限り、初めて世俗的事象の秩序として現れるということである。もしある民族や国民が、または世界におけるそれ独自の位置──その由来はともあれ、簡単には複製されえない位置──から発するユニークな世界観を持っているある特定の人間集団が、絶滅させられるなら、それは単に一つの民族なり国民なりが、あるいは一定数の個人が死滅するということではなく、むしろ私たちの「共通世界」の一部が破壊されるということであり、今まで現れていた世界の一側面が二度と再び現れえなくなるということなのである。それゆえ、絶滅は一つの世界の終わりというだけではなく、絶滅を行う側もまた道連れにされるということでもあるのだ。厳密に言えば、政治の目的は「人間」というよりも、人間と人間の間に生起して人間を越えて持続する「世界」なのである。…互いに何かしら個別的な関係を持ち合いながら世界に存在する民族の数が多ければ多いほど、それらの間に生起する世界の数もますます多くなるし、世界はますます大きく豊かになるだろう。ある国家の中に世界を──すべての人々に公平に見え隠れする同一の世界を──見るための観点の数が多くあればあるほど、その国家は世界に対してますます意義深く開かれたものになるだろう。

他方で、万が一地球に大地殻変動が起きて、あとにはたった一つの国家しか残されなくなったとしたら、そしてその国家内の誰もがあらゆることを同一の観点から理解して、互いに完全に意見を一致させながら暮らすようになったとしたら、世界は、歴史的‐政治的意味では、終焉したことになるだろう。…掛け値なしの意味で、人間は世界が存在するところでしか生きてゆけないし、また世界は、掛け値なしの意味で、人類の複数性というものが、単一の種の単なる数的増加以上のものであるところでしか、存在しえないのである。」(ハンナ・アレント[ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳]『政治の約束』筑摩書房、2008年、206〜207ページ)

 一時期、ポストコロニアルやカルチュラル・スタディーズの流行に伴い、一見良心的に見える言動ではあっても、その中に潜む“植民地的暴力”を暴き立てる研究が目立ったことがある。粗探し、とまでは言わないが、はじめに結論ありきの恣意的な欠席裁判は建設的な仕事とは思えなかった。柳宗悦もカルスタ的な研究動向で俎上にあげられていたが(本書、12〜13ページ)、本書はそうした論調とは一線を画している。私自身は『民俗台湾』に集った人々に関心を持っているが、彼らに対しても同様に向けられたカルスタ的な批判への違和感はこちらに記した。

 なお、台湾で工芸運動を起こした画家の顔水龍は柳宗悦から影響を受けている。顔はもともと柳の著作を読んでいただけでなく、柳が1943年に来台し、『民俗台湾』同人の金関丈夫や立石鉄臣に連れられて台南へ来訪した折に顔が柳を案内してから個人的な関係も持ち、戦後になっても二人の交流は続いていた。

出典ブログ:
http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-dc03.html?cid=80980074#comments
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2013年09月10日

『民藝とは何か』(柳宗悦 講談社学術文庫)

日本民藝館という小さなmuseumは、知る人ぞ知る、日本が世界に対して誇れる施設だ。
その創設者である柳宗悦が書いたこの初心者への概説書(原本は1941年出版)は、「民藝」への入門書だけでなく、「近代」を問い直し、真・善・美に関する私たちの考え方を一新させるような ―あるいは真・善・美について私たちが知っていたことを思い起こさせてくれるような― 本である。

柳らの造語である「民藝」を、彼は「民衆が日々用いる工藝品」、「最も深く人間の生活に交る品物の領域」、「不断使いするもの、誰でも日々用いるもの」、「雑器」あるいは「雑具」などと説明する(21ページ)。彼はその民藝にこそ美を見出した。

その美の発見が、独りよがりなものでも、イデオロギー的なものでもない、純粋に直観的なものであることは、日本民藝館の展示物、そして展示の仕方と建物自体を実際に見れば疑いようのないことであろう。あるいは柳も言うように、茶道を創めた人々が見出し、後年「大名物」(おおめいぶつ)と呼ばれるようになった茶器は、特別に作られた美術品ではなく、当時の民藝に他ならなかったことからも明らかであろう。

