2012年08月09日

大原孫三郎と柳宗悦

民芸への着目・蒐集という点では大正半ばから始まっていたのだが、大正15年、柳宗悦、河井ェ次郎、濱田庄司等とともに日本民藝美術館設立計画に参画。1928(昭和3)年、御大礼記念国産振興博覧会会場に民藝運動の同人と諮(はか)り「民藝館」を落成される。これは都市に住む中産階級に新しいライフスタイルを提示するためのモデルルームで、その什器には同人作家の品や日本各地で作られた民藝品が選ばれた。また、この頃柳は再建中の東京帝室博物館に対して、蒐集した民藝品の寄贈と展示室の設置を申し入れている。しかし、この提案はあえなく断られて、これを機に、官に頼らない美術館設立の決心を固めることとなった。なお、1929年に訪れたスウェーデンの北方博物館も、柳の美術館構想 に大きな影響を与えていった。

博覧会終了後、民藝運動の支援者であった実業家の山本為三郎がこの建物や什器を買い上げ、大阪・三国の山本為三郎邸内に移築して「三国荘」とした。以後この三国荘は、東京駒場に民藝館が建設されるまで、民藝運動活動の拠点としての役割を果たした。そして、大原孫三郎との出会いから2 年後、日本民藝協会−柳が会長に就任−が1934年に設立された。そのさらに2 年後、日本各地から蒐集した民芸を展示する日本民藝館を大原孫三郎をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、1936年(昭和11)、自邸隣に日本民藝館を開設した。

もっとも、柳の美術館設立の夢は、早くは1917年に発表された白樺美術館建設計画であり、柳は『白樺』同人としてこの活動の中心メンバーとなり活動。施設の完成までには及ばなかったが、私設美術館の先駆けとなった。

柳が日本民藝館設立の構想計画を初めて実際に語ったのは、1926(大正15)年に河井寛次郎、濱田庄司と出かけた高野山の山寺でのことでした。柳は、それより2 年前に淺川巧と共同して韓国のソウルに李朝の民芸品を展示する「朝鮮民族美術館」(現ソウル)を1924年設立していた。「朝鮮民族美術館」は朝鮮王朝の王宮であった景福宮内に開設した。これは主として朝鮮時代に作られた無名の職人の手になる民衆の日常品の美を紹介するための小規模な美術館で、当時、価値が全く認められていなかった李朝の白磁や民画などの価値を見出した柳には、日本民藝館の原点ともいえる存在である。

このような希望を抱いてから民藝館が実際に出来上がるまでの経緯について、柳は次のように回顧している。「吾々が發願して此の仕事の端緒についたのは大正十五年のことでした。趣意書を印刷し吾々の目的を公開しました。早くも多くの既知未知の友から好意ある援助を受けたのです。かくして諸國に蒐集の旅を重ね、先づ展覧會を介して其の結果を世に問ひました。又文筆の道で吾々の見解を述べ、圖録を通して民藝が何であるかを語りました。月刊『工藝』も同じ要求から生れ、逐次號を重ねて行つたのです。かくして凡そ十ヵ年餘りの準備時代が過ぎました。遂に民藝館設立が具體化されたのは昭和十年の秋十月でした。之は全く大原孫三郎翁の好誼によるものであることを銘記せねばなりません」、「館が遂に建つに至つたのは、社會事業に熱意を持たれた故大原孫三郎翁から、金拾萬圓の寄贈を受けたことによります。・・・當時、この金額は實に敷地を購ひ、建物を設け、調度を整へるのに足りるものでありました。・・・是等のことに關し一切の自由を私共に與へられた大原翁の寛容に深く感謝せねばなりません」との見解を柳は示している。また、「何たる幸なことであらうか。それは昭和十年五月十二日のことであつた。その頃漸く建て終つた私の家を見にこられた。それは野州地方でのみ發達した石屋根の建物で、もと長屋門として用ゐられてゐたのを移したのである。その折共に集つたのは山本為三郎、武内潔眞、濱田庄司、バーナード・リーチの諸兄であつたと記憶する。卓を圍んで談が偶々民藝のことに及んだ時、大原氏から次の様な意味のことを話し出された。『十萬圓程度上げるから、貴方がたの仕事に使つて頂きたいと思ふが、凡そその半額を美術館の建設に當て、殘りの半分で物品圖書などを購入せられてはどうか』。その折の大原氏の慇懃な言葉と、盡きない好誼とに對して、私達は充分な辭さへなかつた。私達が永らく希願して止まなかつた一つの仕事が、これによつて實現せられるに至つたのではないか」というように、柳はその時の状況を詳細に描写もしている。

大原美術館に入ると「受胎告知」や教科書で見た事のある作品や柳宗悦に「もう教える事はない。」と言わしめた棟方志功の「釈迦十大弟子」がある。また、大山崎山荘美術館は、移り平成に入り、天王山麓の大規模開発が計画され、付近の環境破壊が懸念された。天王山周辺地域の景観を保全したいという地域の方々の熱意に応え、京都府が大山崎町、アサヒビールの協力を得て加賀正三郎の山荘を保存することとした。山本為三郎が日常の暮らしにもって親しく愛用したもの(山本コレクション)の多くは、こうした作家との交流の中から蒐集したもの、また柳宗悦の優れた審美眼をもって、朝鮮の民族文化に対する深い理解者であった浅川伯教・巧兄弟が山本の支援により調査中蒐集した古陶磁である。

*山本為三郎は、朝日ビールの初代社長。


出典;
大原孫三郎の民芸支援
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28555/19/Honbun-4336_17.pdf
日本民芸館HP
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2012年06月01日

朝鮮をこよなく愛した柳宗悦

 柳宗悦(1889〜1961)は日本民芸運動の創始者、日本民藝館の開設者である。20歳の時、神田の骨董店ではじめて朝鮮白磁を見て、その芸術の優秀さ、美に魅せられ、72歳でこの世を去るまでの生涯を、朝鮮を愛しつづけた日本の良心を代表する数少ない知識人の一人である。

 陶磁器をはじめ朝鮮の芸術品を愛した彼はその作者である朝鮮人、朝鮮民族を尊敬し、朝鮮を限りなく愛した。幾度となく夫人を伴って朝鮮を訪問した彼は「朝鮮に住みたい」とまで講演会で述べている。

柳はただ朝鮮をこよなく愛しただけではなく、多くの著作と芸術品収集等の活動によって朝鮮と日本の関係史に多くの業績をのこした。その業績を4つに大別して述べてみたい。

 第一に、柳は日本の朝鮮支配、植民地化は不当であると反対し、正義の言論を行なった。そして朝鮮民族を抹殺する同化政策を徹頭徹尾批判したことである。

 1919年、朝鮮全土で朝鮮人民の3・1独立運動が起きた。「独立万歳」を叫ぶ平和的なデモであったが、日本は軍隊まで動員して苛酷な弾圧をおこなった。日本の侵略と暴虐行為にたいし、日本の一般大衆はもちろん、知識人も沈黙していた。「黙している事が私には一つの罪と思えた」という柳は、当時の「読売新聞」に論文『朝鮮人を想う』を発表して、日本の罪行を告発した。

「先ず彼等から奪ったものは軍隊であり、我々から送ったものは彼等のでない我々の軍隊であった。我々は先ず永遠の独立を彼等に不可能ならしめる固定した方法をとった。」

 「日本は不幸にも刃を加え罵りを与えた。之が果たして相互の理解を生み、協力を果たし、結合を可能にするだろうか。否、朝鮮の全民が骨身に感じる所は限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。独立が彼等の理想となるのは必然な結果であろう。」

 柳はその後の論文「朝鮮とその芸術」で朝鮮は独立すべきであり、日本の同化政策は間違いであると次のように批判した。

 「2つの国にある不自然な関係が正される日のくることを切にねがっている。正に日本にとっての兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも日本にとっての恥辱の恥辱である。」

 「朝鮮固有の美や心の自由は他のものによって犯されてはならぬ。否、永遠に犯されるものではない真の一致は同化から来るものではない。個性と個性との相互の尊敬に於いてのみ結ばれる一があるのみである…」

 柳のこのような発言は日本の官憲から睨まれることになり、私服刑事が家の周辺をうろつき、つねに監視された。

 第二に朝鮮の芸術品の美を発見して、その優秀さを賞賛するだけでなく、ひろく内外に紹介した。

 当時、多くの日本の知識人は朝鮮の芸術は中国の模倣であるといった。それにたいして柳は言う、

 「朝鮮の美は固有であり独特であって、決してそれを犯す事は出来ぬ。疑いもなく何人の模倣をも又は追随をもゆるさぬ自律の美である。只朝鮮の内なる心を経由してのみあり得る美である。私は朝鮮の名誉の為にもこれ等のことを明晰にしたい。」(『朝鮮の友に贈る書』)

 「日本が国宝として世界に誇り…国宝の国宝とよばれねばならぬもの殆ど凡ては、実に朝鮮の民族によって作られたのではないか…正等に言えば朝鮮の国宝とこそよばれねばならぬ。」(『朝鮮の美術』)

 彼はそのあかしとして法隆寺の「百済観音」、「玉虫厨子」、広隆寺の「弥勒菩薩」をあげ、奈良正倉院に伝蔵されている古作品の「大部分は恐らく朝鮮から伝来したものであろう。」推古の黄金時代の日本は「朝鮮の美で飾られていた」といい、朝鮮の芸術は「世界の最高の栄冠を戴く」と賞賛もしている。

 第三に光化門を総督府の破壊から守り、散逸していた朝鮮の美術品を募集して「朝鮮民族美術館」を開設して、これを保存した。

 柳は景福宮の前に立つ歴史的建造物である光化門を総督府が破壊する計画を知り、抗議文「失われんとする一朝鮮建築のために」を書いて内外に訴えた。これが功を奏して、光化門は破壊を免れ、移転保存されることになった。

 柳はまた、陶磁器、仏像、木工品、民画、民芸品等の貴重な芸術品が朝鮮から散逸していることに心を痛め、私財を投じてこれ等の芸術品を集め、当時朝鮮林業試験所に技師として勤めていた淺川巧の協力を受けて、1924年ソウルに「朝鮮民族美術館」を開設した。総督府は「朝鮮」という文字を看板から抜くように迫ったが、柳は最後まで抵抗して、「朝鮮」を守った。柳が集めた芸術品は現在、韓国国立博物館に保管されている。また、柳はこの経験を生かして、日本に民芸運動をおこし、12年後の1936年東京に日本民藝館を開設した。一室には朝鮮の芸術品が常時陳列されている。