仰々しく作られた「芸術」作品よりも、「民藝」にこそ美が存在することを柳は次のように説明する。

なぜ特別な品物よりかえって普通の品物にかくも豊かな美が現れてくるか。
それは一つに作る折の心の状態の差異によると云わねばなりません。前者の有想よりも後者の無想が、より清い境地にあるからです。意識よりも無心が、さらに深いものを含むからです。主我の念よりも忘我の念の方が、より深い基礎となるからです。在銘よりも無銘の方が、より安らかな境地にあるからです。作為よりも必然が、一層厚く美を保証するからです。個性よりも伝統が、より大きな根底と云えるからです。人知は賢くとも、より賢い叡智が自然に潜むからです。人知に守られる富貴な品より、自然に守られる民藝品の方に、より確かさがあることに何の不思議もないわけです。(31ページ)

そもそもあのわずかな高価な貴族的な品物の、ほとんどすべてに見られる通有の欠点は、一つに意識の超過により、一つに自我の跳梁によるのです。一言で云えば工夫作為の弊なのです。(73ページ)

繰り返すが、この審美は「貴族が悪くて、民衆が正しい」といったイデオロギー的なものではない。柳は日本民藝館のコレクションが、民衆的工藝品となったことを、
(1) 美しいものを集めたら結果的にそれが民衆的工藝品であった、
(2) 貴族的な品に美しいものがないわけではないが、それらの例外的存在はすべて「民藝美」の特徴である単純さや素朴さを備えていた、と説明する(106-107ページ)。

「民藝の美の特質」を柳は別箇所で、実用性、廉価性、平常性、健康性、単純性、協力性、国民性の7つの観点から説明する。(127-132ページ)。このうち、6番目の協力性は、個人主義以外の人間のあり方を忘れがちな近現代人にとって、非常に重要な指摘であるように私には思える。

第六は協力性の美をここに見出すということです。近世の美術品は作者の名を誇ります。他の誰にもできないような仕事であって個性の表現を示すものだと考えられます。それ故仕事は自分の名において作られるのです。ですが元来かかる習慣は個人主義が発生した後の現象で、誰も知る通り、東洋でも西洋でも昔はどんな優れた作にも名は記してありません。宗教時代のことでしたから、吾が名を誇る気持ちはなかったのです。民藝の世界に来ると再び無銘の領域に来るのです。作者は一々自己の名を記しません。このことは作者の不浄な野心や慾望を拭い去って、それを無心な清浄なものにしてくれるのです。しかもそれは大勢の人の協力の仕事なのです。これは工藝の性質自身が要求することなのです。焼物の例を取れば轆轤を引く者、削る者、描く者、焼く者、各々持ち場があって、それ等の人達が協力して仕事が完成されるのです。民藝品は個人の所産ではなく、多くの人達の協力的所産だということに大きな意義があるのです。将来の美学は、個人で美を産むということより、大勢で協力して美を産むということの方が、もっと大きな理念だということを教えねばならないと思います。個人の名誉よりも全体の名誉をもっと重く見るべきです。それ故人々は無銘品の価値をもっと見直さなければなりません。(130-131ページ)。


「無名」の現場教員が、互いに語り合っている場所の方にはるかに深い知恵があることを痛感している。もちろん有名者の話が常に駄目で、無名者の話が常に素晴らしいというわけではないが、高名・有名な人の話には、しばしば「意識の超過」や「自我の跳梁」、あるいは「工夫作為の弊」が見えるように思えて辟易することが多い。
美に関する柳の論考は、真や善に関する教育実践に関しても当てはまるのではないかと思わざるを得ない。

出典HP:http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/09/blog-post_23.html
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2013年09月08日

蒐集物語

柳宗悦『蒐集物語』(中央公論社、一九五六年二月二八日、装幀=芹沢_介)、この中の「盒子物語」の粗筋を知る機会があって、何とも面白く、全編を読みたいものと思っていた。「盒子物語」の粗筋はこうである。

大正の初め頃、柳は朝鮮京城の道具屋で染付に辰砂入りの可愛い盒子を見つける。一目気に入って予約、後日受け取りに行ったところ手違いで別人に売られてしまっていた。それから二年、李朝の蒐集家として知られた富豪、富田儀作の家でその盒子に巡り会う。手違いではなく道具屋は人を選んで売っていたのだ。柳は自分が先約だったことすら披露できずに指をくわえるしかなかった。しかし富田翁は数年後に歿し、コレクションは散逸してしまう。これでもう二度と盒子は手に入らないと諦めた。