 第四に21回にわたり朝鮮を訪問し、多数の朝鮮人と接触して文化交流、心の交流を行なった。

 朝鮮人に対する日本人の蔑視、偏見、差別意識が社会全体をおおっていた1920年代、柳は自宅に常に4、5人の朝鮮人留学生を下宿させていた。兼子夫人はソプラノ歌手で何回か朝鮮の地で独唱会を開き、収益金を柳の芸術品募集に当てた。1921年5月5日の東亜日報は次のように伝えている。

 「朝鮮人を本当の心で愛する人は東洋大学教授の柳宗悦である。また豊かな、円熟した技芸を持つ…柳兼子氏はその夫人である。…朝鮮の友である彼らは、朝鮮を愛し、朝鮮の美術を愛するので…民族の命が流れる古代美術品が朝鮮から流失することを誰よりも惜しく思って、朝鮮民族美術館をたてた。」

 柳の朝鮮観にはもちろん、「独立のために革命をしてはならない」等の思想的な限界もみられる。しかし、当時、植民地となった朝鮮民族にとってはまさに暗黒の時代であった。「民族」を否定され、日本帝国主義の暴虐に訴えることもできなかった朝鮮人にかわって、柳が勇気ある正義の発言をしたことや、朝鮮の芸術品の優秀さ、美を発見し、世界に紹介したこと、朝鮮人と心からの交流をしたことなどは、彼の思想的限界をはるかに超える立派な行動とし、高く評価されるべきであろう。

 韓国の詩人崔夏林は柳のヒュ−マニズムは「1920年代の朝鮮人にとってそうした悲しさを慰めてくれた存在であったが、独立国家の主人となった今日のわれわれにとってはもはや必要もない。」と批判した。はたしてそうであろうか?在日朝鮮人の私としては肯定しがたい。

 在日同胞が蔑視、偏見、差別がいまだ残っている日本の中で朝鮮人としての誇りと自覚をもって生きるためには、民族文化を理解し、朝鮮人に敬念と情愛をもって接してくれた柳のような日本人は植民地時代だけでなく、依然として今日も貴重な存在である。

2002年の朝・日首脳会談後、マスメディアによる北朝鮮たたきが執拗にくりかえされ、とどまるところを知らない。日本国民のなかに蔑視、不信、嫌悪感といった反朝鮮感情が増幅されている。また、大物政治家による植民地支配を正当化する妄言がくりかえされ、朝鮮民族の尊厳を傷つける発言まで公然と行われている。多くの良心ある日本の知識人は沈黙している。

 このような時こそ、1920年代の厳しい状況下で朝鮮を愛し、朝鮮民族の尊厳を守るために体を張って行動した柳宗悦の人間的な器の大きさが改めて認識されるのである。

鄭 晋 和 (歴史地理学部 五期生)元 歴史地理学部教授

*本稿は『丹青』第二号所収の論文「柳宗悦の朝鮮観の考察」を鄭晋和先生のご好意によって大幅に集約し掲載してもらったものである。
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2012年05月31日

映画「道 〜白磁の人〜」 

我孫子文化講演会
 映画「道 〜白磁の人〜」 の歩みと想い

 http://hakujinohito.com/index_kr.html
   ↑クリックすると映画が動画で紹介が見られます


講演の講師:李 春浩
     映画「道〜白磁の人〜」上映をすすめる会副代表
     元カメラマン

日 時 7月29日(日)16:00〜
場 所 我孫子アビスタ 1階 ホール
資料代 500円

6月封切の日韓合作映画「道〜白磁の人〜」は日韓友好に人生を捧げた浅川巧を描いたこの映画の完成として、大きな反響を呼んでいます。
我孫子ゆかりの柳宗悦と浅川巧は、互いに朝鮮の陶磁器の魅力にほれ込んで、生涯かけて協力しながら韓国の工芸を再評価しました。それを知った松本市在住の李春浩氏も情熱と努力を傾けて、その豊かな人脈によって映画の製作に協力して、完成に漕ぎつけたものです。
映画完成に至る間の日韓の理解を進める道のりも簡単ではなかったということですが、柳宗悦が惚れこんだ朝鮮の美、当時の時代などについても語って頂きます。

お問い合わせ:04-7184-9828 

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2012年05月23日

柳宗悦、『朝鮮を 想う』

『日本民藝館創設70周年記念特別展 柳宗悦と朝鮮民画』を観てきたのですが、まず日本民藝館のたたずまいとその内部が素晴らしく、関連する本を何冊か眺めているうちに、肝心の展覧会が終わってしまい記事にできなかったというわけです^^;

柳宗悦(やなぎ・むねよし 1889〜1961)については「日本民芸運動の祖」程度の知識しかなかったのですが、「その源流に、朝鮮の民芸の美との出会いがあった」(高崎宗司)ことを知りました。

柳 宗悦『朝鮮を想う』(高崎 宗司編・筑摩叢書293/1984)を図書館から借りて、例によって“ぱらぱら読み”をしました。

高崎さんの解説から ―

浅川伯教(のりたか)は、1913年、朝鮮の美術に魅かれて朝鮮に渡り、小学校の先生をしながら朝鮮陶磁器の研究に志していた。その浅川伯教が1914年秋に、李朝染付秋草面取壺を手みやげに柳を訪ねたことが、1916年8月の柳の初めての朝鮮・中国旅行につながった。

そして、その旅が伯教の弟・巧(たくみ)と知り合い終生の友となる契機となった。朝鮮を愛し、朝鮮の民芸を愛した浅川巧の「家に泊めてもらった時から朝鮮の民芸の美へ大きく目を開いた」ことは、柳にとって幸運な朝鮮との出会いであったといわねばならない。

注目すべきは、当時はまさに朝鮮は日本の支配下にあったという時代背景です。「柳には、もっぱら朝鮮の芸術の素晴らしさについて書いた文章、換言すれば、朝鮮の政治的・社会的現実には直接触れていない文章と、「朝鮮人を想う」のようないくつかの時務的な文章」とがあって、柳自身がそのことについて、「第一には朝鮮問題に対する公憤と、第二にはその芸術に対する思慕」があったと記しています。

このため柳の書いた文章のなかには、「当局」から睨まれ大量の伏せ字を余儀なくされるものもありました。それでも、「柳は、東京から釜山(プサン)まで行くのに二日もかかった1920年代に、現在確認されているだけでも14回、朝鮮を訪れ」ます。そして ―
柳宗悦は二つの計画を立てた。一つは朝鮮芸術史を書くことであり、もう一つは朝鮮民族美術館を設立することである。

柳は、1921年1月号の『白樺』に、「『朝鮮民族美術館』の設立に就いて」を発表し、朝鮮民族美術館を東京にではなく京城の地に設立する計画を明らかにした。「特にその民族とその自然とに、密接な関係を持つ朝鮮の作品は、永く朝鮮の人びとの間に置かれねばならぬと思う。その地に生まれ出たものは、その地に帰るのが自然であろう」と考えたためである。

そして、1924年4月9日、朝鮮民族美術館は京城の旧王宮・景福宮内の小建築物・緝(シュウ)慶堂内に開設された。

(1945年の日本の敗戦=朝鮮の独立に伴い、朝鮮民族美術館は、韓国国立民族博物館に吸収され、その後、国立中央博物館に再吸収された。)

引用文中の「京城」とはソウルのことで、Wikipedia によると ―

「京城」(日本語読みで「けいじょう」(歴史的仮名遣では「けいじやう」)、朝鮮語(韓国語)読みで「キョンソン」。)は日本統治時代(1910年 - 1945年)に使われた名称。1910年9月30日に施行された朝鮮総督府地方官官制に基づいてそれまでの「漢城府」から「京城府」となった(「府」は日本内地でいうところの「市」に相当)。実際には 1945年以降も数年間使われている。このことから現在の韓国では、日本によって強制的に変えさせられたとの認識が一般的で有り、差別用語と主張されることもある。一方で、一部の商店や企業名など(京城紡績、現在の京紡)には今なお「キョンソン」の名称が残っている。

そして「景福宮」はご存知『らぶきょん〜LOVE in 景福宮』、【宮(クン)】の舞台でもあります^^
 
幾重にも歴史が折り畳まれています。

出典:
 お楽しみはこれからだブログ(2006年12月)

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2012年05月16日

柳宗悦と浅川巧

日本民芸館の「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を観、柳宗悦の『民芸四十年』を読んで考えたことをまとめました

1 柳宗悦の朝鮮陶磁器コレクションと「安宅コレクション」
4月1日(2010年)から日本民芸館で「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を開催している。民芸館の創立者柳宗悦自身が収集した朝鮮陶磁器のベスト約270点を展示している。「当館が誇る朝鮮陶磁器コレクションの至宝展とでもいうべきもの」。
最近、李朝の白磁などに異様に惹かれている私は数ヶ月前から楽しみにしており、いよいよ明日という晩は寝付けなかったぐらい興奮していた。豊かなコレクションで圧倒してくれるだろうと期待したのだ。ところが、実際に観て、私は少しばかり失望したのだった。質量共に、それほどではなかった。陶磁器の口部分などの破損や全体的なシミなども目に付いた。
こう思ったのは「安宅コレクション」と比較したからだ。「安宅コレクション」とは安宅英一(安宅産業)の中国、朝鮮の陶磁のコレクションで、現在は大阪市の東洋陶磁美術館で観ることができる。これは専門家から「第2次大戦後も収集された東洋陶磁のコレクションとしては世界的に見てももっとも質の高いもの」「高麗・朝鮮の陶磁は私的コレクションとして世界第1といっても過言ではない」(林屋晴三)と言われる。私はこのコレクションに親しむようになり、その朝鮮の陶磁器に強く惹きつけられていた。今回の民芸館にやや失望したことで、安宅コレクションの質量がいかに高いかを思い知ったように思う。そこでは1つ1つの作品が完璧な保存状態であり、完成度や質が高い。