昭和五年、柳はハーバード大学附属のフォッグ美術館に招かれてボストン近郊ケムブリッヂに滞在する。あるときボストンの山中商会を訪ね、朝鮮ものを探して地下室へ入ると薄暗い部屋に雑然と品物が置かれてあった。

《さうして重ねられたその箱を一つ一つ見て行った。ところが何たる奇遇か、その箱の一つから、例の辰砂の盒子と桃型の水滴とが肩を並べて共に現れて来たではないか。私は思はずも二つを掌の中にしかと握り、胸に抱いた。私は代金を支払ひ小さな包みを手に納めるまでは、それが現実の出来事とは思へなかつた。》

富田コレクションはほとんどを山中商会が引き受けていた。その一部がアメリカの各店舗に送られたが、まったく不思議な巡り合わせでボストン店に柳が想い続けていた盒子と桃型の水滴が届いていたのである。さらにそれらは米国では人気がなく地下室に長年放置されていた。

《私は多くのものを集めて来たが、こんなにも奇異な因縁に結ばれたものは少ない。又誰にだつて起る出来事ではない。それ故いつかこのことを書き記しておきたいと思つた。漸くその時が来て一部始終を綴るに到つたが、私の蒐集物語の中でも不思議でならない一例である。》

念ずれば通ず、ということか……それにしても。

和讃の古版本を見つける話も、こちらは古本譚だけに興味深いものがある(レベルは違うがこのブログでも『正信念仏偈』を紹介した)。

《仏書を求める方は、今も京都を訪はねばならぬ。》《明治この方昔に比べたらさびれては来たが、これでも丁字屋、平楽寺などの名は、もはや古典的な香りがある。近年、貝葉書院、法蔵館、興教書院、護法館など、何れも仏書で名を広めた。古書を扱ふものに竹苞楼や細川がある。中で最も多く仏書を売るのは其中堂である。(東京の浅倉屋も森江も名があつたが、度重なる災害を受けて、昔ほどの蔵書がない。大阪にはひとり鹿田があつた)。》

柳は越中砺波の古寺で目にした色紙和讃(一枚おきに紙色が変る仕立てになった版本)にノックアウトされ、どうにかしてそれに類するものを見つけたいと京都を訪れていた。

《せめて室町末か慶長頃のものでも見出せまいか。今はもう稀な版本であるから無謀な求めと思へたが、再び若しやとも考へられて、次から次へと厭かず本屋を探つた。焼け去つた東京から来ると、京都の町々は物で埋もれてゐるほどに思へた。店々は美しく着飾つてゐるのである。書物も眼を忙しくさせるほどであつた。私は幾冊かのものを得たが、併し求める古書は容易に姿を現はさなかつた。
 だが如何なる宿縁によるのであらうか。之こそ奇縁と呼ぶべきであらうか。或は導きに依るのだと見るべきであらうか。求める者には与へられることが約されてゐるのか。既に授けられてゐるが故に、それを受けるに過ぎないのか。偶然なのかそれとも必然なのか。何れにしても思議を越える。私が夢に描いたその和讃が、突如目前に置かれるに至るとは。》

しかも値段は柳の支払える範囲の、どうして?と疑問を抱く程だった。

《だが果して私が求めたと云へるのか。誰かが私に求めさせてくれたのか。私が和讃を追つたのか、和讃が私を追つてくれたのか。「求めよ、さらば与へられん、叩けよ、さらば開かれん」と聖句は云ふ。併しもつと切な真理は、与へられてゐる世界の中でのみ求めてゐるのだと云ふべきではないのか。既に開かれてゐる扉を開きたいと希つてゐるまでに過ぎなくはないのか。得るものは一物もなく、贈られるもののみが凡てなのだと思ひ得ないであらうか。そこまで考へずば説き得ない謎である。》

こう考えて柳は宿命論あるいは運命論にたどり着く。すべて予定されていた宿縁だと。

《私はあり余るほど幸福なのである。かういふ本に廻り合はせてもらつたこと。こんなにも見事な本が存在することを知るに至つたこと。その美しさを感じる心まで授かつたこと。さうしてそれを求め得、座右に置くほどの恵みを受けたこと。それにこの悦びを頒ち得る多くの友達さへ与へられてゐること。いつでもこの本で日本の書物を語らせて貰へること。私は幾度となく厭かずその頁を繰つた。私は幾人かの親しい友人に報らせの筆を急いだ。さうして尽きぬ美しさの泉をそこに汲み、遂にこの一篇を綴るに至つた。》