2 柳宗悦の『民芸四十年』の生き方

4月に柳宗悦の『民芸四十年』、鶴見俊輔の『柳宗悦』を読んだ。柳宗悦には20年以上も前から関心があり、岩波文庫から彼の著作が刊行されるたびに購入していたが、なかなか読む機会がなかった。自分の中に、そのきっかけを作れないでいた、と言った方が良い。
今回、急に矢も楯もたまらず、『民芸四十年』を読みたくなり、一気に読み終えた。それは、柳の民芸という考え方の根っこに、朝鮮の陶磁器への開眼があることがわかったからだ。柳も最初から「民芸」という観点があったわけではない。朝鮮(李朝)の陶磁器のすばらしさに目覚め、その意味を深めた結果、より普遍的な民衆の芸術、民衆の生み出す美に気づき、それを日本に当てはめた時に見えてきたのが日本の「民芸」「工芸」の姿だった。

しかし、改めて思い出すと、このことは私も前から知っていたことに気づく。私の側の問題だったのだ。最近になって、私の中に、朝鮮(李朝)の陶磁器への熱い思いが生まれていた。それが機縁となって、柳宗悦の軌跡が、私の中にストンと腑に落ちたのだ。ずいぶん長い時間がかかったものだと思う。
柳の偉さ、凄みが、まっすぐに、私の中に入ってきた。柳は単なるコレクターや美学者ではない。彼は朝鮮(李朝)陶磁の美にめざめただけではなく、その陶磁器が美しく立派なものならば、その制作者もまた立派に生きていると見極めていた。それは美の基準の変革にとどまらず、人間・民族への評価を変え、社会や歴史の見方をも変えるほどのものだった。それゆえに、柳は日韓併合の状況下で朝鮮側に立って発言することになる。それは社会的な軋轢を生み、柳はさまざまな勢力から批判や攻撃を受けることになる。そうした中で、柳はひるむことなく自分の道を最後まで歩いていった。最期に待っていたのは念仏宗であり他力道である。結果として残された柳の人生の軌跡のみごとさに、うなってしまう。


3 民芸と民衆と

「朝鮮の友に贈る書」「失われんとする一朝鮮建築のために」など、柳は当時の日本の朝鮮への植民地政策、同化・教化政策に反対したが、当時にあってそうした日本人は少数に限られていた。しかし、それは政治的な発言というよりも、朝鮮の美とそれを生みだした朝鮮文化と民族を守るための、美に生きる者としてのやむにやまれぬ行為だった。
その中で柳は2つのことに気づく(「四十年の回想」より)。1つは、朝鮮人自身が柳たちのコレクションに関心を持たなかったことだ。そこで柳は「朝鮮人に代わって美術館を京城に設置」した。これが柳が作った初めての美術館になる。しかし「朝鮮側からの思いもかけぬ反対に出会った。下賤の民が作った品々で朝鮮の美など語られるのは、誠に以て迷惑だというのである」。
一方、日本人には朝鮮の陶磁のコレクターはいるが、柳の観点とはやはり違う。柳のは民間の雑器が多かった。一番違うのは、彼らは「朝鮮の品々は好きではあるのだが、それを通して朝鮮の心を理解しようとするのではなく、まして朝鮮人のために尽くそうとするのでもなく、ただ自分の蒐集欲や知識欲を満足させているのに過ぎない」点だ。「それで私は義憤を感じて、朝鮮人の味方として立とうと意を決した」。それが「朝鮮の品物から受ける恩義に酬いる所以」だ。ここに、安宅コレクションと日本民芸館のコレクションの決定的な違いがある。
この2点の指摘からは、柳が問題にしていることは、日本と朝鮮の間で朝鮮の側に立つ、という単純な図式ではすまないことがわかる。同じ朝鮮内部でも、「下賤の民」が生んだ「美」に盲目な人々がいるのだ。もちろんそれは日本国内でも同じである。
朝鮮の陶磁の美を発見した柳は、それを生みだした朝鮮の文化と民衆を発見し、民芸を発見した柳は、民芸を制作する民衆の価値をも発見したのだ。
それは柳が誰を友とし、師としたかによく現れている。柳自身は上流階層の出身であり、学習院で学び、白樺派の同人として活躍した。しかし、そこから大きく逸脱した付き合いをしている。柳に朝鮮の陶磁・工芸の美を教えた浅川伯教、巧の兄弟との付き合いだ。


4 浅川伯教、巧兄弟

朝鮮を愛して朝鮮に暮らしていた浅川伯教、巧の兄弟。伯教は小学校の教員(後に李朝陶磁の研究者)、巧は林業試験場の下級役人である。柳はそうした二人を尊敬し、深く信頼していた。
浅川巧は朝鮮語を学び、朝鮮服を着、朝鮮人として生きようとし、朝鮮人を愛し、愛された。41歳で急逝するが、その葬儀には多数の朝鮮人が参列し、彼らがその棺を担いだ。巧は朝鮮人の共同墓地に葬られた。

巧の死後の柳の追悼文は以下だ。「私はわけても彼を人間として尊敬した。私は彼ぐらい道徳的誠実さをもった人を他に知らない」「私は彼の行為からどんなに多くを教わったことか、私は私の友だちの一人に彼を持ったことを名誉に感じる」。巧の遺児である園絵は民芸館と柳を終生支え続けた。

私が気になったのは、浅川兄弟がメソジスト派のキリスト教徒だったことだ。その信仰と彼らの生き方の関係だ。江宮隆之著『白磁の人』(浅川巧の生涯の物語)では、それを強調し、巧と朝鮮人をいたぶっていた日本の軍人が回心し、キリスト教に入信するエピソードを入れている。彼ら兄弟の信仰は柳の念仏宗への帰依に近いものだろうか。

出典:中井浩一ブログ (2010・5.2)




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2012年04月21日

コンサート「柳兼子 〜魂の歌唱〜」

下記、お知らせです。
----- Original Message -----

Sent: Monday, April 09, 2012 8:11 AM
Subject: あびこ声楽家協会の大久保です



> さて、此の度メール致しましたのは、わたしが代表をしております”あびこ声楽家協会”主催コンサートの件です。
>
> 私どもは、6月2日に我孫子けやきホールにて ”柳兼子〜魂の歌唱”というコンサートを開催(2時開場)いたします。
> ご存知のように、我孫子は、北の鎌倉と称し、白樺派の拠点となった時期がございます。
> その中、柳宗悦やバーナード・リーチも民芸運動を活発化させました。
>
> 今回は、その柳宗悦の妻である柳兼子というアルト歌手を取り上げます。
> 彼女は日本声楽界草創期の偉大なる歌い手で、夫・宗悦とともに、我孫子に移り住み、
>
> 物心両面で宗悦の民芸運動を支えました。
> 彼女の足跡は、CDでも発売されておりますし、白樺文学館においてもそのうたごえを聞くことが可能となっております。
> 今回の演奏会では、彼女が我孫子在住時にさまざまな演奏会で歌った曲を中心にプログラムいたしました。
> 協力として、
> 白樺文学館(演奏会当日、ホワイエにて関連の展示も予定)、
> 白樺派のカレー普及会(兼子が作ったというその当時のカレーを復元。演奏会当日、ご来場いただいた方
> にそのレトルトをプレゼント)、
> そして後援として我孫子市教育委員会にサポートいただくことになっております。
> 皆様のお知り合いの方に、ご紹介いただければと思い、メールいたしました。
> 是非、お越しいただきたいと思っております。
>
> ちらし添付いたします W421382校正表.pdf

> ご協力いただければ幸いです。
>
> 季節の変わり目、お体ご自愛のほど、お祈りいたします。
>
> 大久保光哉ホームページ  http://www4.hp-ez.com/hp/sv-mitsuya/;

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2012年03月21日

カレーと兼子

我孫子ゆかりの文化人(4)    4月22日    伊藤一男

「夫の民芸運動を支えた声楽家
柳兼子」

 柳兼子(1892~1984年)は東京の下町育ちながら東京音楽学校 で声楽を学び、文字通り日本声楽界の草分け的な存在となり、「明治
大正昭和の生きた声楽家」と言われた。初舞台が18歳、公式演 奏最後のリサイタルが85歳とのことであるから、演奏活動は実に70年近くにも及び、まさしく「我が国声楽界の至宝」に相応しい女性で あった。彼女は演奏活動の傍ら、夫宗悦の精力的で多様な民芸運動を 物心両面で支え続け、「朝鮮民族美術館」設立に奔走する夫に共鳴して自らもリサイタルを開催し、多くの人々と厚くて深い親交を築いた。そのうえ、3人の息子を育て上げた良妻賢母でもあった。


 柳兼子のこのような波乱に満ちた多様な活動も、我孫子から始まった といえよう。
 兼子は明治43年(1910年)、雑誌『白樺』創刊の数日前 に柳宗悦に会い、長い交際期間を経て大正3年(1914年)に結婚し、その7ヶ月後に我孫子に転居して来た。その年の暮れには、帝国劇場で山田耕筰指揮のもと80名のオーケストラをバックに歌劇『カ ルメン』のなかの「ハバネラ(恋は野の鳥)」を独唱した。その頃長男を身ごもっていた身体でもあり、自分でも決して満足のいく内容ではなかったが、彼女はそれをバネにさらに研鑽を重ねた。大正4年に長男を出産、さらに2年後に次男を出産した。ちょうどその頃、実家の鉄工場の倒産もあり、家計も大変だというのに白樺同人が「公共白樺美術館」 を設立するというので、その資金集めのために「柳兼子独唱会」を各地で開催するなど、まさに大車輪の活躍であった。

 しかし、実生活ではなかなか苦労も絶えなかった。とにかく、大正デ モクラシーの真っ直中にあった白樺同人の男性たちは、勝手気ままな亭主関白が多く、柳宗悦も例外ではなかった。仏教思想にも造詣が深く、外では朝鮮民族への愛と同情を説く夫
宗悦もうちの中では専制君主そのものであったという。兼子に対しても、一個の自立した芸術家である前に、妻であり、母であることを要求した。それに加えて、連日、自宅を訪れる白樺派の友人たちにも酒肴を振る舞わなければならなかった。


 結婚前に掲げた「理想の愛」も、現実にはままならぬことが多く、夫婦二人の間にしばしば乖離を生じた。とりわけ、夫
宗悦のなかに隠された封建的な男性気質と、自立した声楽家である妻兼子の勝ち気で激 しい性格がぶつかり合った。兼子は少女時代から、女性の身につけるべき教養と生活技術を母から厳しく仕込まれ、良妻賢母へのこだわりが強い一方で、夫には盲従せず、主張すべきは主張した。しかし、宗悦と掲げた「理想の愛」を生涯手放すことなく、その精神を具現化していったであるが、その生きる強い姿勢が我孫子時代にも端的に現れている。