気持ちは分かる。それにしてもこの舞い上がった調子は、やはり京都で古い絵画などを蒐集した岸田劉生にも通じる単純さがあって(首尾よく手に入れたときには「神様ありがとう」と日記に書くような)、ちょっとあっけにとられるくらいだ。

鶴見俊輔は《白樺派には書物蒐集家はいない》(『柳宗悦』)と柳が若き日に書物蒐集をした時期があったにもかかわらず、後年にはブレイクの影響から直観を重んじる方向へ転じたことを論じているが、本当にブレイクが柳をこれほど単純にしたのなら、それはまさに「神様ありがとう」と言わざるを得ない宿縁だろうと思う。


出典HP:http://sumus.exblog.jp/20884792
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2013年08月02日

民藝へのルーツは、父・楢悦にあり

柳宗悦の仕事を考えるとき父親である柳楢悦(やなぎならよし)のことを書かねばならない。目指した道は違えど、父である楢悦のDNAをいろいろな所で引き継いでいるからだ。

楢悦は津藩の下級武士出身だが10代の末には何冊かの著書があったという。また23歳のときに長崎の海軍伝習所の第1期生として派遣され、西洋数学、測量学、航海学などを学び、これが礎となって明治5年40歳のときに海軍大佐、9年に初代の水路局長となり、大日本水産会の幹事になるのである(大日本水産会では養殖真珠の発明家御木本幸吉と昵懇の間柄である)。また平清盛、夢窓疎石、松尾芭蕉、本居宣長など三重県は多くの文化人を排出し、伊勢神宮は有形無形に文化の息吹を感じさせる土地でもある。そのような土壌とは決して無縁ではない。

宗悦も年譜によれば12歳で学習院の中等科に進むと後の白樺派の同人、志賀直哉、武者小路実篤らと親交を結び、20歳でバーナード・リーチの陶器に惚れ込む。21歳で白樺を創刊、25歳でウイリアム・ブレーク(18世紀末から19世紀にかけて活躍した、英国の詩人であり画家)の評論を刊行するという、父楢悦と同じように早熟なのである。

柳の交友関係は、広く様々なヒトとの出会いが彼を一回りも二回りも大きくさせていくのだが、人生を決定づけたのは、やはりバーナード・リーチとの出会いではなかろうか。彼が若干20歳の時である。27歳の時の朝鮮旅行で北京にいたリーチと再会、翌年我孫子の庭内にリーチの窯と仕事場を作るが30歳のときリーチの窯を焼失、31歳のときリーチと妻兼子を伴い朝鮮に行き講演会と音楽会を開く。同じ年にリーチの帰英告別展を催す、という具合である。リーチとの交際は生涯続き、河井寛次郎や浜田庄司らとも繋がっていく。

彼の著書「民藝四十年/利休と私」の中で利休と遠州を激しく非難している。
柳本人は否定しているが、利休によって茶道そのものが駄目になったとも捉えられる表現をしている。一般的には、利休によって侘び寂びが成就されたわけだが、人間利休は俗な事が図々しく平気ででき、人一倍権力に固執したのだ。秀吉によって切腹させられたという歴史的事実は、兎角秀吉を悪者にしがちであるが、利休は秀吉との権力闘争に敗れたとみるのである。時の為政者と結びついた茶道は、所詮金持ちの道楽にしか過ぎず、茶道具全てが権威主義と化してしまった。云ってみれば利休や遠州によって確立された茶道は、宗悦にしてみれば反面教師であり、その事に対する反動が民芸運動に向かわせたのだろうか。

彼が民藝を通じて唱えたのは雑器の美、用の美、民藝の美である。彼は下手もの、つまり日々の生活の中で使われる雑器の中に自然で力強い、しかも美しさが宿る器を見いだすのだ。利休を非難するのは、利休によって見立てられる器は一瞬のうちに高額で価値のある鑑賞物に変貌してしまう。そこからは欺瞞で塗り固められた嘘の美しさしか見えてこない。美術品が一部の天才個人によって作られるのとは対照的に、無名の工人によって作り出される、日常使いの用の美の方がはるかに美しいとみるのである。

民藝という言葉の響きはなんとなく田舎臭い、泥臭いというところはないだろうか。私の生まれた宇都宮の近くには益子焼があり、その益子焼の中から民芸運動の旗手浜田庄司が出てくる。浜田の器は父が何点か持っていたので子供の頃にそれを見て育ったが、他の益子焼に比べて田舎臭いという印象はなかった。

日本の焼き物は、秀吉が文禄・慶長の役の時に連れてきた朝鮮の工人達によって大きく華開く。宗悦が朝鮮の器に魅かれて何度か朝鮮に行き、35歳の時に浅川伯教・巧等と京城に朝鮮民族美術館を開設する。日本の陶磁器の故郷は朝鮮に有りと云っても過言ではないのであろう。同じ頃に木喰上人を甲州の旅の途中で発見するが、この旅に宗悦を誘ったのが他でもない浅川巧みであった事は、単なる偶然で片付けられない何かがある。

木喰とは出家した僧が米野菜を食せず木の実山菜のみを食して修行する僧の通称で個人名ではない。二人いて五行という江戸後期の遊行造像僧で甲斐の生まれで名は名満。45歳で木喰戒を受け、千体造仏を発願し、円空と並び称される。その木喰上人の彫った像が生まれ故郷の甲州にあったのを見た宗悦が感動したのだ。木喰は宗悦によって世の中に出たと云っても良い。

この二つの出来事(朝鮮の陶器と木喰上人の仏像)は宗悦を急速に下手物への関心を深めるのだ。民藝の美とは雑器の美、用の美に他ならない。日常の中に美を見出す事の重要さがそこにあるのだ。

器は使ってなんぼのモノであろう。少なくとも飾って楽しむモノとは所詮住む世界が違うのである。日常的に使うモノの中に、自然と対峙できる本当に美を見つける事、が宗悦に課せられた定めであるという、宗教的な啓示が宗悦の中に常にあったのではないだろうか。現代でいうところのアートディレクターとして、宗悦の果たした役割は大きい。日常雑器や用としての美は、日の当たるところではなく、むしろ日の当たらないところでの仕事にその価値が光っている。それを見つけ、日の当たるようにすることがプロデューサーの仕事なのである。何時の時代もそのような人を求めているし、そのような人の出現を待っているのだろうか。

出典HP:
http://www.japan-premium.jp/column/col_009.html
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2013年07月27日

柳について岩波新書から新刊本

岩波新書より、7月19日に 『柳宗悦ー複合の美 』という東大出版会からだされた本がいよいよ新書版で出されることになった紹介がされていた。こういう夏の時期に嬉しいことなので、紹介したい。
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サブタイトルにある「複合の美」について、著者は柳の次のようなことばを紹介し、これこそ柳の全活動を貫く思想だと述べています。

  野に咲く多くの異なる花は野の美を傷めるであろうか。互いは互いを助けて世界を単調から複合の美に彩るのである

 いままで「民芸の柳」として語られることの多かった柳宗悦を、民芸を超えて多様な活動をした人物として、とりわけ「複合の美」を求めた平和思想家として描きだそうとした意欲的な一冊です。

 もちろん、柳の生涯、民芸の活動についても多くのことが書かれています。ぜひ書店で手にとってご覧ください。

(新書編集部 平田賢一)


■著者からのメッセージ

 柳は人であれ、地域、民族であれ、それぞれがもてる資質を最大限に発揮し、互いが互いを活かすことによって世界全体がより豊かになるよう願いながら、社会通念と闘い続けた思想家であった。そのような人物として、近現代日本の思想史上独自の位置に立ち、しかもその独自性によって、現代の問題に対しても多くの示唆を与えてくれる。暴力連鎖のやまない世界の現状から抜け出す方法を模索したいと考えるとき、あるいは人心の荒廃した現代社会のなかで、質の良い人間関係を取り戻したいと願うとき、柳の生涯から学べることは、きわめて多いのではないか。

(本書「まえがき」より)


■著者紹介
中見真理(なかみ・まり)1949年東京生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士課程(外交史・国際関係論)単位取得退学。現在、清泉女子大学文学部教授。専攻は、国際関係思想史。
 著書に、『柳宗悦 時代と思想』(東京大学出版会、2003年:同韓国語版、金順姫訳『柳宗悦 評伝:美学的アナキスト』ソウル:暁享出版社、 2005年)、 In Pursuit of Composite Beauty: Yanagi Soetsu,His Aesthetics and Aspiration for Peace (Trans Pacific Press & University of Tokyo Press,2011)

 主要論文に、「清沢冽の外交思想」(『みすず』19-7、1977年7月)、「太平洋問題調査会と日本の知識人」(『思想』728、1985年2月)、「日本外交思想史の研究領域を考える―戦後日本の平和論を問題にしつつ」(『年報近代日本研究』10、1988年)、「ジーン・シャープの戦略的非暴力論」(『清泉女子大学紀要』57、2009年)。

出典:
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1307/sin_k718.html

 
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2013年07月10日

柳宗悦@京都大学大学院文学研究科・文学部hp

京都大学大学院文学研究科・文学部 の思想家紹介「柳宗悦」のページは略歴が手際和よく分かり易い。
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_philosophy/jp-yanagi_guidance/
他に、柳思想、参考文献などが纏めてあるのを、上記HPで確認できる。

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1889(明治22)年、柳宗悦は東京市麻布区市兵衛町二丁目十三番地に貴族院議員である柳楢悦と母勝子の三男として生まれる。父は彼が幼少の頃に亡くなったが、父の残した莫大な遺産によって何不自由なく成長し、学習院初等科に入学。中等科に進む頃に、後に共に雑誌『白樺』を創刊する志賀直哉や武者小路実篤らと知り合い、生涯の友となる。更に学習院高等学科では、鈴木大拙や西田幾多郎に学び、1910(明治43)年、無事高等学科を卒業後、東京帝国大学文科に進む。また『白樺』はこの年に創刊される。

東京帝国大学で哲学を専攻した柳は、当初、宗教に深い関心を示していたが、ウィリアム・ブレークに興味を持ったのをきっかけに、宗教と芸術の関係に関心を持つようになる。1913(大正3)年、東京帝国大学卒業後、声楽家の中島兼子と結婚し、千葉県我孫子へと転居する。その後、我孫子へは志賀やバーナード・リーチも転居し、白樺同人もしばしば訪れたために、さながら芸術家コロニーのようであったという。

1919(大正8)年、『宗教とその真理』を刊行、四月に東洋大学教授となる。朝鮮の美術に関心を持っていた柳はこの頃盛んであった朝鮮の独立運動に関して日本の朝鮮政策批判の文章を書いている。更にこの後数年にわたり、しばしば朝鮮を訪問し、「朝鮮民族美術館」設立を計画、1924(大正13)年完成にこぎつけた。

1924(大正13)年、前年の関東大震災で被災した柳は一家で京都へ転居する。そこで濱田庄司を介して河井寛次郎を知り、しばしば三人で京都の市に出向く。そこで発見した古い器や着物、いわゆる「下手物」が後の民藝思想へと繋がっていく。  またこの年、甲州で木喰仏を見て、研究を初め、翌年1925(大正14)年、『木喰上人之研究』に多数の論考を発表。

1926(大正15/昭和1)年、河井・浜田と高野山で民藝の運動について話し、その後『日本民藝美術館設立趣意書』を発表、さらに『越後タイムス』に「下手ものの美」を発表。この頃から柳の民藝運動が始まる。

1929(昭和4)年、『工芸美論』刊行、さらに1931(昭和6)年、月刊雑誌『工藝』を創刊。この頃、頻繁に民藝品収集のため日本各地を旅する。1934(昭和9)年、日本民藝協会を設立、会長に就任し、同年十二月『美と工藝』を創刊。1936(昭和11)年、大原孫三郎の援助などにより日本民藝館が完成する。

1938-39(昭和13-14)年にかけて沖縄に滞在し、豊かな沖縄の民藝を知り、その紹介と保存に尽力する。また当時沖縄でなされていた本土への同化政策(具体的には標準語欣行運動)に批判的立場をとり、その後の沖縄方言論争を巻き起こすことになった。

1949(昭和24)年、『美の法門』を上梓。その後も活発に著述、調査旅行を行うが、この頃からリウマチと心臓の不調に悩まされるようになり、1961(昭和36)年、72歳で没する。
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