ついでにこぼれ話:
 我孫子には白樺派文人に関する郷土史研究家がわんさといる。白樺文 学館という小さな博物館もあって、そこでよく講演会も開かれる。最近 ある郷土史研究家による「柳兼子カレー考証」という講演があり、大正の初期に我孫子の手賀沼湖畔に住んでいた白樺派文人たちが堪能したカレーを再現する催しがあった。柳兼子が自宅を訪れた面々に振る舞った カレーの味をよみがえらせるために、当時のレシピを研究し、試食をす る会であり、もう何回もやっているそうだ。そもそもそのカレーという のは、柳邸の敷地内に窯をもっていた陶芸家のバーナード
リーチが「カレーライスに味噌を入れたらうまいだろう」と言い出したのが発端 であり、兼子が試しに粒味噌を入れたところ、意外にも美味しいカレー ができたという。 


出典:伊藤一男HP (2006.4)
  

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2012年03月20日

映画『兼子』

『兼子』(映画)の画像

工業デザイナーの柳宗理さんのお母様であり、日本民藝館元館長で宗理さんのお父様の柳宗悦氏の夫人でもある柳兼子さんについてのドキュメンタリー映画。

以下映画の紹介文より引用します。

柳 兼子 1982(明治25年)〜1984(昭和59年)
日本有数のアルト声楽家、柳兼子のドキュメンタリー。87 歳まで現役の歌手として活躍した兼子が歌う日本歌曲を織り交ぜながら、夫となる柳宗悦との出会いなど、兼子の人間性に迫る作品。和服姿で凛と歌いあげる兼子の姿に、日本語の美しさ、力強さも改めて実感できるはず。
 
〈アルトの声楽家として18歳から87歳まで演奏活動を続け、92歳、死の2ヶ月前まで後進の指導にあたった柳兼子。明治・大正・昭和を生きた彼女の音楽活動そのものが「わが国の生きた音楽史」ともいわれています。また兼子は夫、柳宗悦の白樺派の文化活動、民芸運動にも妻として、声楽家として協力、経済的にも大きく貢献しました。そして、母として、3人の子供たちの養育にも力をそそぎました。兼子を敬愛する人々20人の、インタビューによって描き出されるのは、激動の時代を生きた一人の女性の心の軌跡です。兼子晩年の演奏は、日本歌曲の詩歌に込められた、日本の美しい言葉の復権です。兼子は言っています。「芸術は心である」とー。 

出典:映画『兼子』

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2012年03月19日

柳宗悦を支えて

京王井の頭線「駒場東大前」を降りて閑静な住宅地を歩いて行くとキラキラしたタワーが輝く東京大学先端研があります。仕事で何度か訪れたのですが、その度に入口の手前に建つ古めかしい館に興味を抱いていました。残念ながら仕事を終えその館の前を通るといつも「閉館」になってしまっているので、まだ中を覗いたことがありません。この館の名前は「日本民藝館」といいます。
 
 行楽地のおみやげ屋さんに並んでいる「民芸品」。広辞苑(第五版/岩波書店)によると民芸とは「庶民の生活の中から生れた、郷土的な工芸。実用性と素朴な美とが愛好される」とあり、続けて「大正期、柳宗悦らの造語」とあります。意外と新しい言葉ですね。

 この言葉をつくりだした「柳宗悦」は白樺派の民藝運動家で、冒頭記した日本民藝館を設立した人です。彼は"民藝=用の美"の世界を追究するべく、古市で目についた民芸品を買い漁り、朝鮮半島の陶磁器に惚れ込み、木喰仏にのめり込み、大変な蒐集家となります。蒐集品を連れての引っ越しは貨車二十数両を必要としたそうです。これはいくらなんでも多すぎますね。これらの蒐集品は民藝館に収められています。

 当時は「生活品」としてさほど値の張らないものも混じっていたとはいえ、こんなに蒐集するのにはさぞお金がかかったことだろうと想像してしまいます。そのお金はいったいどこから湧いてきたのでしょう。
 宗悦は大学で教鞭をとるなど収入はありましたが、それらはほとんど本や民芸品蒐集に費やされ、生活費を家に入れるような「一家の大黒柱」ではなかったようです。そんな彼と彼の民藝運動を支えていたのが、新刊『柳宗悦を支えて』(小池静子著/小社刊)の主人公、柳兼子です。
 
 柳兼子はただの奥様ではありません。家庭を顧みず民藝運動に情熱を注ぐ夫を影日向で支え、家計を遣り繰りし、家事を切り盛りし、三人の息子を育て上げました。それだけでも只者ではないのですが、彼女は日本を代表する女性声楽家だったのです。演奏会や教職で収入を得、それで宗悦の運動を支え、家計を支えていたのです。どれほど多忙な日々だったのか想像もつきません。

 彼女の声楽家としての実力は素晴らしいものでした。国内だけでなく、宗悦の関係で頻繁に訪れていた朝鮮をはじめ、当時日本人など見向きもされなかった声楽の本場ヨーロッパでも好評を博しています。
 ここまで一流の声楽家ならば、付き人を何人も連れて身辺の世話など全て人任せでもおかしくないくらいですが、彼女は人手にほとんど頼らず、夫や姑、息子三人の世話もこなしているのです。大勢の宗悦のお客様をもてなし、民藝館を手伝う人々を労い、生徒にお稽古をつけ、各地でステージに立ち、戦時中には畑も耕し、幾人分もの人生を一人で背負って奔り続けます。なんというか、凄まじくエネルギッシュです。

 『柳宗悦を支えて』を読んでいて不思議に思うことは、なぜこんなに我が儘な「オレ様」に尽くし続けられるのか、ということです。味噌汁をかけるわ浮気はするわ、宗悦は「明治のオトコ」で片付けられないくらい灰汁が強い方です。しぶとく宗悦を大切にし続ける兼子をすごいナーと思いつつ、そんな殿方には惚れたくないナと正直に思ってしまいます。兼子ですらつらそうだったので、私にはその妙はわかりかねます。
 愛し続ける器量の深さも天下一品。柳兼子の生涯には見習うべきところが満載です。

出典: 現代書館(2009.11)

posted by その木なんの気、柳の気 at 12:04| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月18日

声楽家「永遠のアルト 柳兼子」

富国強兵、軍国主義の中にあって女性は家庭を守るものという意識が徹底して教化されていた時代です。親の許しがあって結婚しても(音楽)学校を退学せねばならず、恋愛をテーマにした歌は歌えず(歌曲の多くは恋愛歌ですよね.)、男女混声合唱をするといっただけで、教鞭を追われるという、女性にとって自立するということがいかに難しい時代であったかちょっと想像してみて下さい。

その時代の中で、兼子は主婦として母親として、白樺派の一員として、優れた一芸術家としての女性を全うしたのでした。
(当時の我孫子は電気やガス、水道などもちろんありませんでしたし、お店などもないに等しかったのですよ。これは主婦としてはひどく大変なことです。)

そればかりか、経済的な面でも柳宗悦、白樺派の活動に大いに貢献したのです。民間の国際交流を積極的に続けながら、朝鮮民族美術館設立のための資金、白樺派が構想した白樺美術館設立(実現せず)のための資金の多くも兼子がリサイタルなどを通じて獲得したものでした。

また、こんな逸話も残っています。
『兼子見ろよ、これがお金で買えるんだよぉ、ありがたいじゃないか。』
各地の雑器(民藝)を買い漁る宗悦に言われ、その気になってなけなしの財布をはたくこともままあったとか。でもなんという口説き文句でしょう。これいいですね。

戦前、自他ともに認める日本最高のアルト歌手であり、本場ドイツで絶賛された初めての日本人でもありながら、全盛時の作品は現在わかっている限り、ほとんど残っていません。また、評価といえるような評価もされていません。

兼子は柳宗悦とともに朝鮮独立を公言し、朝鮮支配を批判していたため、私服刑事に見張られ、特高にも監視されたこともありました。
戦時中も、国民の士気高揚のために軍国主義化する音楽界から身を引くような形となり、実質的な音楽活動が途絶えてしまったのです。
加えて、戦後の混乱期を抜け出てようやく現場復帰を果たしたものの、当時まだ一段低いものと見られていた日本歌曲の唱法の確立に情熱を傾けていたせいもあり、半ば忘れ去られた存在となりました。ときおり、小規模なリサイタルを各地で催していたものの、LPを出すようなレベルのものは録音されなかったようです。

現在残っているのは30代と80代のときの数枚のSPとLPのみです。
ある日、柳兼子について書いている松橋桂子さんという方が兼子のLPを持っているというので結局貰い受けたが、ただし、このLPは兼子の80代の時のものでフラストレーションはたまるばかり。
2001年1月11日白樺文学館 開館式。当日、取材に来ていたNHKの熊沢ディレクターもその会話に参加し、興奮して番組制作に没入することに・・・
2001年3月22日、柳兼子のCDを特集した小番組『声楽の母 幻の録音テープ発見』が放映され、各地で大きな反響を呼んだということです。

というようなわけで2001年4月26日にCD 《永遠のアルト 柳兼子》がグリーンドア音楽出版より発売されました。
CDのタイトルは当初、『ハバネラ』という構想だったのを松橋さんの提案で『永遠のアルト』というタイトルになりました。
これには、松橋さんの『柳兼子という人間を正当に評価し、記録を残す』という長年の情熱と執念がこもっているように思えます。


柳兼子 永遠のアルト 1957〜77年 CD3枚組み
定価 7500円 プラス消費税 (グリーンドアGD-2001〜2003)
また、NHKの小番組『声楽の母 幻の録音テープ発見』を見たい方は来館の上、お申し出下さい。録画したものがあります。(※ CD《永遠のアルト 柳兼子》は絶版につき入手できなくなっております)


楷書の絶唱 柳兼子伝
松橋桂子著 株式会社水曜社
3500円+消費税
普通の本屋さんにはあまり置いてないと思います。民藝館にもないとか・・・
白樺文学館にて税込み3500円で取り扱っております。

出典:
白樺文学館 HP より抜粋


  Youtube 柳兼子 Caro mio ben
http://www.youtube.com/watch?v=oVtqnJe6FPo
posted by その木なんの気、柳の気 at 15:15| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする